| 両シチリア王国 | ||
| 1130年〜 | フランス系ノルマン人による統治 | *シチリア伯ルジェーロ2世により建国 |
| 1194年〜 | 神聖ローマ帝国による支配 | **ホーエンシュタウフェン朝ハインリッヒ6世が両シチリア王位 を兼ねる |
| 1265年〜 | フランス・アンジュー家による支配 | |
| 1282年 | シチリアの晩鐘 | シチリア島はアラゴンの支配下に、半島はナポリ王国 |
| 1442年 | 両シチリアの再併合 | アラゴン王アルフォンゾ5世がナポリ王を兼ねる |
| 1492年〜 | イタリア戦争(〜1544年) | 両シチリアの再征服を狙うフランスとイスパニアの争いに巻き込まれる。 |
*ロベルト・ギスカルト
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ノルマンディーの小領主の息子としてうまれる。 ロベルト自身は鉄腕グリエルモ死後、1046年頃に南イタリアへ渡ってきたと思われる。他のノルマン人の警戒心もあって、異母弟であったロベルトは領地も家臣も与えられずむしろ冷遇されていたが体格もよく、頭も切れるロベルトはイタリア半島のつま先カラブリアで自力で領土を獲得。 |
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ロベルトが南イタリア征服に燃えていた頃にこの事件はおこった。破門された神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世がカノッサにいる教皇のもとでひたすら許しを願ったと言う、いかに破門が恐ろしくそれゆえ教皇の権力が強大であったか示す出来事だが、ロベルトには何の意味もなかった。教皇領に近い場所で征服をくり返すロベルトに対して教皇グレゴリウス7世は何度も破門を言い渡すが効き目がない。当然この二人は仲が悪い。 |
| ロベルトは征服しても敗者には寛容な態度を取り続ける。むやみに見せしめや報復的処置を行わないばかりか、イスラム教の信仰も認めていた。 南イタリアは異なる人種、異なる宗教が混在し、むしろ少数はだったノルマン人のロベルトはこのような統治をするほかなかったと思われる。 このような寛容政策が実を結んだのが弟ルッジェーロが支配者となっていたシチリアだった。 |
| ロベルトはギリシャ征服の遠征中に病死する。同じノルマン人の反乱や征服のための戦いの連続の中で、ヨーロッパ最古の大学とも言われる医学校をサレルノに開設している。ロベルトの後、南イタリアの支配権は一旦息子に譲られるが軍事的才能に恵まれておらず、次第に叔父のシチリア大伯ルッジェーロに移項する。 1130年、 シチリア大伯ルッジェーロの後をついだ子ルッジェーロ2世は教皇からシチリア王位 を認められ、シチリア王国が成立する。 |
**フェデリコ2世
| 1194年、フェデリコはドイツ王位と神聖ローマ皇帝位を継承していたホーエンシュタウフェン朝の王子としてイタリアでうまれ、シチリアのパレルモで養育される。フェデリコの父はハインリッヒ6世、母は初代シチリア王ルッジェーロ2世の娘、シチリア王家の唯一の王位
継承者の王女コスタンツァ。しかし、フェデリコ3歳の時に父が亡くなり、母はフェデリコをシチリア王として戴冠させることを条件に実権を教皇庁に渡してしまい、その後病死してしまう。 孤児となったフェデリコの後見人になったのは英国王ジョンを屈服させ、イングランド全土をローマ教会に差し出させた教皇イノケンティウス3世であり、この頃の教皇の権威は絶頂期を迎えていた。教皇庁に従順なキリスト教君主に育てるべくパレルモに優れた学者を送るがフェデリコの天才ぶりはそれをはるかに越えてしまうものだった。 ロベルト・ギスカルドからの流れで、他民族国家で、異教の民が共存していた当時のシチリア王国はヨーロッパ最先端の学問と芸術が発展していた。こうした環境の中でフェデリコは9カ国語を話し7カ国語の読み書きができたと言われている。加えて、芸術面 でも才能を発揮するようになる。 |
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教皇領はドイツとシチリア王国に挟まれた教皇庁の外交方針は北との争いには南に助けを求め、南との争いには北に助けを求めると言うものだったから、ドイツとシチリアの2つの王位
を持つフェデリコが教皇庁に従順なキリスト教君主であれば何の問題もなかった。ところがフェデリコは有能な君主になる可能性が出てきた。そこで、フェデリコのドイツの王位
を無視してオット−4世をドイツ兼神聖ローマ皇帝として戴冠させる。ところがオット−4世が教皇を裏切り、教皇領を脅かすようになる。仕方なく教皇は南のフェデリコと手を結ぶ。 |
| フェデリコは十字軍を率いて聖地エルサレムを奪回する約束をしていた。ホノリウスの督促にもかかわらず、遠征を開始する気配を見せない。フェデリコの育った環境では十字軍の意味はそれほど重大なことではなかったのかもしれない。しかし教皇にとっては聖地奪回は使命でもある。ホノリウスの後をついだグレゴリウス9世もやはりフェデリコに十字軍の遠征を迫った。ようやく聖地に出発したのが1228年、しかし、艦隊に疫病が発生して途中で引き返してしまう。フェデリコの行為にグレゴリウス9世は皇帝を破門。 フェデリコは剣ではなく、ペンで聖地奪回を試みる。当時エルサレムを支配していたエジプトのスルタンに親書を送って交渉を始める。パレルモと同じようにキリスト教徒とイスラム教徒が共存できる街にしようというわけである。 これまで十字軍は遠征軍と各十字軍都市の協力によって行われてきた。ところがグレゴリウス9世はフェデリコへの協力を一切禁じた。 十字軍を妨害する教皇と、聖地奪回よりもその教皇の指示を優先し、イスラム側に密告する聖職者たち。しかしこの時のスルタン・アル・カーミルはフェデリコの素質を見抜き、フェデリコに使者を送る。イスラム世界に通 じた教養人フェデリコに心服し後々文通を続ける仲となる。 1229年、互いに信仰の自由を認めあう条件で講和が成立。フェデリコはエルサレム王として戴冠された。 |
| フェデリコの宮廷には優れた学者や芸術家が集まり、音楽、踊り、道化と言った趣向を凝らした宴が催されていた。 自身、様々な学問に通じ、狩りは『動物学』 の研究のためであり、鷹狩りの手法と鳥類の生態を研究した著書もある。宮廷の庭の動物園にとスルタンから象などの動物を送られている。イタリアで口語文学が生まれたのもフェデリコ時代のシチリアで、中世ヨーロッパで最初の国法書『シチリア王国法典』を1231年に発布している。プ−リア各地に王宮や城を建設、カステル・デル・モンテ城も彼の作った城の一つ。 |
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フェデリコの野望は教皇だけでなく、北イタリアの自由都市国家からも反発される。各地で教皇派と皇帝派の対立が激しくなり同じ市民が泥沼の戦争を起こす事態にもなって行った。そのさなか、1250年、プ−リアの地でフェデリコは永眠する。 |
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