| 吉浜新開の灌漑対策 先人たちの努力と叡智を物語る「升池碑」 |
訪問DATE: 2010 11 17![]() |
| 2010/11/13 Created 『升池碑と吉浜郷用水』 笠岡史談 by 関藤不二男氏 昭和53年3月 吉浜は寛文元年(1661)に水野藩主勝俊の治世下に干拓造成されて生まれた村である。
そして翌年の寛文二年(1662)大下池と木之目池が築造、ついで寛文六年(1664)に井出池、船隠池、有田池が完成して 溜池による灌漑工事が完成をみた。 ところが有田池に異変が起きた。流砂と漏水のためだというが時代も原因も詳細不明。池の残骸としては新池の奥の字旭・ 松川に低い土塁の跡や樋の跡などが認められる。 時期については、最近になって元禄十三年(1700)吉浜村検地帳の末尾に「古池の上山」を再発見した。 寛文六年(1664)にできた池が36年後の元禄十三年の検地の頃には過去の池として見られていたのではないか、という 推定である。現在の新池は明治22年(1889)ごろ鉄道用の土塁に竹藪や畑の土を提供し、残った処に堤を築いてできあが った。一町五反七歩三合が潰地(かいち)となり、水面積七反五畝。 木之目池の事情。この池も海岸線の湾入部を堤防で囲って造成された。 谷々の奥から流れでる水に混じって土砂が堆積し、その浚えと捨て場に苦しめられた。文久三年(1863)年には吉浜村に 土地の一部を売却し、池の水を新川へ流した後に池の土砂を浚えた。 新川水系に頼っていた吉浜側では夏枯れ時期の渇水に苦しんでいた。 この窮状に救いの手をさしのべたのが西濱村久我源三郎である。木之目池から新川へ流す水もあって新池をその下に作る のが得策であろうと起案。寄附を募り明治十二年(1879)三月に着工の運びとなった。翌年四月、竣工し升池と名付けら れた。木之目池とつながっている升池は一町一反六畝廿二歩、内堤塘一反一畝八歩で差引水面積は一町五畝十四歩。 「升池」碑文(原文は漢字)昭和49年正月に池の内側で再発見、後に読み解かれそして現在地へ移設・保存された。 吉浜の東郷は、毎夏旱損を患い、田圃は亀折(きせき=皹割れ)し禾枝(かし=稲枝)は焦枯して黎庶(れいしょ=人民) 飢を思う者年に有り。先人久我源三郎甚だ之を憂え、岡原市郎と大橋保太郎、石井常四郎に謀って曰く、天災の流行は免れ ざる在りと雖も、而も人為(た)る者、袖手傍観之が備えを為さずして可ならんや。手ずから宜しく一大池を開鑿し、以 て灌漑の用に資すべしと。仍ち本村及び隣近の諸邑と協議し其の賛成を得て、地を卜うと財を鳩(あつ)めて、経営企劃し、 明治十二年春三月を以て工を興し十三年四月に至って功を竣(おわ)る。広さ凡そ一町歩、堤防は牢固にして潰れず、泄 (も)れず。是自後は水足り田豊かにして復旱損の患いなし。一郷大いに悦ぶ。名付けて升池というはその形、具に似た るを取る。此(毎)年秋収の多量を祈るなり。諸氏余に請う、諸を石に書し以て池上に置く。明治十三年秋八月 久我房三識 2010/11/17 金浦から新川に沿って土手を北に進むと、農免道路と交差する。 この信号を直進し、古比須橋を渡りすぐの右手に土手が見える。これが升池。そして升池碑は写真下の左端に高さ1m ほどの小さい石柱である。 吉浜干拓が完成して約200年の後の明治の頃にも、先人たちは夏の旱魃に苦しんでいた。 この水不足を補うために、自らが企劃し自らの資力で造成・築造した「升池」は万寿という字と増々なる意味を秘めた 苦境を克服した達成感の矜持を感じさせる命名ではないか。古比須橋の向こうの公園にはたいそう立派は古比須碑があ るけれども、こちらの碑は命名の古比須がホトトギスの古名だというだけで、命名者と揮毫者への諂いだろう。 一方、升池碑は昭和49年の正月に再発見されてより関係者たちの読み解きと保存がスタートした。そして、書かれた碑 文から関係者たちの先祖が取り組んだ灌漑工事の記録が蘇ったのである。升池碑はつつましいお姿ではあるが時空を越 えて先人の活躍を頌えている。 |
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