神辺の歴史 (神辺町は平成18年[2006]3月に福山市と合併)


 安那郡という古名は穴門に通じる?

政治的変遷

神辺の歴史:by 「備後の歴史散歩」 by 森本 繁 氏著  fm: 山陽新聞社刊

 神辺は旧くは備後国安那郡に属していた。神辺という名の地名は、黄葉山(▲133m)山麓には式内社「天別豊姫神社」が鎮座し、古来より
地元の信仰を集めてきた。この神社は、そこが神を護る森(神奈備)であることから神奈備山とも呼ばれていた。この神奈備(かんなび)が変化
して神辺になったという説が有力である。

 山陽道の高屋川渡河地点に架けられた鶴ケ橋は、もと渡し場があって船で旅人を渡し、鶴が渡しと呼ばれていた。
その命名については、日本武尊(やまとたけるのみこと)西征の際の鶴の台の伝承(「西備名区」)がある。 この鶴ケ橋交差点は山陽道と出雲・
石見道の分岐点で、今も「出雲大社道」と刻まれた道標が建っている。『福山志科』に「鶴橋は長さ二十一間、欄干あり。横尾にありて高屋川を
わたす(中略)、橋のもと楊柳(ようりゅう:やなぎ)あり、昔は鶴が渡しとて、舟をそなへ、渡守人までもありし」と書かれている。宝暦年間末期
(1760)に書かれた長門国萩藩の「中国行程記」によると、「鶴ケ橋長さ二十四間、板橋」と記されている。
 山陽道を西行するにはこの鶴ケ橋を渡り新茶屋交差点を左折し芦田川の大渡りに向かう。

 当時の神辺は三日市・七日市・十日市の三町で構成され二つの本陣が置かれていた。
七日市の本荘屋(新屋)と三日市の菅波家である。菅波家から三代目に分かれた本荘屋が一般大名の本陣で、菅波家は筑前黒田藩専用だった。
本業は共に酒造業、規模は本荘屋本陣のほうが大きかったと言われるが、維新後没落して知るよしもない。 一方の菅波本陣は千坪の屋敷内に
延亨3年(1746)に建てられた母屋をはじめ米蔵、うまやなどほぼ当時の規模を今にとどめている。

 天明3年(1783)から32年間に、この七日市~矢掛本陣を通過した大名の数の平均は年間14回という記録が残る。
文化7年(1810)萩の毛利藩宿泊時、一行の数は841人、利用された旅籠は95軒、小藩の肥前鍋島公で99人、旅籠の数が15軒必要だった。 

「和名抄」の備後国 (きびのみちしりのくに)
安那郡(やすな6郷)、深津郡(ふかつ3郷)、神石郡(かめし4郷)、奴可郡(ぬか4郷)、沼隈郡(4郷)、品治郡(ほむち7郷)、芦田郡(6郷)、
甲奴郡(3郷)、三上郡(5郷)、恵蘇郡(3郷)、御調郡(みつき7郷)、世羅郡(4郷)、三谿郡(みたに5郷)、三次郡(4郷)の14郡(65郷)
明治31年(1898)6/16 廣島県下郡廃置法律により
深津郡(ふかつ3郷)+安那郡(やすな6郷)=深安郡、芦田郡(6郷)+品治郡(ほむち7郷)=芦品郡、三谿郡(みたに5郷)+三次郡(4郷)
=双三郡(ふたみぐん)、神石郡(かめし4郷)+奴可郡(ぬか4郷)+三上郡(5郷)=比婆郡となった。

