| 吉浜新開に点在する五角型地神柱 (現在5基を確認) JR山陽線有田踏切の南、新池の東&吉田川西堤 訪問:2010/10/31 & 11/26 |
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| 2010/11/26 当麻の五角柱地神 | 迫の地神柱 |
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| 五角形地神碑「ジジンサマ」の吉浜地域分布について | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 地神碑をこの日たまたま発見(分布図は右写真上・中段参照のこと) 三基とも石柱の五面に刻まれた神々の名前は次ぎの五神となっている。 天照大神(五穀の祖神)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと:稲の霊)、埴安媛命(はにやすひめ:土地の神) 大己貴命(おおむなち:農耕神)、 少彦名命(すくなひこな:国土造成・農耕・大己貴命と一対) 写真上@: JR山陽線の有田踏切の手前(南側)。線路の向こうに四ツ堂の屋根がみえている。その四ツ堂の前が農免道路。 この道路は吉浜干拓にともなう締め切り土手であろう。土手の西側部に建っているのは金浦湾が湾入した最深部に当たり、もっとも古い時代の 建立と思われる。 写真A: 農免道路の北側に新池がある。小字は四ツ堂を境に西が銀山、東が松川となっている。地神碑は新池の東端に水田を見守るように建 っていた。(主寸法:高さ75cmφ75cm 基壇40x40cm方形、高さは75÷3≒25寸で2尺5寸になっている。径もまたおなじ) 写真B: 吉田川の西堤防にこんもりとした雑木に囲まれて碑が建っていた。この碑も西側に開けた水田を見渡す高場にある。 三基とも水田農耕と密接に関係する守り神という存在感がある。共通していえることは基壇があり注連縄が張られている様子は現役のようだ。 この日は枡池の周辺に建てられたという完工碑を探して歩いたのだが、本命の碑石は発見できず。その代償に三基の地神さまと遭遇となった。 社日さん(出雲ではシャニチと呼ばれている)写真右下段 社日 雑節の一で、春分・秋分に最も近い前後の戊の日。社とは中国で土地の守護神、または部族の守護神、その祭祀のことをいったから、社日 とは社の祭を営む日のことである。中国では社の祭は時代や地域によって一様でないが、唐代には立春と立秋後の第五の戊の日をあてたという。 『荊楚歳時記』の一本には、秋分の日に牲をもって社をまつり、仲春の月よりも盛大に祝って、翌年の豊凶をも占ったという。日本の社日はこの中国 から伝来したものであるが、稲作が開始される春と、収穫を迎える秋とに祭る田の神の信仰を基礎に受容したものであろう。 現在の習俗でも、春秋の社日には仕事を休み、土をいじらないなどと伝えている。そして東九州や北九州、中部地方などでは、社日様は田の神また は作神様といい、この両季に田の神と山の神の去来信仰と同様の伝承をもっている。 −『神道辭典』− 埴安媛命は、伊邪那美が火の神迦具土を生んで、陰所を焼き苦しんで尿をした、その尿から化身した神で、水の神が弥都波能売(貴船の神)、土の 神が埴安媛命だ。 「米子ではこの日、地祭といって灘に出て潮水と浜砂を社日さんに供えて五穀豊じょうを祈願していました。 その社日さんの五角形石塔が旗ヶ崎や青木神社や粟嶋神社などに残っています。」http://www.yonago-city.jp/minwa/minwa059.htm 井原〜笠岡の近隣地域にある五角形の「地神様」(実地確認済のみ掲載) h22/10/31現 笠岡では通算で8例目、井原を含めると9例目
この奇妙な形の石造碑に最初に気付いたのは笠岡大″ッ神社境内の地神碑だった。五角形=五穀豊穣という図式から天照大神と大己貴命が 他の神々たちが祭神に祀られているとのことであるが、役小角を祖とする修験道者たちがこの碑を建てる推進者であったという説もあるようだ。 地域によっては修験道霊場が近くにある場所もあり、神社境内もあり、路傍の碑として建つ碑もある。目的は五穀豊穣祈願と明確だが誰が何時、 建立したのか?という時代背景もはっきりとは解っていないようだ。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 2010/11/26 吉浜地区で更なる発見!(金浦歴史研究会Kさんからの情報による) 笠岡では通算で10例目、井原を含めると11例目
平素は気付かずに通り過ぎていた道路にポツンと建つ御姿は神々しい。天照大神が南面するとも限らないようで、吉浜の地神さまの共通点はすべ て田圃を見渡す位置の水路の脇に建っている。(陰陽道では北が大地となる関係で、正面の天照大神が北向だが、その後の移動もあるだろう) 岡山県下で五角柱形地神の建立記年の最古とされるのが現吉備中央町(旧加茂川町)の天明七年(1787)なので、この吉浜地区は県下最西域と なることから、この年号よりは新しい時代に建立されたと思われる。 中国を起源として江戸時代後期に県下西南部の農村部に広がった信仰で、春秋の社(しゃ)日(にち)に土地の神を祭ると五穀豊饒のみならず 天下泰平、家内繁盛、子孫長久、無病息災などが得られるという。 ⇒ CとDの位置図 ClickHere 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 2010/12/02 大島浜地区の二例、両社の距離は2〜3百メートルしか離れていない。 笠岡では通算で12例目、井原を含めると13例目
入江新田の嚴島神社にある地神碑は六面あって、五神に加えて記年号を記して六角柱になっている。明治九年と彫られているのは笠岡で明治に なっても地神碑が新たに祭られていたことを示している。 もう一例の金比羅宮掲題の地神碑には四神しか書かれていない。しかも顔ぶれが個性的である。年号は安政五年、形状は五角ではあるが天照神 をのぞく三神は他では見られない神々だ。幕末の頃の建立だとすれば、この時期には五角柱地神信仰がかなりの変遷を遂げていた証しである。 ネット検索中に、おもしろい事例を発見した。 http://hkangawa.web.infoseek.co.jp/newpage43.html ⇒ 「地神さん」という徳島県下、阿波藩の地神分布の調査サイト。 要約すると、 1−寛政2年(1790)藩主・蜂須賀治昭が、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。 2−この地神タイプは天照大神の面が必ず北き、時計廻りに大己貴命、少彦名命、埴安姫命、倉稲魂命の五神を刻む五角柱地神である。 3−その数は、県下に約2000基になると飯田義資氏は推定。(飯田義資著 1965「地神碑と社日祭」近畿民俗学会21-23) 4- 五角柱碑の分布が北海道に飛地となって分布しているのは阿波藩からの入植者たちの持ち込みによる。 など、など。 寛政2年(1790)とは江戸幕府は第十一代将軍徳川家斉の治世である。 阿波藩では上意下達で地神碑の設置をおこなわれた。 一方、備中での事情は天領や私領が混在していた、天明七年(1787)には既に五角柱地神が建てられていた、備中の碑は神名と方位などが一定 ではない例がある、などから阿波藩からの影響とは考えにくい。別なるルーツ、たとえば幕府主導の運動などがあったのかもしれない。 <五角柱地神碑 分布図> ⇒ ClickHere 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 2011/01/10 北川地区で三、大戸地区で二例、合計五基を合わせると 笠岡では通算で17例目、井原を含めると18例目
位置図: 笠岡市吉浜 |