設計事務所主宰者: 服部弥重子 : 昭和21年生.まれ(1946年)
長野県長野市綿内村(現長野市若穂)に村医者の長女である母直子の長女として生を受ける。この時兄12歳,次兄6歳。末に生まれた女の子は母の夢であったようだ。
すでに時代は戦後: 父は戦前からその専門であった結核療養所の専門医として関東(逗子、他)の療養所勤務から戦中の肋膜炎の為,
故郷である長野へ疎開していたこともあって、同じ長野県上田市の結核療養所を任され勤務が始まったようだった。
しかし私のかすかな記憶の中にもその療養所の建物は不思議な場所であった。 同じ部屋が道に向かって並んでいる病室らしいものかわからないが、私達家族の住んで
いた家も又病院とはあまりにもかけ離れた空気の家であった。お勝手は土間でそこに井戸があった。夏はよくそこで西瓜を冷やした。
二階は障子と襖の仕切られた部屋が幾つかあった。そこはかつての赤線地帯だった場所を国が新しい地域の療養所として結核の医療が始まったようだった。
(現在の新屋地区)
その井戸はかつて寿司のネタを冷やす為の冷蔵庫だったのである。 そして更に最近になって知ったことでもあったのだが、その料理屋の建物こそ、今でこそ再建された
が、上田城址公園のやぐら門の楼であったものをそこに移転していた、と言うものである。
その後、私が6歳のころ:昭和27年(1952年)
上田市内の太郎山の麓に、新しく「国立上田寮養所」として木造の平屋の病室の並ぶ病棟が1棟,又1棟と、これまた長い渡り廊下をつなぎながら山の麓へと広がっていた。
国の官舎等というものは中廊下式の応接間付きの和室が2間,台所と小さな納戸部屋と、桶のお風呂がモルタルの床においてあるだけの、木のスノコを敷いて入る浴室が
あり、廊下の突き当たりがブリキ張りの洗面所で,着替えはその廊下ですることで、あとはボットン便所、玄関が家の割にやたら広かったのが印象的であった。
同じくモルタルのみの玄関の框は腰掛けるほど高く、よく病院にくる患者さん達がなぜか受付をしてから待っている間、その玄関先で母を相手に長いおしゃべりをする
のにも丁度よい高さであった。
母はよくその玄関先で座布団を出し,お盆にお茶を持ってきて患者さんや、いろいろなお客さんの相手をしていた。 中には山から朝早くおみやげに持って来たウサギや、
きじが、少し暗い中廊下の壁に足を縛られぶら下がっていたものだった。そして診察時間の来るまでゆっくりと父とも一緒に朝食やお茶を飲んでキセルのタバコを
欅のタバコ盆でポンとたたいては煙をたなびかせて、山の話をしていた患者さんもいた。
そして私達子供の遊び場は病棟間をつなぐ程よい傾斜のモルタルの渡り廊下、そこで三輪車を走らせ病院の食事のワゴンが行き交う狭間をすり抜けて遊んでいた。
太郎山に向かって緩やかな傾斜の草の生えた道は子供の、犬のそしてその療養所の患者さんの散歩道でもあった。その道に沿って水草のたなびく「思い川」
と言う名のきれいな小川が流れていた。昔は断水というのが結構頻繁にあって、その「思い川」まで柄杓と桶を持って母に付いて水を汲みに行った事が思い出される。
そこに見える風景は,ただ遠くまで畑が広がっていて高圧線の鉄塔がどこまでも続いているのが見えるだけ、その先は山々が幾重にも連なっているだけだった。

そんな平和な日々に兄が自分の部屋が欲しくなってきたころ、洗面所の突き当たりが破られ4畳半の勉強部屋が増築されたのであった。 私が10歳の秋であった。(1956年)
毎日やってくる大工さんの仕事振りに私はすっかり興味を奪われていた。大きな出窓が東側の垣根いっぱいの所まで広げられ、南にも腰掛けると程よい高さの出窓が
付けられた。そして南側の庭からの出入り口も設けられて、その先には木のベランダまで出来たのだ。薄暗い中廊下の先の洗面所は真っ白な陶器に取り替えられ、
その先には兄の素敵な勉強部屋が出現したのである。 もちろん西側の母屋との境の壁はしっかり本棚と押入れが設置された。
こうして部屋を作る楽しさを目の当たりにしてから、4年後,やっと私の部屋として使うことが許された。それからの私は朝日の当たるこの部屋で目覚め、兄のように勉強に