【戦国時代の備後】応仁の乱(1468)以降に呼ばれた区分
 備後外郡(南部) 深津・安那・品治・沼隈・御調・葦田・世羅の7郡    備後内郡(北部) 甲奴・神石・奴可・恵蘇・三次・三谷・三上の7郡
 当時の備後国人衆・「傘連判状」毛利元就旗下武将たち(弘治3年・1557)
   渋川氏(鎌倉御家人・筑紫探題として地頭職に補任され御調郡勝山・小童山城ひちじょう、渋川義陸は毛利元就の妹を娶る。
   宮氏(備後国人衆)もと品治国造の後裔といわれ一宮吉備津神社の社家の家柄。宮兼信は亀寿城で直冬の攻撃を1年間に亘り凌ぎ下した
       宮内合戦で有名(貞治元年・1362)。建武中興で名を馳せた桜山四郎入道に近い血縁と言われる。後に上野介・下野守両家に分裂す。
   杉原氏(備後国人衆)杉原信平・為平の兄弟は尊氏に随い頭角を現す。為平は備後国木梨荘(尾道市北部)の地頭職に補任される。
       総領家は現府中市にある八尾山城に本拠を置いた。
   古志氏 出雲国神門郡古志郡に興る。応永8年・1401、出雲より南下し備後守護山名氏の守護代を勤める。新庄本郷の城主。大場山城。
   

市内名勝地あれこれ

 
片山病の発生: ClickHere
 

 神辺平野に二つの小山がある。それぞれ片山・碇山という。江戸時代、宮入貝を宿主とする日本住血吸虫による「片山病」の発生があった。
この発病の最初の記録は文化元年(1804)、馬屋原重帯(まやはらしげよ)が『西備名区』の草稿に記した。同書は文化五年(1808)に清書本が発刊、
文化六年(1809)に菅茶山が「福山志料」を著した。
また医学的見地からの記述は備後福山藩山手村の漢方医藤井好直が「片山記」に漢文にて記述を残した。「沼隈郡誌」に収録されている。
『近時二三年間、春夏の交、土民田を耕して水に入れば足頸に小疹を発し痛痒忍ぶべからず。牛馬また然り。人皆大いにこえを患う。以て漆気(しっけ)
の故となす。また患い泄瀉する者多く、その症、面色(めんしょく)萎黄(いおう)、盗汗肉脱(とうかんにくだつ)、脈皆細数なお癆サイを疾す。
水瀉するものあり、夷急後重する者あり、下血する者あり、下膀治する者あり、やや久しくして四肢痩削(そうさく)、独り腹脹すること鼓の如し。
乳下に青筋絡脈を見、臍穴(さいけつ)凸出る。甚だしきはすなはち腹皮に光りを生じ、映物至る。終には足腑浮腫(そくふふしゅ)して斃る。
予これを診て何の病たるかを知らず』

片山病の原因は日本住血虫と判明し、中津原生まれの開業医吉田龍蔵(明治7年生まれ)が予防法確立に尽力した。大正七年にその功績を頌えて
御幸町中津原に頌徳碑を建てた。同時に原因の究明にあたった藤波浪鑑博士の頌徳碑も建てられいる。
文化人の交流に欠かせない重要な街道であった。



 
「堂々川の砂留工事」: ----------2009/05/05  ClickHere 1, 2


  延暦元年(1673)五月、神辺下御領の国分寺は豪雨による大原池の決壊、続いて堂々川の氾濫によって一夜のうちに壊滅したと伝えられる。
(快範記 曇寂記縁起による)この時の雨は「三尺先が見えず、雨脚の太さは細引きの綱ほどあったといわれ、付近の住民63名が犠牲となった。
現在の国分寺は元禄七年(1694)に再建された真言宗医王院国分寺だが、その境内には大正11年建立の「供養塔」がある。
また、天保11年(1843)6月にも備後大水大変といわれる水害があった。「菅波信道一代記」によると「前代未聞のことなりし」という洪水被害が発生
し、多くの被害者を出したという記録が残っている。
 
