原画は「威徳寺」所蔵


井戸平左衛門正明 いどへいざえもんまさあきら


第14代笠岡代官 明治43年県下大演習行幸にさいして従四位を追贈 ⇒ 井戸公園に「顕彰碑」あり

地名考

その人物と事蹟出典: 笠岡市HP


 『寛文12年(1672)生まれ、幕臣井戸正和の養子となり家督を継ぐ。
享保16年(1731)60歳で石見大森の代官に任ぜられる。翌17年笠岡代官竹田喜左衛門病没に
より笠岡代官を兼務。「いも代官」と呼ばれ親しまれる。
 平左衛門が大森代官に赴任したころ、西日本は数年にわたって飢饉が続き、領民は餓死寸前で
あった。このためさっそく村役人や富豪を説いて義援を募り、他国から米・雑穀を購入し施粥をして
餓死者を食い止めた。
またこの頃薩摩から甘薯の種芋を取り寄せ栽培を広める。甘薯先生として有名な青木昆陽が栽培
を提唱する3年前の事である。しかし、享保17年(1732)は長雨とイナゴの大発生が重なる大飢
饉となり、平左衛門は幕命を待たず税を減免し、私財を投じるとともに官金を拠出して領民を救済し
餓死者を最低限に止めた。翌年笠岡において病死したが、庶民の間では幕府の怒りに触れて切腹
させられたといううわさになった。 』

井戸公園:出典: 笠岡市HP
 もと私有地で地元の井戸代官を偲ぶ有志により井戸公園と呼ばれて管理されていた。
昭和11年に笠岡町へ寄付され昭和31年都市公園となる。大正2年ごろから桜が植樹され現在では
200本となっている。3月下旬から4月にかけて満開となり、ボンボリも飾られて散策に花見に絶好の
場所となる。園内には昭和19年に建てられた「いも代官」の頌徳碑がある。
(公園碑に刻まれた日付は昭和九年六月之建 反対面に笠岡町栗家嘉一郎)

その墳墓 威徳寺:出典: 笠岡市HP
 曹洞宗笠岡山威徳寺。元臨済宗の寺で鎌倉時代に陶山義高が開基したとされる。笠岡山は陶山氏が居城を金浦から移し笠岡山城を置いた所。
いも代官として親しまれ笠岡で没した井戸平左衛門の墓があり、今でも徳を偲んで参拝する人が後を断たない。また、井戸平左衛門を偲んで建て
られた石地蔵は「タワシでこすると体が治る」といわれ“とげ抜き地蔵”として親しまれ参拝者を集めている。
 
笠岡に住んでいれば、井戸平左衛門という人物が芋代官さまとして、威徳寺の隣の公園に祀られている、という知識は持っているかもしれない。
市役所のHPの井戸代官に関する記述は上にあげたページにとどまる。(また、貼り付けた写真は笠岡市でなく大田市のHPからの借用)

☆新たな井戸明府碑の建立 ⇒ 2011/08 笠岡道の駅ベイファーム敷地内 ClickHere


  他のサイトから調べてみると、井戸平左衛門正明は寛文12年(1672)武蔵の國、野中八右衛門重貞の子として出生、その後井戸正和の養子となり、元禄5年(1692)7月、21才で井戸家を継いだ。勤務は当初は小普請組・火災の警護役であった表火番など歴任のあと、元禄15年(1702)より勘定役に昇進。爾来、30年同じ勘定畑を勤務し享保6年(1721)6月5日には黄金二枚を賜っている。正明49才の頃である。
江戸勤務の正明に幕府天領である大森藩5万石代官職を任命したのは享保16年9月2日、記録によれば江戸日本橋から東海道を大阪に下り、大阪より船で尾道へ上陸、銀山道を陸路大森へ向かい20日で到着したとのこと。(現在は島根県大田市)
大森藩は銀山の採掘をおこなっており、一般的な政務に加え鉱山管理の採掘から出荷まで、業務は繁忙だっと思われる。大森着任時に前任海上代官
が町医者を呼び寄せ正明を診察させ、その医者に宛てた礼状が残っている(10/2)。正明は着任時すでに齢60、長旅もあるだろうし、病弱体質だったのかも。
 
