神辺の北嶺、中条に聳える「遍照寺山城」
 安原民部少輔の居城、七段の曲輪と空堀がある堅固な要塞。
訪問DATE: 2009 04 29 

「遍照寺山城」(遍照寺山△170m)
 備陽史探訪会の城郭部会の現地調査へ体験参加、会
の面々はこの日が7日目の踏査だと聞く。
場所は神辺城から北へ2Kmほどの大坊遺跡のある山麗
で、中腹に真言宗黄龍山遍照寺がある。
会のみなさんは事務局長以下12~13人、測量機器と備
品・用具など分散して携行している。その半数は女性たち
でもう何度も測量に従事してきた経歴保持者たちだった。
水平距離と垂直距離をトランシットで実測し図面展開する
という。これまでに凡そ6日間をかけて城郭の輪郭~通路
~内側の雑木と竹藪を伐採し、目通しを遮る立木を取り除
いてきた。同好の士とはいえすごい労力と熱意と根気だ。
7段の郭は広範囲に展開し、空堀もあった。本丸から
やや離れて南に張り出した面には石垣があった。
案内してくださった藤波さんの説明だと、明治頃に神社が
建てられ、その残骸だとか。
 写真左はこの眺望の利く郭からの神辺城があった黄葉
山眺望。まさに対峙の配置だと思った。足下の大岩には
幟の竿を差し込む孔が穿かれていた。旗旒信号で交信し
あっていたのであろう。この城の城主は代々宮一族で?、
詳細についは詳らかにされていないようだった。

2009/05/20 Created
 
 「安原民部少輔」にかんするサイト検索 → Hit 「毛利元就とその一族を探求するページ」 HP
 
 毛利方の軍勢、吉川元春麾下の杉原播磨守盛重(神辺城主)の手のものとして安原民部少輔が登場している。
 毛利としのぎあっていた宇喜多一族側に翻意した南條兄弟との伯州長郷田(ながうた)合戦の場面において、安原民部少輔が
 広瀬若狭守なる武将を討ち取っている。
 この城が安原民部少輔の居城であったというのは「日本城郭大系」からの引用。
 立地的には神辺城の北の守備する場所にあるので、杉原播磨守盛重の家臣であるというのが解りやすい。
 杉原盛重(1533年(天文2年)- 1582年1月19日(天正9年12月25日))は備後国の国人・杉原理興(後に山名姓を名乗る)の家老
 で大内氏と争った神辺合戦で活躍した。
 大内氏の勢力を継承した毛利氏の傘下となった理興が弘治3年(1557年)に継嗣のないまま死去すると、盛重はその勇猛ぶりが
 毛利氏重臣である吉川元春に評価され理興の跡を継いで備後国神辺城主となった。その後、毛利方の武将として各地を転戦。

 

位置図:福山市神辺町西中条(遍照寺山)

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