  堂々川は中条~御領の丘陵から斜面を下り高屋川に注ぎ込む支流であり、ふだんは水がないが、雨が降ると水が流れる涸れ川である。
まとまった雨が降ると増水しこの急流は山を削り、川床に土砂を運び天井川となり洪水の原因となって、下流の住民たちを苦しめた。
このため土石流防止策として砂防工事が江戸時代から積極的に行われてきた。付近には合計四十基ほどの砂防群の現存が確認されている。

 国分寺から北にむかって堂々川を遡るとまっさきに「堂々川一番砂留」が目にはいる。この砂留の築造年代は安永二年(1773)、湯野村と下御領
村に残る最も古い砂留である。堤高3.2m、堤長9.6m.
この先も次々と砂留が現れ、この流域には8カ所あるとか。「堂々川六番砂留」は現存する最大の規模(堤高 14.5m 堤長55.8m)で、付近は現在、
公園に整備されている。
堤の築造は天保6年(1835)、上層部は明治15年に嵩上げ工事が施工された。

(神辺観光協会「KannabeMap」他、より)


No. 表題 Title   内容 Contents
001 備後国分寺跡:天平十六年(714)聖武天皇による国分寺建立の詔  画像みる    ↓

仁王門

光明真言塔
備後国分寺(僧寺)跡(現地説明文より)福山市神辺町下御領
                現在神辺町の上御領と下御領は元は安那郡御領村だった。天正15年(1587)に上御領と下御領となった。

       天平13年(741)聖武天皇の発した国分寺建立詔(みことのり)によって、この地に備後国分寺が建立された。寺の正式名称
を「金光明四天王護国之寺」と称し、律令国家体制の完成期に鎮護国家の経義に基づいて造営されたもの。昭和47年度から四次にわ
たる発掘調査により、東西600尺(180m)の寺域が判明し、塔・金堂・講堂ならびに南門跡の検出により、いわゆる法起寺式伽藍配置を
なすことが明かになりました。 南門は古代山陽道に面して開き、立地として重要な位置を占めると同時に、広大は寺域内に残る堂塔の
遺構から官寺である国分僧寺の雄大な伽藍の規模が想定される。
平成17年3月 福山市教育委員会・神辺町観光協会
 注目すべきは、奈良国立博物館にある国宝「紫紙金字金光明最勝王経」は、もとは備後国分寺にあったもので「天暦10年(956)に尾道
の西国寺へ五重塔を寄進した際に納められたという」と書いてあった。   →    国宝「紫紙金字金光明最勝王経」

なお、現存寺は元禄七年(1694)に再建、唐尾山医王院国分寺と号し、真言宗大覚寺派となっている。
仁王門を取り囲んで大きな石臼が並べられている。かって神辺平野で製粉業が盛んだった時代の名残であろう。

002 天別豊姫神社(あめわけとよひめじんじゃ)  画像みる    ↓

池のある
境内(固屋と呼ばれる居館跡)

  建武年間(1334-38)に備後の守護であった朝山次郎左衛門尉景連が神辺城を築城の際、城の守護神として勧請したと伝えられる。
 明治時代前の通称は「神辺大明神」と称され、現在では、天別さん、あるいは豊姫さんと呼ばれている。主祭神は豊玉姫命(とよたまひ
 めのみこと)で、神辺平野が穴海(あなのうみ)と呼ばれていたころ(延喜式では備後国 安那郡で、その後時代がくだって、隣接する深津
 郡と統合され 深安郡となった)網付(あみつき)の漁民たちが海神の豊玉姫命を荒磯の岩上に祀ったのが最初だと伝えられる。
 他に祭神は速進雄命 事代主神の二柱が在り、吉備津彦命と 火之加具土神が合祀される。

 元慶二年(878)従五位上を授与され国司の崇敬篤く、式内社・天別豊姫神社に比定されている古社で、明治二年、神辺大明神から天別
 豊姫 神社の古称に改称された。

 幕末から明治にかけてこの社の宮司であった鈴鹿秀満は国学者として知られている。
 所在地:旧深安郡神辺町川北、JR神辺駅の東500mほどの黄葉山中腹に境内があり、313号線に沿って鳥居が建つ。