 明けて年は享保17年(1732年)、有名な江戸三大飢饉のひとつ「享保の大飢饉」が西日本を襲う。
九州・四国・中国地方一円は春先までの長雨と冷夏、「うんか」「いなご」などの害虫被害で大凶作となった。
この年の4月14日、正明は養父正和の命日法要のため大森町の栄泉寺をたずねる。ここで運命的な出会いがあり、諸国修行の途中立ち寄った僧泰永(たいえい)と遭遇する。 薩摩國ではサツマイモが広く栽培され、肥料も労力もいらず多収穫で痩せた土地に適合している情報を聞き、当地での栽培を画策する。
 
 彼は直ちに江戸に対して薩摩國より大森へ移植のための書状をしたため、当月下旬に江戸表へ送る。
この書状の返書が6月に届く。
その内容は幕府は正明の要請に応るもので、薩摩國は最西端にある幕府天領の地、日向國本庄まで種芋を届ける。大森藩からは、浜田港より手代伊達金三郎と僧泰永など種芋受け取りに船を仕立てて海路本庄へ向かった。享保17年6月のことであった。(泰永は下船しそのまま帰省)
この結果、種芋百斤(60Kg)は本庄川の下流、天領本庄の赤江港で大森藩に渡り、藩内に持ち帰った後村高100石につき8本の割りで配られ植えられた。
が、作付けの時期が7月だったので遅く多くの芋は育たなかった。ただわずかに邇摩郡福光村(現・大田市温泉津町福光)の老農であった松浦屋与兵衛のみが種芋を収穫することに成功した。その後、サツマイモは石見地方を中心に救荒作物として栽培されるようになり多くの飢餓から領民を救った。

 このサツマイモ作戦の展開のさなかに、笠岡代官竹田喜左衛門の死去により、美作国窪島作右衛門と2名で代官所預かりの兼務となる(享保17年6月2日)。また正明には一男一女の子がいたが、長男の敬武(のりたけ)が享保17年5月26日に逝去、長女に入り婿として窪島作右衛門長敷のニ男内蔵助を迎え世継ぎとした。これだけの事件が身の回りに起きれば誰だって根をあげるだろう。、、、と思う。
江戸から20日の長旅でど田舎へ旅行、着任、飢饉と対応、サツマイモ作戦、長男の死、世継ぎの選任、長女の結婚、笠岡兼務と変化が続く。

 享保の飢饉対策:享保17年12月から翌年4月まで、銀山領内の人々にもれなく男ひとりに米2合、女には米1合、毎日米の貸し出しをおこなった。
このほか享保15年と16年の納税籾米の四分の一を種米として配分し、使い残しの米は飯米として貸し出した。


いよいよ正明最後の年、享保18年(1733)となる。
 1月14日~1月25日 温泉津(ゆのつ)元湯伊藤家に逗留、入浴宿泊代金 銀30目の支払い記録が残されている。
 湯治療か逗留か、同伴者は?など、詮索したい事項は多いが温泉入口の制札の汚れがひどいので書き換えたというエピソードが残ってるのみ。

享保18年(1733)4月
 養子内蔵助宛ての「遺訓書」を書き記す。自らの家系・武士の心情と心得など。書状は「井戸神社」蔵
同年 4/23 伊達金三郎 手代より徒目付(かちめつけ)に昇格、5石の加増となる。
 
享保18年(1733)4月18日、大森より笠岡陣屋に到着
 笠岡市史より引用
『井戸代官が着任から(一ヶ月後の)五月二十六日に亡くなるまでに周辺の大名家藩医(岡山・福山・足守・三次)の見舞い・診療を受けたり、石見からの主治医であった錦織玄秀を呼び寄せ治療に努めている状況をみると自殺とは考えられない
 5/14 朝 錦織玄秀の診察記録
 「 喘咳甚だしく、腹堅く腫れ、陰嚢腫大して大便一昼夜内三度、足衰え踊泉無紋にして凸す」
  病状重く絶望的、一通りの投薬はしたが、十七日に帰国を願い出て十九日に笠岡を立つっている。
玄秀は正明の死後、藩医たちがまともな治療をせず、酒食をくらい無益な世間話に明け暮れて時をすごしていた、と罵っている。』

