津田白印(明導) つだはくいん(めいどう)
笠岡浄心寺の二男に生まれ、僧侶・社会事業家・画家・教育者として活躍
その人物と事蹟:出典: 「津田白印物語」(山陽新聞社HP)より要約
『江戸末期の文久2年(1862)、浄土真宗本願寺派の浄心寺(笠岡市笠岡)の住職明海
(めいかい)の二男として生まれる。幼名を峯丸、後に明導(めいどう)と改名。
18歳で福岡県豊前市にあった浄土真宗の私設養成学校・乗桂校に入校。仏教学や漢学を
修めた後、大分県豊後高田市の西光寺で仏教学を深め、計9年間を九州で過ごした。
修行の傍ら、南宋画を研究。佐賀蓮(はす)池藩のお抱え絵師だった成富椿屋
(なりとみちんおく)(1815―1907年)に弟子入りし、画家としても歩んでいく。
名の津田白印(はくいん)は、親交があった明治の三大傑僧の一人
島地黙雷(もくらい)(1838―1911年)が、その容姿から号を贈り、後年「白印さん」と
親しまれた。僧侶、社会事業家、画家、教育者と多彩な顔を持つ。
明治24年(1891)、西本願寺(京都市)が推薦し、奈良県知事の任命で奈良監獄
(現奈良少年刑務所)の教戒師になった。
明治33年(1900)、白印38才のとき、本林寺(笠岡市富岡)の境内の建物を借りて、
孤児らを受け入れる施設が創設された。「甘露(かんろ)育児院」の誕生である。
住職の好意で借り受けた建物は境内の一画にあった約85平方メートル。院父は白印、院母には妻初音が就任し、職員は4人。
孤児救済という“慈善事業”の教育の柱は、「教育と自活生活」で井笠地域を中心に栄えた麦稈真田(ばっかんさなだ)の製造と歯磨き粉、洗い粉作り。
一般に販売することで育児院の運営費を工面し、子どもたちが社会で生き抜く自信も培った。
「明治期の岡山では養育できずに間引いたり面倒をみてもらえそうな立派な家の前などに捨てることもあった」と就実大の柴田一名誉教授(日本近世史)。
中には「岡山県甘露育児院行き」と書かれた布きれを襟に付け、富山県から送られてきた新入児もいた。
白印夫婦や職員の献身的な取り組みもあり、育児院に身を寄せる子どもたちは年々増えた。1年目(1900年)は25人だったが2年目は42人、
その後生徒の増加に伴い施設を増築、新築したものの追いつかず、1906年のピーク時には161人に膨れ上がり、白印の生家・浄心寺(笠岡市笠岡
)に院舎を新築、移転することになる。
1905(明治38)年、東北地方が大凶作に見舞われ、翌年、108人もの孤児が甘露(かんろ)
育児院にやって来た。収容人数は開院以来最多の161人に達し、浄心寺(笠岡市笠岡)に
移転した。
そんな中、創立以来、最大の危機が訪れた。07年後半から院内に皮膚病が流行し、多くの
子どもたちが感染する。続けざまに赤痢が2度も発生し、隔離施設に送られる者や死者も出て、
院内外の交通は遮断された。当然、寄付金の募集も中断され、院費の窮乏はますます激しく
なるばかり。
さらに、「病気の孤児を隠している」「餓死者が続出している」といった悪いうわさが流れ、
追い打ちをかける。
1924(大正13)年、社会福祉向上に人々の目が向けられ始める。孤児の数も減少したこともあり、
ほぼ時を同じくして育児院は規模を縮小しこの年、閉鎖される。
救済孤児は、25年間で延べ469人を数えた。
白印は閉鎖の前年、育児院がある浄心寺(笠岡市笠岡)に、女子教育を目指し淳和女学校を設立。教育者の道を歩み始めていた。この年、白印は62才。
当時、笠岡の女学校は、笠岡高等女学校(現・笠岡高)1校しかなかった。白印の女学校設立は「入学難を緩和して、みんなに進学の機会を与えたい」
という平等の精神によるものにほかならなかった。この後、昭和3年に現在の宮地に学校は移転し、現在では岡山龍谷高校となった。
昭和21年,85歳で逝去。

書画創作活動:
白印は教育者と同時に僧侶であり、書画に向き合う芸術家でもあった。
明治13年,豊前国(現福岡県豊前市)の浄土真宗大教校 乗桂校に入り,仏教学や漢学
を修め長崎派の画家 成富(なるとみ)椿屋(ちんおく)の門に入り,南画を9年間学んだ。
院長を務めるかたわら、教育施設運営費の捻出から多くの作品を世に送り出した。
画風は、その無欲な人格と確かな筆致により,気品高く,観る人に清澄な印象を与える。
雅号は「白印」のほかに「吸江(きゅうこう)」「甘露窟主人(かんろくつしゅじん)」
「白道人(はくどうじん)」など。
参照・引用サイト
☆ 同時代のもう一人の社会事業の偉人「石井十次」の存在
石井十次(いしい じゅうじ、慶応元年4月11日(1865年5月5日) - 大正3年(1914年)1月30日)は、日本で最初に孤児院を創設した人物。
「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。
彼は岡山で医師を目指していたがそれを中断、日本で最初の孤児院、岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。岡山孤児院は
すでに存在しないが、石井記念友愛社(宮崎県)と石井記念愛染園(大阪府)が後を引き継いぎ、各種の福祉活動をおこなっている。
1990年に石井十次顕彰会(宮崎県)により石井十次賞が創設され、毎年、石井十次の精神を継承し福祉活動に尽力している団体にこの賞が贈られている。
現在の宮崎県児湯郡高鍋町馬場原)で、高鍋藩の下級武士、石井万吉・乃婦子夫妻の長男として生まれる。
明治15年(1882年)17才 医学を学ぶため岡山市に移住。キリスト教に入信。岡山甲種医学校に入学。
明治17年(1884年)19才 岡山基督教会(現日本基督教団岡山教会)で洗礼を受ける。
明治19年(1886年)21才 岡山県甲種医学校を卒業。