 天別神社境内にある池の辺りに固屋と呼ばれる領主や家臣団の居館があった。(現在でも杉原屋敷と呼ばれているとか)
 古書に「屋鋪あり、是即ち盛重屋敷なり、昔井あり長刀一振落ちて有之よし」「備陽六郡志」

003 神辺城から城下の眺望 - - - - - - - - - - - → 城郭案内  画像みる    ↓

神辺歴史風俗資料館


遍照寺山
城址

 神辺城興亡史(黄葉山▲328.5m) 「備後の歴史散歩」 by 森本 繁 著  fm: 山陽新聞社刊

 「備後古城記」によると南北朝時代の建武2年(1335年)に備後守護職に任ぜられた朝山次郎左衛門尉景連によって築かれたとされる
(ただし、備後古城記の成立は江戸時代に入るので、南北朝時代に関する記述の信憑性は疑問視されている)。
朝山次郎景連は元弘の変(1333)のとき、伯耆の船上山に拠った後醍醐天皇の下へ、数百騎の手勢を率いて駆けつけた功労者。


以後、備後守護職は交代、南北朝から室町にかけて仁木義長、石橋和義、細川頼春、上杉顕能、岩松頼宥、細川頼之、渋川義行、
今川了俊という武将が名をつらね、最後の了俊は永和四年(1378)七月まで備後守護職を勤めている。

尾道の浄土寺文書によると、翌年の康暦元年(1379年)からは山名時義の名が記されている。
山名氏は室町幕府四職(ししき)の一家である。新田義貞の長子義範に始まる。
山名時義の子時煕(ときひろ)の守護職の時、明徳の乱により山名氏が衰退し、幕命により細川頼之が讃岐から備後へ復任する。
細川氏の在任期間は明徳元年(1390)から応永八年(1401)までの11年である。この後、応永八年(1401)三月二日、再び山名氏が
備後守護代の地位に就く。山名時煕は永享五年(1433)までの42年間にわたり支配し、その所領を子息持豊(完全)に譲った。
持豊には満豊という異母兄弟があり家督相続など経て、是豊・政豊・俊豊・致豊・祐豊と137年間つづいた。


山名祐豊時代に、庶家の氏政が宗家を追放して守護職を奪って内紛となった。この内紛に乗じて周防の大内氏と出雲の尼子氏が
勢力を伸ばしてくる。天文7年 (1538年)、大内義隆の命をうけた山手銀山城主である杉原理興(ただおき)が神辺城を攻撃し、最後の
山名氏の守護職であった氏政を追放し城を奪った。氏政は別名、忠勝。山名祐豊は但馬の守護職を兼務して神辺には居なかった。
但馬の有力国人衆太田垣氏を守護代として派遣していたが、垣氏は大内氏の勢力を後ろ盾に政権を維持していた事情があった。
氏政は尼子と手を結びこの太田垣氏を追い落として神辺城主となっていた。

杉原理興は大内義隆より神辺城主を任命され、妻が山名豊清の娘であったこともあり山名氏を名乗り自己権力の正当性を主張した。
天文九年(1540)彼が備後一宮・吉備津彦宮に寄進した鏡の銘には「山名宮内少輔源理興」と刻んでいる。
その後、神辺城は備後地域の要所として修築され、尼子氏の対抗勢力として備南の国人衆を率いていった。

応仁元年(1467年)に勃発した「応仁の乱」に呼応して中国地方の雄であった尼子氏と大内氏の争いが起こると、尼子氏と結んだ当時
の備後国守護「山名忠勝」は大内氏と手を結んだ「杉原理興(ただおき)」に攻められた。天文7年(1538年)に忠勝が敗走すると、
杉原理興は村尾城を拠点に後南部を支配して、「山名」姓を名乗ることになった(残太平記・大内義隆記)。この改姓の理由は記されて
いないが、守護職であった山名氏の後継をアピールする狙いがあったのだろう。そして、村尾城は理興の居城として大きく改修されたと
いわれており、神辺城の原型はこの時代に築かれたようである。