享保18年5月26日 正明死去ス ⇒ 詳細記述なし


正明死後:
 笠岡市史によると『後任の第15代代官は小林孫四郎。
「沿革史」には「享保十八年癸丑年壱カ年間当分御預り所」とだけ記載されており、150表取りの旗本で、享保18年8月19日に初めて代官に任命され
同時に笠岡代官を命じられている』
五月二十六日に死去の後、3箇月も後任者が決まらないのは刑死とは考え難いのではあるまいか。

享保18年12月 小田郡矢掛村庄屋石井源次郎は村の悲惨さを笠岡代官所に訴えた。
           板倉藩は小藩だったので助けるだけの力がなく伊達金三郎は倉敷代官所より5石の米を貸し出した。
享保19年2月  「真鍋文書」に薩摩芋の詳しい栽培方法と食用効能を述べた書付あり。
           この時期、笠岡代官所で写し取ったある。
文化4年(1807) 泰雲院殿碑 江津市松川の井戸碑は年号が記されたものとしては最古。 ⇒ この外顕彰碑は島根県下で最多、近隣全体で490基

明治12年(1879) 井戸神社 創設 島根県大田市
明治43年(1910) 岡山県下軍事大演習の行幸に際し従四位を追贈

参照・引用サイト

 参考サイト  主催者  URL  その内容
 石見銀山  大田市 http://www.iwamigin.jp/ohda/minasdeplata/ginzan/shiryo/pdf/imo.pdf   いも代官井戸平左衛門の事蹟
 甘藷と野國總管  沖縄嘉手納
http://www.town.kadena.okinawa.jp/soukan/book/   さつまいも伝来にたずさうわった人々とルーツ
 井戸平左衛門  学頭和夫 http://www.chukai.ne.jp/~masago/idoheiza.files/frame.htm  芋神さま、芋代官さま 
芋代官碑分布図 ひろしまね http://hsnt.jp/go_museum/pdf/3_1_7.pdf#search='芋代官' 江の川博物誌


☆ 小説「終焉」 by杉本苑子 昭和52年3月毎日新聞社刊 中央公論文庫版
 
2008/08/02 (土)笠岡図書館にて読了 ---------------------------------------- ClickHere
 登場人物は、
   井戸平左衛門正明、前妻八重、後添お久 その妻との子 伊織敬武、孫娘寿栄、養子縁組となる窪嶋内蔵助、の父 (久世代官)窪嶋作右衛門、
         妻お久の実家の弟 朝比奈新之丞、甥子伝八郎、(大森前代官)海上弥兵衛良胤、(医師)中島見龍・錦織玄秀、(手代)伊達金三郎
        (栄泉寺住職)普光泰謙、(僧)泰永、(城ヶ山、温泉津の福光村釜野百姓)与兵衛、あと平左衛門の家来と代官所役人、大森商人たち。
 あらすじ
     江戸の夕暮、孫娘と婿養子にと決めている許婚と三人で芝居見物に出かけ、外食にでる場面から物語がはじまる。正明は60才、この7月に大
     森藩の代官職の命をうけ、肝臓に持病を抱えているが赴任への準備ちゅうである。長男は病弱で、いまも風邪で臥せっている。
     江戸高輪で身内からの見送りを受け、一行は陸路東海道を任地くだる。京都から大阪に舟でくだり、岡山まで。岡山から陸路久世に向け、前々
     代官職で現久世代官の窪嶋作右衛門を訪ねる。大森までに要した旅程日数は40日、着いたのは享保16年9月13日だった。
     この後は前任代官をめぐるお抱え業者との癒着処理なとあるが、その他は史実どおりで、領民救済のため富豪から寄附を巻き上げ、
     私財も供出、年貢米を放出、飢饉対策に活躍する。 その結果として、代官職を解かれ笠岡へ押送となる。
     公儀の処断を待つ身ではあるが囚人処遇で笠岡に着き、享保18年5月26日(息子死去の1年後)夕方、割腹し喉に刃を刺し自裁す。