励むより、小説に読みふけり、空想に,時には詩人になり,時には小説の主人公に恋焦がれ、一方で成績はがた落ち、部活だけが楽しみの高校生になっていた。
それでも兄に負けじと,高校は当時未だ女子は染谷高校へいく女子がほとんどだった時代に、無理やり意地で受験勉強だけはがんばって男子の多い上田高校へ
入ったのであった。
昭和39年頃(1964年) 東京オリンピック 新幹線開通
そして進路を決める季節がやってきた。高校3年生の夏、偶然目にした新聞の家庭欄に私の求めていた進路が紹介されていたのである。
その頃は女生徒にとって親元を離れて大学に進学するのはまだ少ない時代であった。それだけに,その進路はまさにぴったりの条件であった。
そこは生活学,住宅の設計、デザインを身につけ,卒業後はそんな仕事にもつけそうなことが書いてあったのである。 私は即座にここだ! と決め,父や母に
私は「ここに決めたからね」、と新聞を見せた。 早速本屋に走って分厚い大学紹介の載った「蛍雪時代」だったかの雑誌を開いて調べてみると、案の定,学校のすぐ裏には
明治時代からの伝統ある学生寮が完備していて、うっそうとした木々に囲まれたすばらしい環境である。との事!ますます気に入って行く私であった。
昭和40年 日本女子大家政学部住居学科入学 http://www.jyukyo.net
NHK朝の連ドラにこの女子大の寮生活のことが出てくる「春よこい」というのがあった。橋田寿賀子もこの女子大の出身である。
この時代はまだ和室しかなかったようだが、私が入った時は、その森の一番奥に新しく鉄筋コンクリートの四階建て地下室のある全て洋室の寮であった。
部屋は四人部屋で四年生から1年生までバランス良く割り振られて、私の入った部屋はやさしク個性的な四年生が2人、新入生が2人という組合わせであった。
部屋は作り付けのベッドが両方の壁側に並び、部屋の中央に本箱と机が向かい合わせに並び座っている限りはプライヴァシ−は保たれた。
それ以外はいたってオープンで明るい庭に面した快適な住まいであった。
寮生活はその頃はまだ寮監というやはり女子大の出身である独身の女性が管理者として居て、生活の全てが彼女の指揮に従って動いていた。
朝の起床から食事掃除などから様々な当番が決められていた。特に食事当番は専属のお手伝いさんがいて、その人の手伝いをしながら料理も覚えた。
又寮の入り口には監視員が居て門限になると木の扉が閉められてしまうのであった。門限ぎりぎりになったり過ぎてしまうと、その監視のおじさんが小さい木戸を開けて
くれるのである。門の外は青春真っ只中の女子大生の青春模様があふれていた。
昭和41年(1966年)
大学にも慣れ、寮生活も時折深夜の男子学生の進入事件があったり、青春真っ只中の女子寮に繰り広げられる様々な恋愛劇を目の当たりにしながら2年目を迎えた。
楽しくてたまらない時間は目白駅の田中屋のケーキを食べに行く時だった。
やがて時代は1970年安保といわれる時代に突入する前触れが始まっていた。
学校はにわかに騒々しくなって来、甲高い声のアジテーターがハンドマイクでベトナム戦争の加担者である日本政府、大学の批判を、たて看板の前で始め、
新聞はベトナム戦争(丁度大学入試の頃アメリカはベトナムに正義の戦いとして進入したのであった)が長引いている事を日々報道していた。
戦争は残酷な写真を世界中にばら撒きながら、アメリカは自国の中からもベトナムに平和を、徴兵拒否運動、戦争反対の歌が生まれ、世界中の若者が肩を組んでデモに
参加し始めたのがこの頃であった。 大学の仲間も小田誠率いる「ベ平連」 (ベトナムに平和を!市民連合)に参加する人、大学の学生組織に参加する人、様々な
立場で、ベトナム戦争反対のデモに参加する人が増えていった。 一方平和過ぎる寮の中にも自治を求める波が入ってきていた。
学生の主宰する集会が持たれ、寮監達がつるし上げられていた。古い伝統が崩れ始めたことで多くの矛盾も見えてきた。
やがて一人又一人と寮を出ていく仲間が増えていった。私も親に相談もせずに自分で学校の仲間のいた下宿屋を見つけ、寮を出たのであった。
昭和44年(1969年)
永遠に終わらないかのようにベトナム戦争が続いていた。一方、私達も卒業の年を迎えた。