その後、尼子氏と大内氏の争いが尼子氏の優勢に傾くと、理興は天文11年(1542年)に尼子氏へと寝返るが大内氏は勢力を取り
戻して、今度は大内氏が杉原氏を攻めることになった。この戦は俗に「神辺合戦」と呼ばれ長期戦となったが、山名氏側(尼子勢)は
徐々に拠点を落とされ勢力を失っていき、天文16年(1547年)に神辺城への総攻撃が開始されることになった。この後、理興が去り、
村尾城は大内氏の重臣である青景隆著(あおかげたかあきら)の支配となったが、弘治元年、理興が毛利元就(このとき元就は大内氏
の後を継いでいる)に恭順すると村尾城は理興に与えられ、理興は姓を杉原に戻した。しかし、理興は2年後の弘治3年(1557年
)に死去する(陰徳太平記、巻2)。このとき、理興には嗣子がなかったため、家督は四番家老の杉原盛重が継ぐことになった。


毛利元就の配下となった杉原盛重は備後で勢力を拡大させつつ毛利氏の戦に参加して数々の功績を挙げることになった。盛重の
留守中は村尾城の城代を重臣「所原肥後守(名は不明)」が務めていたが、永禄12年(1569)六月十八日未明、盛重が筑前国立花
(福岡県)に出兵していたとき、理興の旧臣で盛重の杉原家相続に異を唱え野に下った当時次席家老だった藤井皓玄が謀反を起こ
し郷党・旧臣500騎を率いて村尾城を占拠した。尚、このときの村尾城の守備は30人に過ぎなかったという(後太平記、巻38)。
しかし、城は2ヶ月も経たないうちに盛重に奪い返され、逃亡した藤井皓玄は備中国西大島石砂の小池の傍らで自刃した(備中府志)。
そして、天正9年(1581年)に盛重が死去すると、子の元盛が後を継ぐが、元盛は天正10年(1582年)に弟の景盛によって
殺害される。しかし、毛利元就はこれを許さず村尾城から景盛を追放し天正12年(1584年)に滅ぼした。それから村尾城は毛利氏
の直轄とされ譜代家臣が交代で城番を勤めることになった。



安土桃山時代には毛利氏の支城であったが、関ヶ原の戦いの戦後処理により所領が没収されると、替わりに福島正則が入封して、
神辺城には筆頭家老であった福島丹波守正澄が3万石で置かれた。しかし、福島氏は元和5年(1619年)に改易され、水野勝成が
入封する。水野氏は西国の外様大名を監視するために配置された譜代大名であったため、その役割を担う城としては神辺城は規模
が小さく不便であるとして、芦田川河口の常興寺山に新たな城(福山城)を築いて神辺城は元和5年(1619年)に廃城とされた。
(水野勝成がこの神辺城を嫌ったのは、過去の攻防において三度、落城した歴史があったからだと伝えられている。。

この三度の落城とは、天文7年(1538)7月、城主「山名忠勝」は尼子の幕下なるも大内氏が山手銀山城主「杉原理興」(たつおき)を攻めさせて
落城、天文18年(1549)、永禄12年(1569)城主「杉原盛重」が毛利勢として出兵の留守に藤井皓玄が兵を挙げ、城の守備留役を攻めて落城。)