 薩摩芋伝来ルートについて
     作者は公のルートではなく正明が手代金三郎と僧泰永らに命じ、秘密裏に薩摩藩から移入させ地場栽培に成功したという説をとっている。
 
☆ 2008/08/12 Visited to 笠岡小学校貫閲講堂前の「終焉」の碑 ⇒ ClickHere
井戸代官にちなむ碑文が市内にあると聞き、早速出向いた。
場所は市内小丸、現笠岡中央小学校の敷地内で小田県庁跡、そして笠岡代官所跡の碑が並ぶ笠岡の聖地である。
表面の刻印: 「井戸代官終焉之地」 岡山県知事三木行治書
裏面の刻印:「旧御陣屋の地図に因り、自裁した位置を茲に定める  昭和二十九年 十月 建之 井戸代官事蹟保存會 」(読み方も判読) 
この碑の建立の昭和29年はいったい井戸平左衛門にとってどんな意味があったのだろうか?没年は享保17年(1732)、1954-1732=222年忌
となる勘定。

甘藷(薩摩芋)考

薩摩芋のルーツ: → 「嘉手納HP」参照
 
 「さつまいもは、今から5000 年ほども前の中・南米の熱帯アメリカ、現在のメキシコ・コロンビア・ペルー・エクアドルのあたりでは、かなり広く食べられていたことが確認されています。このように、甘藷の歴史をたどっていくと、気の遠くなるほど太古の昔から、人びとの食料として用いられていたことがわかります。そして、甘藷のふるさとが中・南米の熱帯アメリカであることがわかるのです。
1492 年、今からおよそ500 年ほども前の話になります。イタリアの探検家・コロンブスが未知の大陸(南・北アメリカ大陸)へ到着します。それまで、南・北アメリカ大陸は、ヨーロッパ人にとって全く未知の大陸だったのです。ですから、ヨーロッパ人にとってこの大陸への到着は、大きな驚きであったにちがいありません。
フィリピンのルソンから中国へ甘藷が伝えられたのは、今から410 年前の1594年のことです。中国人の陳振竜が、甘藷のつるを船の舳綱に巻いて、ひそかに持ち出したといわれています。持ち出した甘藷を、陳は金学曹という地方役人をしている人に献上したのです。

 当時の中国は、農作物が不作で食糧が不足し、人びとは飢えとたたかいながら苦しい毎日を送っていました。金学曹は、飢えに苦しむ人びとを救うために甘藷の栽培を国中に広めるように、懸命に努めたのです。人びとは、金学曹への感謝とその功績をほめたたえる気持ちをこめて、甘藷を彼・金学曹の名前をもじって「金薯」とよぶようになりました。

 それから11 年後の1605 年に、野國總管は中国から私たちの嘉手納の地に甘藷をもたらすことになります。こうして、甘藷は遠い熱帯アメリカからヨーロッパを経へて、東南アジア・中国、そして沖縄の野国村へと伝えられたのです。

沖縄野國村からニッポン本土へ
 

甘藷の来た道 野國總管のサイトより
西暦 年号 導入関係者 to from
1594年 文禄3年 中国人陳辰竜 福建省 フィリッピン ルソン島
1605年 慶長10年 野國 總管 沖縄(琉球) 福建省から
1611年 慶長16年 薩摩の将兵 薩摩 尚寧王が甘藷を土産にわたす
1615年 元和元年 三浦按針 長崎(平戸) 琉球から
1692年 元禄6年 江島 為信 愛媛(伊予) 宮城(日向から)
1698年 元禄11年 種子島 久基 種子島 (薩摩) 琉球国13代尚貞王から
1705年 宝永2年 前田 利右衛門 鹿児島(山川) 琉球から運搬船で
1713年 正徳3年 下見 吉十郎 瀬戸内海(大三島) 薩摩(伊集院)ひそかに持ち帰る
1716年 享保元年 島利 兵衛 京都(富野村) 薩摩(硫黄島)ひそかに持ち帰る
1720年 享保5年 原田 三郎右衛門 津島(伊奈郷久原) 薩摩(宮之城)持ち帰る
1732年 享保17年 井戸平左衛門正明 島根(大森) 薩摩(幕府直訴)から送られる
1734年 享保19年 青木 昆陽 東京(江戸) 薩摩(幕府の命令による)
1735年 享保20年 青木 昆陽 千葉(馬加村) 東京(江戸)
1737年 元文2年 青木 昆陽 八丈島 東京、薩摩の2ヵ所から
1751年 寛延4年 吉田 弥右衛門 埼玉(川越) 千葉(上総)から


 島根県下で500基にちかい夥しい数の頌徳碑が建てられていることに比べると、笠岡近隣での碑は「井戸公園」の一基のみ。
この温度差は一体何なんだろう?

