| 幕末の頃、笠岡村で営業、蘭医「宮太柱」 の白墓 神辺町西中条深水、歿年明治3年11月28日(1870) 訪問:2011/12/22 |
| Back ⇒ |
|
![]() |
![]() |
![]() |
|
![]() |
| 2011/12/22 西中条の深水川を上り詰めた集落に墓所あり |
|---|
| <宮太柱という人物について>(出典:「笠岡市史」第二巻) 『濟生卑言』という書物を最初に教えて頂いたのは石見銀山訪問のとき、坑道を案内してくださった観光ガイドさんである。 幕末頃に笠岡在住の医師宮太柱が石見銀山の産業医として招かれ、安政二年から安政五年にかけ石見に逗留、鉱夫たちが粉塵 によって生ずる「けだえ」(塵肺)に苦しむ対処治療を行った。その処方を記した書が『濟生卑言』で、幕府運営の佐渡金山、足尾銅山 など他所での実用書として採用された医学書である。二年の逗留後に石見銀山を去る時には代官より二十両の報奨金をもらっている。 この人物が笠岡の洲崎通りの辺りに開業医として父宮太立と共に暮らしていた事実を知らない笠岡人が多い。 かく云うわたしもその一人であった。 写真の説明(神辺町の菅茶山記念館に立ち寄って場所を教えていただいた) 記念館で武田先生を紹介していただき、先生がこの日の案内をしてくださった。 写真右上より、石垣が残る宮家の屋敷跡の敷地。今では他の手に渡って現地に末裔はいらっしゃらないとのことだった。この石垣の手 前に鳥居あり。深水部落の荒神社で、鳥居の下から急傾斜の石段が取り付けられていた。鳥居の記年号は文久元年辛酉(1861)金尾 房次郎建之。この石段を登ると荒神社の境内にでる。写真下、石灯籠が二基あって写真左側の灯籠が宮太柱藤原誠之、安政五年の 文字が刻まれていた。安政五年と云えば太柱が石見の任務を終えて帰笠した年である。報奨金の二十両の一部で寄進したのであろう。 ちなみに右側の灯籠は別人の寄進によるもの。案内の武田先生が教えてくれたのは石灯籠の間に建っている二基の方柱。本来は注連 柱の位置に当たるが、この碑には鳥居から上がってくるまでの四十数段の石段を寄進した人の名前を刻んだ碑だとのこと。この左の碑に 宮太立の名があった。十五枚宛の面に名をどとめていた。 さて、この荒神社の本殿は銅板葺き屋根で近年の再興とのこと。宮家の墓所はこの荒神社の境内を横切って屋敷跡のちょうど上になる 辺りの山の斜面にあった。写真正面。宮太立の墓の隣にあるのが宮太柱の墓だという。宮太柱は三宅島に遠流となりそこで果てる。墓は 大木主水の名前で三宅島に今でも丁重に護られているようだ。この宮家の墓所の墓石は笠岡在住の作家栗谷川虹氏著『白墓の声』に よると太柱の墓として文字のない白墓(はくぼorしろばか)が建っているとのことであるが、武田先生は白墓が三基あるので、どの墓なの でしょうね?とおっしゃった。「笠岡市史」第二巻には「備後西中条の墓地には太立・太柱らの墓は見当たらない。ただし、その墓地に、全 然字の彫られてないままの墓が三基立っているのは何故なのか、現在その訳を知るものはいない。」とある。 同書には宮太柱の系図が掲載されている。 宮太立(寛政10年1798-慶応3年1867)の子が宮太柱(文政10年1827-明治3年1870)、太柱には妹がおり名をマサという。 マサは川合和三郎(太圭)に嫁ぎ四人の子を産む。長子が太茂(嘉永3年1850-大正11年1922)、三男葛三郎が太柱の養子とある。 ところがこの墓所には宮太茂を刻んだ墓石が立っていた。 宮太柱の最後 宮太柱が石見銀山で活躍した安政二年(1855)の彼の年齢は28才、31才で深水の石灯籠を奉納し後に江戸に上る。 太柱の妻は下稲木村の谷本家から越してきた龍という女性。二人の間に子はなく、太柱の妹マサの三男葛三郎を養子に取る。「笠岡市 史」によると江戸行きは龍を残して安政五年頃、江戸の甲斐坂に住み医業は繁昌したようだ。この時期しきりに水戸藩など尊皇攘夷派の 志士たちと交流し、自らは日本古来の道義に基づ精神文化の高揚(古道=国学派か?)を説いて廻った。明治2年(1869)1月5日、明治 新政府の参与横井小南(文化6年1806、熊本藩士、後に福井藩松平春嶽及に仕える、享年61才)暗殺事件の首謀者のひとりとして太柱 は逮捕される。明治3年判決が下り終身流罪で三宅島に11月20日に着くと8日後、没した。享年44才、三宅島には大木主水の墓がある (2012/03/08 追記) 宮太立(みやたいりゅう) 「芳井町史」より 宮太立は寛政十年(1798)、与井村の医家池田家に生まれ、安那郡西中条村(現神辺町西中条)の宮家の養子となった。宮家も代々医を業 とする家であり、宮家と池田家は数代にわたって縁組をしている。太立の父文祥も宮家から池田家に養子に入った人であった。 太立の名は鎮、槙斎と号した。若い時代の医学修行など、詳しい事跡は不明であるが、長崎で蘭医を学び、嘉永三年(1850)ごろより安政三年 (1856)ごろまで、笠岡で開業したらしい(笠岡市医師会編『笠同市医師会史』1985年)。太立の姉折江は笠岡敬業館の二代目教授小寺廉之に嫁 いでいるので、笠岡での開業は小寺氏とのかかわりからかもしれない。その場所は隅田川左岸沿い、スサキ通り入口に近いあたりといわれる。 安政三年に笠岡の医師関鳧翁が、弟関藤藤陰にあてた手紙の中で、太立を外国かぶれと激しく非難しているというが、太立は安政三年には江戸 へ出て、麹町甲斐坂に医院を構えており、幕末に江戸で私塾三計塾を開いていた儒者、安井息軒とも交流があったという(『笠岡市史』第二巻)。 慶応三年(1867) 四月二十三日に没し、墓は西中条の一族の墓地にある。 太立は山鳴大年や小田春斎らとも交流があった。大年あての太立の書状(山成家文者)からはその親交の深さがうかがわれる。亡くなる直前には 与井村に五、六日滞在しており、漢詩を携えて小田春斎を訪ね、毎日釣などをして過していた。その後、御領付の姉の家に宿泊していたが病んで 没したという。(慶応。二年四月二十八日「昌半あて小田春斎書状」小田皓二家文書)。 ☆石見銀山訪問記 笠岡町開業医 宮太柱(泰仲:みやたいちゅう)のこと。 ⇒ ClickHere 位置図: 福山市神辺町中中条深水 |