004 菅茶山と廉塾江戸時代の神辺往来  画像みる    ↓

神辺本陣

関札


 神辺宿と管茶山の廉塾: ⇒ 昭和25年に国の特別史跡に指定、宮島嚴島神社他現在63ケ所のなかのひとつ。


備中矢掛の石井家本陣で宿泊した参勤交代の西国大名は、高屋宿で昼食をとった後、備後に入り、この神辺宿西本陣尾道屋で宿泊した。
黒塗り土塀の御成門があり、筑前黒田家が常宿としたことから門の屋根瓦には黒田家の家紋である藤巴がついている。また、宿泊した各
大名たちの関札(せきさつ)が札の間いっぱいに展示されている。(黒田家は「筑前少将宿」)
神辺には西本陣のほかに東本陣があり、東本陣の遺構は台所門が残るだけである。 この東本陣の荘屋であった菅波樗平の子が漢学者
として高名な菅茶山(1748-1827)である。茶山は明和三年(1766)の上洛以来、京都遊学を繰り返した。
安永6年(1777)、六度目の遊学から帰って後、天明元年(1781)に家塾を開いた。 塾の名前は「黄葉夕陽村舎」とし、後に福山藩の郷塾
となり、廉塾と号した。塾生は武士から町人、農民にいたるまでさまざま、出身地は全国におよび安芸国から頼山陽がここで一時塾頭を務
めている。
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☆2012/04/08
 春の陽気に誘われて神辺駅周辺を散策の途中に訪問。
この史跡が国の特別史跡指定であることをボランティア・ガイドの方からお聞きした。北は五稜郭・三内丸山遺跡から南は熊本場・西都原
古墳まで国内一級遺蹟群にランキングされていることを初めて知った。この日はボランディア・ガイドの方の説明を聞かせていただいた。
同行は姫路から来られたというご夫婦と三名、茶山先生が福山藩に寄贈した7反あまりあったというこの塾内を散策した。⇒ ClickHere

005 鴨神辺町史跡略図  画像みる    ↓
     
下御領八幡宮


☆神辺関係リンク・サイト
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道上   岡山神社と五角柱地神碑  2012/05/10 標高37mの亀山に  弥生時代の環濠集落の遺構と古墳が発見された地
市域   七日市と中原荒神社の五神名碑  2012/04/08桜開花に誘われる  七日市荒神と廉塾とは旧山陽道に沿った1町間隔
中条   八幡神社内にある陰陽大明神社  2012/01 & 04/08写真撮影再訪  この週末4/15にお祭りがあるとの情報あり。
 七日  国指定特別史跡「廉塾」再訪問  2012/08/08 観光ガイドさんの  説明を聞き、見えない処が見えてきた貴重体験日
御領  上御領の一里塚趾、四ツ堂などなど  2012/02/10 通りがかりにヒット  国道313号東進中に「事代主命」碑に遭遇、地神他
御領   備後国分寺の周辺五神名地神碑  2012/01/14 井原M氏情報  途中2基は犬歩きHitの碑。神辺地区はこの碑頻出
深水  宮太柱の宅地趾地と荒神社&墓所  2011/12/22訪問(武田先生案内) 神辺西中条の 深水川を北上、深水公会堂の西の山
湯野  五神名地神碑2基  2011/12/22 井原M氏情報 湯野にある青龍神社の境内と要害山裾の久原に在り
竹田  五神名地神碑(年号有都合6角柱)  2011/11/08  々上  神辺地区では最初の五神名地神、下竹尋の農道脇
湯野  菅茶山記念館  2011/04/01 はじめて訪問 入館料無料、非常に立派な施設。茶山の有徳の証
   ☆ここから下は神辺関係参考サイト一覧(外部サイトです)   
001  神辺町観光協会 神辺本陣、廉塾、葛原邸などなど  コンパクトな史跡ガイドです
002  神辺城次第  神辺城の築城より城主の変遷史  作者は高知市在住の杉原勇二氏
003  備後国Wikipedia  最も基本的資料  備中はこちらです → どぞ
site  菅茶山記念館  全国の国分寺 ←すごい数と規模HP  街道別の国分寺一覧より、全国で68ケ寺あり完走とか
2012/05/12更新 08/10/24