真鍋島には享保19年2月の記事で笠岡代官所にて栽培方法を写しとったというのがあるが、本土側での資料については一切触れられていない。
まして自害であれ病死であれ現職代官殿が逝去されるとは異例のことであろうから、死後に建つ墓石の前段階として葬儀の催行、埋葬地の検討、家族と
の確執、そして何よりも大森と笠岡間の事務的連絡など、大騒動だったにちがいない。
たかだか275年ほど前のこと、その時代の痕跡が史料として一切残っていないのも不思議なことである。
 正明が威徳寺に祀られていることも不思議である。
武蔵國に生まれ井戸家の跡目を継ぎ、江戸暮らしがながく人生の大半は江戸、大森在住が2年、笠岡には僅か1ケ月。
笠岡は勤務の赴任地である。 威徳寺埋葬には一体誰の意思が働いたのだろうか?

No. 表題 Title   内容 Contents
001 井戸公園   画像みる    ↓
     
公園内に
建つ五角
形地神碑
(左写真
の井戸公
園碑右奥
に見える)
 
 公園内には200本の桜が植わっているという。
 訪れた日には既に桜花の時期を逸し、躑躅か皐月かが花をつけていた。西本町を竜王山に突き当たって、威徳寺の西側にひっそりと在る公園。
 すぐ南は天満宮が鎮座し、威徳寺と天満宮に囲まれている。
 ~・~・~・~・
 「井戸公園」碑、写真右側の碑の側面に文字あり。
 向かって左側、「笠岡町栗家嘉一郎」、々右面には「昭和九年六月建之」石工 井上定治郎 八杉新一 岡本健吉坊書」
 笠岡町へ寄進があったのは昭和11年説があるが、この碑文から考えると昭和九年に笠岡町の栗家(くりけ)嘉一郎氏が寄進をされた公算大。
 ただし大正2年頃にはこの場所へ地元の井戸平左衛門を顕彰する高徳会や井戸会が櫻の植樹をしたそうだから歴史はかなり旧いと云える。
 
002 井戸明府碑 ☆2013/08/04笠岡ベイファーム道の駅に『井戸明府碑』新たに建立 画像みる    ↓

威徳寺所蔵の井戸平左衛門軸絵


碑文印字
「井戸明府碑」
 
 この碑文が刻まれたのは昭和19年である。
ニッポンが米英露仏中の連合軍を相手に宣戦を布告して3年目、戦線は縮小し戦況悪化・物資欠乏・まさに敗戦前夜のことである。
この国難・政情不安の厳しき時期に何故井戸代官の頌徳碑なのかといぶかしく思う。
碑文を寄せたのは岡山県農業会で師範学校講師が揮毫しており、戦時下の食糧難を甘藷にてのりきらんと井戸代官殿に願かけをされたのだろう。。
ただ、死去に関しては病死説でなく「笠岡陣屋において心静かに自裁し畢んぬ」と書かれている。
 碑文の左下に見える案内板には「井戸平左衛門さまのうた」が書かれている。 ⇒ 画像ClickHere
1-不作の年の飢え死にを救う尊き心より 移し植えにし芋の種 いかで忘れんその恵み
2-おのが命を投げ打ちて いく千万の民草を 助けあげたりけなげにも いかでわすれんそのみとく
3-笠岡山のおくつきに よつ(四)の位をおくられて 眠れる君の名とともに いかでわすれんそのいさお

