吉浜(菅原神社)
寛文元年(1661年)干拓造成に伴い吉浜新田村が生まれる
吉浜の皇国地誌(明治22年) by 『笠岡市史』
戸数278,人口1,258人(茂平:733, 大冝 691, 用之江 585人) 牛馬が46頭、人力車7台・荷車18台、そして50石超積貨物船5隻、50石未満船6隻、漁船3隻。
米・麦・雑穀・芋の主要農作物の生産高比較でも周辺村落よりはかなり裕福にみえる。またこの資料で清酒100石(1升瓶が1万本)の生産が記載されている。
この吉浜村の寛文年間の干拓工事完工慶賀で菅原神社が建てられたという縁起。
菅原神社HP(由緒) ⇒click
本神社の創建は延宝2年(1674)吉浜干拓地が完成したのを記念して、備後福山の藩主水野勝慶が造営されたといわれ、眼鏡橋は明治20年地元の石工が築き、ともに笠岡市の文化財に指定された。御神体は菅原道真の小像で、台座裏面には延宝三年の銘がある。
享保2年(1717)、寛政5年(1793)、文化13年(1816)に社殿の屋根修復。文政6年には拝殿の再建を行った。大正10年本殿、拝殿の修復。昭和25年10月本殿、神輿蔵の修理を行った。以上、この社は笠岡では一番ポピュラーな歴史的な構造物のひとつといえる。明治時代に石で積まれた眼鏡橋を背景にカキツバタの咲く参道階段の写真はあまりにも有名だ。この社の縁日は、夏期大祭が7月第4日曜日
:秋季大祭が10月体育の日となっている。
参道に燈る石灯篭 by 『よしはま物語』の「十二頭の変遷」→ 笠岡市史(地名編)
天満宮祭礼当番(釣頭)の住所と出自 現存するのは参道の両側にある石灯籠、それぞれ「干支+当番」と刻まれて建っている。
(例) 祭礼当番 「子」 釣下員数 5人 住所 銀山の中程 出自は浅口市郡新庄村
「丑」 9人 松川 後月郡吉井村
「寅」 11人 大東鏡山の麓 後月郡笹賀村
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これらの当番は輪番制で村社の運営を分担した。
位置:N34°30'37" E133°29'03"
神社入り口の狛犬
旧狛犬は陶製也。今あらためて石像を謹みて奉献す。昭和四十三年十月一日 寄附者 神原富保 石匠 豊田重市
市指定筆跡典籍 梅歌千首集録
吉浜村出身の歌人・国学者の関鳧翁(関藤政方まさみち)が、父正信の意思を継ぎ、全国二七カ国、三九四人の歌人に依頼して梅花の和歌一千首を集め、五十年の歳月を費やして完成させた歌集である。菅原神社へ奉納したのは、安政三年(1856)二月、鳧翁七一歳のときであった。全部で五巻あり、桐製の箱に収められている。
昭和三十四年三月二六日 笠岡市教育委員会
☆サイト内りんく
| 表題 |
内容・詳細・説明 |
場所 |
Date |
| 素朴な木之目の石橋 |
吉浜の石橋と云えば菅原神社の眼鏡橋だが、この石橋も素晴らしい。木之目への道に架かっている |
土手 |
2010/11/27 |
| 升池築造完工碑 |
明治12年になっても吉浜新開では灌漑管理で問題を抱えていた。その難問に果敢に挑戦した記録。 |
鏡 |
2010/11/17 |
| 気になる小字「銀山」 |
吉浜と有田の境に銀山という地名が残っている。鉱山採掘の名残だといわれてはいるが。。。。。。。 |
銀山 |
2010/11/13 |
| 吉浜五角柱地神碑 |
有田踏切の南道路脇にある五角柱を偶然発見。更に新池を歩くとそこにも一基、そして吉田川西堤防に。 |
松川 |
2010/10/31 |
| 吉浜下道完工碑文 |
横島の鳴ケ端で発見された横穴式古墳、後になって戦国時代にここに陶山一族の海城が築城された。 |
湾頭 |
2010/10/31 |
| 東西に四ツ堂あり |
水野支配下に建立されるも詳細不明、東と西にそれぞれ現存する。特に西堂は一間半四面で大きい。 |
東郷 |
2010/10/31 |
| 古比須と改名の理由 |
土手内という地名をホトトギスの古名である古比須に改名、一体何の目的があったのだろうか? |
土手 |
2010/10/31 |
| 変身地蔵(変地蔵尊 |
笠岡威徳寺の「白岩地蔵」が一時期吉浜で祀られていた。紛争となり身代わりにこの地蔵尊が村に来た。 |
西迫 |
2010/10/31 |
| お清明神と白馬様 |
吉浜土手の東水門の山際に、岩を削り取ってちいさな祠が二つ並んでいる。この石仏はむかしから、、、 |
湾頭 |
2010/10/31 |
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
菅原神社参道入り口 |
画像みる ↓ |
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1-関藤々陰先生誕生之碑
2-関鳧翁墓石
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岡山県指定と笠岡市とが重文の競い合い?(w)