卒業論文のテーマは「身体障害者の為の授産施設の研究」などという大それたテーマにしてしまった為、パチンコマニアの家族持ちの相棒と一緒にアンケート調査に
町に繰り出した。すでに有る授産施設を調べ、そこで働く障害者の方にアンケートを依頼した。
しかし返ってきた答えはひたすら「一般の人並みの生活がしたい。」「一人前の時計などを持ちたい」「普通の人並みの仕事がしたい」
当然ながら、こういった授産施設の実態はある意味では30年経った今でも大して進んできたとは言えない。
仕事の内容はさほど変わっていないし、国の保証制度が少し良くなったかもしれないが、仕事が保証されてはいない。
福祉関連の公共機関が増えそこでピュアカウンセラーといった立場での仕事は増えてきているかもしれない。
当時未だ街の中も車椅子で自由に歩き回る事は出来なかった。その点はバリアーフリーを目指すハートビルが確立されてきただけ世の中は障害者に開放されてきた
と言える。 しかしまだまだイギリスのような
<タウンモビリティ−>には程遠い。http://www.optic.or.jp/takahashi-cci/syouten/sakaemati4.htm
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上高地帝国ホテル敷地
そして社会人となる・・・・・・・・・・職暦のコーナー・・・・・・・・・・・・・
昭和44年3月 日本女子大住居学科卒業
4月 地域計画研究所入所
観光地実態調査 (湘南海岸商店街)
環境計画富士山麓
45年10月 東大山梨県社会福祉村計画プロジェクトチームに参加
↓
46年8月 長男出産
10月 日本理化学(株)−民間の福祉工場― ・・・福祉の実態を学ぶ・・・
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47年9月
10月 (株)日建設計東京事務所計画部にアルバイトで勤務
芦屋浜工業化工法超高層住宅計画コンペプロジェクト参加
伊藤邸新築工事(両親の家)設計
新宿フェアレーンズビジネスマンション計画新築工事参加
沖縄海洋博文化館計画参加・・・敷地模型
千葉県青果卸売市場計画参加
51年3月 神戸市須磨区垂水に移住・・・毎朝瀬戸内の海を見に散歩に出かける。
10月 北須磨団地営繕勤務
52年9月 一級建築士取得
52年12月 (株)日建設計大阪事務所都市計画部アルバイト勤務・・・中之島の明治の建造物を見学
大阪市大正区海浜公園計画参加
54年3月 象設計集団神戸アトリエ「いるか設計集団」勤務・・・明治の神戸居留地の建物
・・・ 仕事の合間に神戸の古い洋館、石造、レンガ造建造物見聞・・
神戸市王子動物園鳥類舎新築工事・・・コンクリート打ち放しの壁に鳥のシルエットを描く、
鳥舎屋上から観察可能なデザインになる・・・
同 猛きん類舎・・・スチールの面白さ・・・
同 ジェットコースター乗り場遊歩道新築工事・・・スチールアートを楽しむ・・・
中前邸新築工事・・・吹き抜けのワンルームとローコストを実現・・・
昭和56年12月 次男出産
58年3月 神戸市から長野県豊科町に移住・・・田園風景の中で自然を満喫、冬の厳しさも知る
5月 アトリエ獏 家具・製作工房・建築設計工房を開設・・・昭和初期の木造の民家を借りる
田口邸新築工事・・・木造茶室付
堀金村烏川建売住宅新築工事・・・木造大屋根
太田邸新築工事・・・駐車スペースを取り込んだ木造
清水電気貸しビル新築工事・・・鉄骨造地下1階地上2階建て
その他住宅の計画案、ホテル計画案、店舗付住宅計画案
在米(ヴァージニア州)Loving夫妻住宅計画案・・・
60年5月 現地を見に行く・・・広大な敷地に驚く・・・ご主人の水上スキーができる池のある広さ
60年9月 (株)環建築アトリエ(高校の同級生の事務所)に移籍
61年4月 現東御市(東部町)に移住・・・標高910の生活が始まる。
・・・冬の朝の通勤の厳しさを知る、夏の快適さ、四季の自然を楽しむ生活・・・
大久保邸新築工事・・木造 担当
大野邸新築工事・・木造 担当
長野プロパンガス塩田工場新築工事・・鉄骨造 担当
ささき医院新築工事・・鉄骨造 担当