☆2010/09/01~10/03 『笠岡市立郷土館40周年特別展』 原文文書 ClickHere
 「芋代官井戸正朋公頌徳ノ碑」の読み下し文が展示されていた。
 題額  中央農業会長従三位勲三等伯爵 酒井忠正
 笠岡ハ芋代官贈従四位井戸正朋公終焉ノ地ナリ。公幼名正明 後後正朋ト改ム。通称平左衛門、又安右衛門ト称ス。 寛文二年(1662)江戸二生ル。父ハ野中八右衛門重吉 母ハ町田氏、旗本井戸平左衛門正和二養ハレ井戸氏ヲ冒ス。元禄十五年(1702)勘定役二進ミ享保十六年(1731)六十歳ヲ以テ石見銀山大森領代官二補セラル。盖シ(けだ)大森銀山ノ監督及ビ石見・備中・備後ノ三国内幕領ノ支配ヲ兼ヌルノ重任タリ。九月二日命ヲ拝シ、十三日早クモ大森ニ着任ス。其恪勤知ルベキナリ。 銀山領ノ地 砂磧(させき:かわら)多ク耕種二適セザルヲ慨キ(なげき)一雲水僧ノ説ヲ容レ 嘱シテ琉球芋ヲ薩摩二求メ 栽培増殖セシメテ
救荒ノ対策トナシ 頗ル偉功ヲ挙グ。 爾来関西ノ地 凶歳尚ホ克ク飢餓ヲ免ルルモノ 公ノ遺徳ニ負フ所極メテ大ナリ。翌十七年所謂享保ノ大飢饉ハ是ヲ免ルルコト能ハズ。同年十一月 公ハ幕命ヲ待ツノ暇ナク 君ノタメ民ノタメ一命ヲ捨テンコトハ我平生ノ志ナリト 決然租ヲ免シ 倉廩(そうりん)ヲ開キテ貢米ヲ飢民二賑恤(しんじゅつ)スル等、一意救済ノ道ヲ講ズ。 為メニ領内一人ノ餓死スル者無キヲ得タリ。 然レドモ独断ノ責ヲ負ヒ 嗣正武二一書ヲ留メ 五月二十七日夜 笠岡陣屋ニ於テ心静カニ自裁シ畢ンヌ。 行年六十二、泰雲院義岳良忠居士ト謚シ 成徳寺境内二葬ル。 高邁義烈 啻(ただ)ニ甘藷増産指導ノ先覚タルノミナラズ 亦以テ醇乎鋼常ヲ扶植スルノ先賢トシテ永へ二憬仰スベキナリ 宜ナル哉 治下ノ民 具恩澤ヲ仰ギ 今尚ホ毎歳追祭ヲ行ヒテ感恩ノ誠ヲ致セルコト 今ヤ大東亜現下 甘藷増殖ノ急 叫バルルノ時 公ノ炯眼(けいがん)遺徳ヲ推頌スルハ 豈独り吾人ノ感慨ノミナランヤ
岡山県農業会長    原澄治 撰
広島高等師範学校講師 井上政雄書
昭和十九年五月(句読点・ふりがな・西暦年号は原書にはナシ。読み下しの便宜のため加筆す)2010/09/10
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<註:酒井忠正(1893-1971)明治28年~昭和46年>
勲一等瑞宝章・伯爵・中央農業会長、日本中央競馬会理事長、横綱審議委員会初代委員長、相撲博物館初代館長
1893年(明治26年)6月10日、備後福山藩最後の藩主・阿部正桓の二男として生れる。
1919年(大正8年)10月10日、家督を相続して雅楽頭系酒井家宗家(旧姫路藩主)21代当主となる。
1923年(大正12年)9月に貴族院議員となり、1945年(昭和20年)阿部信行内閣にて農林大臣を12月まで務める。
003 威徳寺境内の井戸正明の墓石 画像みる    ↓


 威徳寺境内、山門を入ってすぐ右手の奥にこの墓石がある。
その案内板、笠岡市教育委員会が市指定の文化財として書いている内容。(昭和49年7月30日指定)
「井戸平左衛門は幕臣である。享保十六年、六十歳で石見國大森代官となった。
 翌年備中笠岡代官が病没したため、笠岡代官も兼務することとなる。
 このころ西日本一体は長雨やイナゴの大発生によって大飢饉となっていた。そこで平左衛門は幕府の命令を待たずに年貢を
 減免するとともに私財や官金を使って領民を救済し、餓死者を最小限にくいとめた。
 また、平左衛門は幕府に願い出て薩摩から甘藷(サツマイモ)の種芋を取り寄せ、領民に栽培させ飢えをしのいだので、「いも代官」
 と呼ばれている。
  享保十八年(1733)、笠岡の陣屋において発病しついに不帰の客となった。法名を「泰雲院義岳良忠居士」という。