明治20年(1887年)22才 巡礼途中で夫に先立たれた母親から一人の男児を引き取る。これをきっかけに孤児教育会(後の岡山孤児院)を岡山市の三友寺で創設。
明治25年(1892年)前年の濃尾地震に被災した孤児93人のため名古屋市に孤児院を開設(翌年には閉鎖し、院児は岡山へ)。
明治27年(1894年)郷里である宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)へ移住するため、院児25人が現地で開墾を始める。
明治31年(1898年)33才 私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立する。大原孫三郎と知り合い、それ以降、経済的な援助を受ける。孤児による音楽隊、音楽幻灯隊が活動を始める。
明治39年(1906年)41才 東北地方の凶作による孤児824名を受け入れる。岡山孤児院の収容者数が1,200人を超える。
大正15年(1926年)岡山孤児院、茶臼原孤児院が活動を終了する。
2010/11/23 石井十次の故郷 ⇒ 宮崎県児湯郡高鍋町ClickHere
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内容 Contents |
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「小田郡笠岡町大字富岡、「甘露育児院」跡 |
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浄土真宗浄心寺末派 本林寺境内
応神山を目指して「七面大明神」の鳥居をくぐらず、ゆるやかな坂道を直進する。
この辺りに浄心寺の末寺「本林寺」があり、この墓地は中庵(なかあん)と呼ばれていた。
この墓地を真っ直ぐに登り、右に折れると「甘露育児院」があった場所にでる。
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本林寺境内跡地 |
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「甘露育児院跡」の碑 by 白印顕彰会
津田白印は明治32年、九州佐賀に遊行ちゅう13才の少女に遭ったという。
少女は飢餓に苦しみ泣いているのを拾い上げ、自分の考えを実行に移すことを急ぐべきだと郷里笠岡で準備に取りかかった。
『明治三十三年一月一日、岡山県小田郡笠岡町大字富岡本林寺境内に甘露育児院を開場す。
院父母および四名の有志と前年収容した一名の院児とにて都合七名、外に参会するもの僅かに五、六人なりと雖も、窃に(ぬすみ)開場の式を挙ぐ。
この日新年の始日にして特に日月晴朗天下和順の瑞気山に満ち自ら心身の爽快を感ぜしめたり。』
(笠岡市史第3巻より引用)
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院内敷地に残る古井戸 |
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古井戸のポンプは誰がが使っていた跡であろう。この地に開場した甘露育児院は六年後の明治39年院生が増え手狭となったために、
笠岡市内の「浄心寺」へ移転している。
笠岡は古来より遍照寺の門前町として栄えたと言われるように寺院の数はすこぶる多い。が、社会活動としての弱者救済に
全国的にも著名となったかくも早い時代に、一宗教家が私財をなげうち身よりのない子供たちの受け皿となって広く門戸を開いたことは郷土の
誇りといえよう。
孤児教育と一言で無償で子供たちのいっても飲み食いの生活と自立した社会人としての教育を施すわけだから、凡人の想像を超えた世界である。
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2011/04/23 明治33年撮影の甘露育児院を発見!
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出典は『髙梁川』53号 1995年刊 社会事業家・津田白印 by広沢澄郎氏著
写真には現在石垣と土塀の一部が残るのみ。左上のモノクロ写真はまぎれもなくこの場所に藁葺の本林寺甘露育児院が建っている。
明治33年はちょうど西暦で1900年、第四次伊藤博文内閣の年、この年の一月一日に甘露育児院は呱々の声を上げた。
以下、広沢氏の論文より設立の趣意書を抜粋
『日夜ニ経営スル処ハ、唯己ガ身口ノ獣欲ヲ逞(たくましゅ)フスルノミニシテ、殆ンド倫常ノ德ヲ滅却シ去レリ。・・・・然ルニ爰(ここ)ニ最モ
憐レムベキモノハ、東西ヲモ辨(わきま)ヘズ又頑是ナキ児童ニシテ、之ヲ教フル父母ヲ失ヒ、之ヲ導クニ依辺ナキ幼児ノ、憐ニモ己ガ心
ノ儘ニ生長シ、人道ノ何物タルヲモ辨ヘズ・・・・・・風俗ヲ矯正シ、世道ヲ救護スルノ源ハ此等可憐ノ孤児窮児ヲ収容シ之ヲ教育スルニアリ。
不肖明導、身ヲ教門ニ稟(う)ケ特ニ大悲ヲ以テ世ニ現レ給フ御仏ノ恩恵ヲ伝フルノ重任ヲ負フト雖モ、知ナク又德ナシ、然レドモ此境ニ
接シ何ゾ黙止袖手(しゅうしゅ)スルニ忍ビンヤ・・・・・・・』
広沢氏は評して、『白印さんは、幼いころは少しボンヤリ男といわれていたが、彼が十八歳で志しを立てて九州へ遊学してのちは才気煥発
詩書画に熟達した僧侶となり、かつ体も強く責任感ある人となった。』
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2011/04/23更新 |
2008/10/13 |

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