県が石橋を指定で市は神社本殿を重要文化財に指定。また、市は左の立札にこの神社に奉納された「梅花千首集録」を重要文化財に指定している。
その効能書きは、『笠岡の学者で歌人である関鳧翁が五十年の歳月を費やし廿七か国三百九十四人の学者文人から梅に関する千首の歌を収録したもので
五巻よりなる。安政三年(1856)の完成である。所有者・管理者:笠岡市吉浜菅原神社 備考:鳧翁名は政方(まさみち)小寺清先の門人、関藤々陰の長兄にあたる。万延二年(1861)死す。』
注:国学者小寺清先(寛延元年(1748年)~文政10年(1827年)、享年80歳) 関鳧翁は天明6年(1786年)吉浜村の生まれなので師弟38歳の年の差あり)
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002
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参道を迎える石灯籠群 |
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3-本殿
4-随神左大臣
5-随神右大臣
6-内狛犬 |
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この石灯篭には参道の手前から奥に向かって子・丑・寅・卯・辰・・・当番と刻まれた順番に並んでいる。
が、きっちり12基というわけでもない。ざっと数えて14基、おなじ干支がだぶって置かれてた。たぶん、新旧の入れ替えがあり双方が重なった結果だろう。
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釣頭制度について by『よしはま物語』(関藤不二男氏著)
「釣頭は十二頭と呼ばれ水野藩支配下でこの地域吉浜村独特の制度として導入された。氏宮である菅原神社祭礼当番をこの十二人が交替で占めてきたと同時に、村役一切がこの中から撰ばれた。
水野家断絶元禄十一年(1698)後の元禄十三年(1700)以降の天満宮の祭式を釣頭制度が受け継いだ。その後、宝暦六年(1756)子の年より順次釣頭&釣下の氏名が当番に当たり、享和四年(1804)相互扶助制度である「知名美講ちなみこう」る記録が残っているが、寛政年間(1789-1801)頃より釣頭株の売買により変動があったり、封建的世襲の制度に反発を招いて時代が下るにつれて一般の百姓たちとの紛糾(訴訟)が発生する。
参道にある石灯籠は釣頭制度の遺産でありその寄進年号は、寛政から淳和・文化・文政に亘る。」
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003
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本殿境内 手水(盥漱)石(かんそういし) |
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7-菅原道真公歌碑
8-吉浜開拓3百年記念碑
9-境内別院社
10-菅原神社境内の「手水鉢由来」 |
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手水(盥漱)石(かんそういし)由来 (吉浜村に残る俚謡:盆踊り唄)
所は小田郡 あの吉浜の 一の氏神 天神さまへ
石の手水鉢 御寄進なさる 石の世話方 喜曾次様よ 石はないかと 方々さがす 石はあります程遠からぬ
沖の高島 黒土鼻に 凡そ目方が七千貫目 是を船頭衆に 相談すれば それを積むなら 船は目茶目茶と
そこで喜曾次様が賢い人で 国に帰って相談なさる 評議なかばで よい分別は 村の氏子が空樽かいて
集めましたよ 七十五挺 岩の周りに鳴子の如く つなぎつけますこの空樽を 明日はついたち大潮満ちて
思う吉浜へ一つ走り
(注:石の重量(目方の七千貫目)を@3.75Kg・貫で換算すると26.25トンとなる)
☆2010/11/06 盥漱石確認
上の歌は吉浜に伝わる盆踊り歌だという。従って作者名も時期も定かではないが「よしはま物語」にその歌詞が掲載されていた。
○○様の欠字『所は小田郡 あの吉浜の 一の氏神 天神さまへ 石の手水鉢 御寄進なさる 石の世話方 喜曾次様よ』
この知恵者喜曾次様とは、喜曾次橋という橋に名をとどめているとのこと。
いずれにせよ、当初の盥漱石は寛文元年(1661)吉浜の汐留工事前に高島黒土瀬戸からこの地に曳かれてきたらしい。
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更新2011/12/31 |

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