『この墓は当初は威徳寺北側の竹藪の中に在った。
その後、墓は一旦井戸公園内に祀られたが、昭和三十年代の初めに現在の威徳寺境内に移された。』
(この項、『ゆかりの地を訪ねて(下)』山陽新聞社刊より引用)
 井戸公園は戦時中に整備されたのであろうか?
あるいは、江戸時代に墓所といっしょの場所に墓苑としてあったのだろうか?と思っていたが、笠岡には井戸平左衛門を頌徳する碑がこの場所
だけしかないことから、どうも頌徳碑の建立と同時期にこの公園が出来たのではないかと思えるようになった。
公園から威徳寺へ移転のタイミングは何があったのだろうか?(2010/09/30記)
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☆井戸平左衛門正明の後見人として遠山の金さんこと、遠山金四郎景元(きんしろうかげもと)は江戸時代の幕臣で天保年間に江戸北町奉行、
 大目付、後に南町奉行を務めた人物である。テレビドラマ(時代劇)『遠山の金さん』のモデルとして知られる。幼名は通之進、通称は金四郎
(きんしろう)。官位は従五位下左衛門少尉。その生誕は寛政5年(1793)であるから、井戸正明より7才年長である。この金さんが 正明の推挙
し後見役として小説には書かれている。また、この墓石の揮毫は勝海舟の直筆である、との説あり。
勝海舟もまた幕臣であったが、彼の生誕は文政6年1月30日(1823)、正明とは23才年少であり、この二人にどんな縁があったのであろうか?
いずれも未確認情報です。

004
「井戸代官終焉之地」の碑


笠岡郷土館蔵の井戸平左衛門胸像
(s30年に市内在住の守屋氏が制作、笠岡小学校校庭に建立されていたもの。モデルは威徳寺所蔵の軸絵より)


☆ 2008/08/12 Visited to 笠岡小学校貫閲講堂前の「終焉」の碑
 
井戸代官にちなむ碑文が市内にあると聞き、早速出向いた。
場所は市内小丸、現笠岡中央小学校の敷地内で小田県庁跡、そして笠岡代官所跡の碑が並ぶ笠岡の聖地である。
表面の刻印: 「井戸代官終焉之地」 岡山県知事三木行治書
裏面の刻印:「旧御陣屋の地図に因り、自裁した位置を推定  昭和二十九年 十月 建之 井戸代官事蹟保存會 」(読み方は判読)
  江戸天領研究大家村上直氏の平左衛門略伝
    村上直氏の著書「江戸幕府の代官」(s45.12刊行)による平左衛門 によると、平左衛門は幕府に無断で米蔵を開け窮民救済をおこなったため、笠岡へ出頭する旨幕府からの命に依り笠岡へ向かった。持病の煩いもあったが、復命中に自害した、という自刃説を唱えておられる。たしかに笠岡で斃れたのであるが、あの時期に病死説では何用ありて来笠したのかの理由が判然としない。自刃・病死説いずれにせよ、平左衞門は60才で石見代官が代官として最初の赴任であり、死後にこれだけ民衆から慕われたという事蹟は實に素晴らしい。 平左衛門は幕府御徒役野中八右衛門重吉の長男として武蔵国で生まれた。21才の時幕府勘定役井戸平左衛門正和の養子となる。元禄十年(1702)三月に表大番の番士に任命され200俵取りとなる。ついで同十五年九月に勧請役に昇進。ひたすら誠実に勤務に励み、享保十六年(1731)には黄金二枚を賞賜されている。ところがこの年の十月に石見勤務の命が下った。地方代官職は勧定奉行の配下であるが、町奉行大岡越前守忠相の推挙があったという。死去は着任三年後の享保18年5月24日であった。【註:村上氏1925生著書は「代官」「天領」「武野燭談」他多数】  
 ↑威徳寺代官墓石> < ↑笠岡小学校終焉の碑
  
002 2017/11/20更新gg 2008/08/12



 






































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