石原産業(株)丸子工場増築工事・・鉄骨造:石原邸新築工事・・木造 担当
塩尻運動公園管理棟:公衆トイレ・・集成材による木造 担当
小さな美術館内装改修工事・・唐松材使用 担当
北沢邸新築工事・・中庭を囲む木造 担当
ヤマガミマンション新築工事・・鉄骨造3階 担当
平成元年4月 自宅ログハウスの設計・主人と弟子2人で工事に入る・・・平成4年入居
柳沢邸新築工事・・木造ステップフロア‐ 担当 家具製作・・アトリエ獏
京都府美山町小学校新築工事・・集成材による木造 事務所全員
(株)アメニティーズ古里店新築工事・・集成材による木造担当 家具製作・・アトリエ獏
同 臼田店新築工事・・ 同 担当 家具製作・・アトリエ獏
第3上田ひもろぎ園(障害者施設)新築工事・・コンクリート壁構造、鉄骨混構造 担当
上田インタービル新築工事・・鉄骨造5階建て 担当
坂下邸新築工事・・木造 担当
愛知県黄柳野高校(自主授業制高校)新築工事・・集成材による木造校舎 担当
角田邸新築工事・・木造 担当
(株)アメニテイ―ズアムアムビレッジ新築工事・・鉄骨造 担当事務所一丸
同 岩村田店改修工事・・鉄骨造 担当
同 ニュー百万ドル改修工事・・鉄骨造 担当 :家具製作・・アトリエ獏
長野商銀長野支店新築工事・・鉄骨造 担当
(株)アメニテイ―ズ軽井沢店新築工事・・鉄骨造 担当 :家具製作・・アトリエ獏
平成9年3月 環建築アトリエ退社
4月 アトリエ獏に戻る
伊藤邸改修工事・・水廻り、2階改修工事 :家具製作・・アトリエ獏
永井邸改修工事・・外壁やり変え・水廻り増改築 :家具製作・・アトリエ獏
山崎菓子店改修工事・・台所・居間・水廻り改修工事 :家具製作・・アトリエ獏
レストラン:イル・ボスキーノ店舗併用住宅新築工事
直井邸新築工事 :家具製作一部・・アトリエ獏
他住宅計画案、家具デザイン、インテリアデザイン、家具展示会企画
平成10年から 障害者支援センター相談員として・・・障害者住宅の為の改修・改造工事・・・
日本建築士会全国大会長野大会女性委員会企画実行委員・・・・平成11年10月開催
家づくりを考える会メンバー・・・・平成12年9月から一般消費者の方々と一緒に家づくりを勉強。
07/10/18
平成16年3月; 平成7年ごろから発病していた主人の病気が急変する。
平成8年から9年にかけては病名がわからないまま腰痛かもしれない、頚椎症かもしれないなどと言われながら最終的にはパーキンソン病と診断される。
その後は薬を飲みながら仕事もまあまあ出来ていたので私もそれほど大変な病気とも思わなかった。
しかし、薬を飲む量がだんだん増えてきて、一方薬を飲んでも余り効かなくなってくる。ますます薬の種類も増えていく。
薬を飲み始めて7年目であった。
それから入院退院を繰り返し、主人の体は仕事が出来る状態ではなくなってしまった。わずかな薬が体に残っていたせいかはわからないが、
一度出た症状である妄想や、幻聴はなかなか消えず、薬の副作用だと考えられることを知った私は、ひたすら薬を減らしていくことばかり考えていた。
一度に減らすことは医者から危険だと言われていたので少しづつながら3年間かかってに半錠まで減らして行った。
平成18年8月; 神経内科の病気ではあるが脳神経外科で今日的には最先端といわれるDBS(脳深部刺激手術)を受ける。
その後からだの動きは確かに改善され、手足の振るえ、足の動きにくさなどは減っているようだ。
しかし、薬の効きと関係なくいわゆるON. OFF.現象があるのはこの病気の特徴なのだろうか。
薬を全く飲んでいないので妄想や幻聴はかなり減っているようで、余り以前ほど訳のわからないことは言わなくなっているが、起きていられる時間と
寝ている時間が交互に来る。その周期が一日の中で来る場合と、日によって繰り返される時とがある。
しかし去年より今年の方が起きていられる時間は増えていることは事実である。
薬で制御できる病気かもしれないが薬の副作用で麻薬中毒患者のように、苦しむのはもう真っ平だ。
薬の弊害を医者や製薬会社も、薬品の研究者はもっと深刻に考えて欲しい、と実感した3年間であった。
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