笠岡からは別国だった吉田村
関戸寺跡、そして遍照寺発祥の地、笠岡の母なる里
吉田村の概観:市史からの抜粋(備中小田物語)⇒県内最古の地誌のひとつ元禄六年(1693)原本は散逸、浅尾儀一郎氏発掘s3刊行。
慶長四年(1599)に前地頭村上八郎左衛門景廣 音戸浦へ所替にて行
同慶長四年に毛利元康領 只一年か 同慶長五年関ヶ原陣 冬より御領小堀新助御代官、同七年秋 渡辺五右衛門 稲留勘斎検地いたす。
慶長九年(1604)秋より元和元年(1615)に至って岡越前十二年を知行す。
抑越前の父は豊前とて宇喜田直家の長臣 三万五千石を知る 関東へ行権現様にまみえて星田 大蔵 甲怒 西方 園井 今立 当村七ケ村五
千石を知て当村に住し後には甲怒へ移る。
岡越前家俊の嫡男平内は明石掃部の聟たるより大阪に籠城(*注)し乱後に忍びて備中に下り爰かしこにかくれ居けれ共 親に罪科のかかるを
なけきて自名乗て 父の方へ在所を告知らせ侍れば 兼内通仕候とてその罪のかれかたくて 京都妙願寺にて越前平内共に切腹し相果けるとそ。
同次男忠兵衛は権現様へ扈従にて関東へ御供仕 駿河にて切腹し侍るとなん
また津島新兵衛秀勝は其先は阿波国三好一族 父は三好新兵衛兄は弥助善清也
其昔三好の軍卒宇喜田直家を備前津島の郷に囲て戦ふ。 時に弥助は戸川興八郎と組討して首級を取 また秀勝は岡越前と槍を合 戦功をはけむ
といへとも利なくて帰陣せり。 その後彼時の武功を感して浮田方より秀勝を召寄て津島郷をしらしむ。
岡越前の旗下に属し三千石の役に勤む これに依て岡越前の与力に附て吉田に来る。
越前切腹の後は走出村に浪人し後には新賀村長迫に住侍り 其子三好小兼等なり。
(*注)明石掃部は平内の舅(嫁の父)、キリシタン、一緒に大阪夏の陣で城内に立てこもりその後、郷里に落ち延びた。
☆遍照寺移転: ⇒ 笠岡「遍照寺」 ClickHere
笠岡の町の象徴とも言える「光明山遍照寺」はかってこの吉田村の山手に在ったというのが定説のようだ。
その場所は「遍照寺壇」or「遍照寺屋敷」と呼ばれていた。備中誌には「吉田村三峯にあった。その廟所、石塔は吉田村にあり、そこをドシンという。」
と書かれている。妙見山の西麓の花操峠の付近にあり、そばに「壇ノ池」や「ドウドウ池」(堂々か)があり、「石塔」という地名も残っている(笠岡市史
もおなじく記載)。
移設された時期は応長元年(1311)、時代は鎌倉末期にあたり古義真言宗の大覚寺派が繁栄を究めた後宇多天皇の時代(1274-1321)と結び付く
かどうかは解らない。一説には元弘元年(1331)陶山藤三義高が遍照寺を笠岡に移したという伝承があるが、正確なことは不明。
信頼すべきは応永19年(1412)京都北野天満宮で一切経の写経が行われた。この時、備中国陶山庄笠岡遍照寺から、英乗(原字は石+英)・宥
兼・宥真・妙安・覚真・定泉の学僧を派遣している。
また「水野記」によれば「遍照寺は備中国真言宗随一の寺で永享年中(1429-40)当国の領主陶山氏が修補し、寺領五十貫を寄附した」とある。
開祖は宥順、京都七条通真言院、詳しいことはわからない。(この項「笠岡史談会会報・広沢氏を引用)

吉田村の領主歴:
慶長4年(1599)までは、村上八郎左衛門景広の領土であった。その後の変遷は、
慶長4年(1599)~慶長5年(1600) 毛利元康、~ 慶長9年(1604)は幕領 備中国奉行 小堀新助(遠州)高松城に居城、小堀検地村高896石
慶長9年(1604)~元和元年(1615)は私領、 旗本 岡越前守
元和元年(1615)~元和3年(1617)幕領 備中国奉行・小堀作助(遠州~松山)
元和3年(1617)~寛永18年(1641)私領 池田備中守長幸(松山城)
寛永18年(1641)~正保4年(1647)幕領 代官 米倉太夫
正保4年(1647)~延宝7年(1679) 幕領 代官 彦坂平九郎 父子三代 (延宝5年 検地 1,124石8斗7升、水谷左京亮 検地),
延宝7年(1679)~天和3年(1683) 幕領 代官 都築長左衛門
元和3年(1683)~貞享3年(1686)私領 庭瀬藩・久世出雲守
貞享3年(1686)~元禄7年(1694) 幕領 代官 森本惣兵衛、元禄7年(1694)~元禄10年(1697)幕領 代官 万年長十郎
元禄10年(1697)~宝永3年(1706)私領 西江原・森和泉守長継
宝永3年(1706)~正徳3年(1713)幕領 代官 万年長十郎、正徳3年(1713)~延享元年(1744)幕領 代官 野田三郎左衛門
延享元年(1744)~宝暦11年(1761)幕領 代官 千種清右衛門、宝暦11年(1761)~天明8年(1788)幕領 代官 風祭甚三郎
天明8年(1788)~文化11(1814)幕領 代官 菅谷弥五郎、文化11(1814)~文政元年(1818)幕領 代官 阿久沢修理(石見大森兼務)
文政元年(1818)~文政10年(1827) 幕領 代官 大草太郎右馬
文政10年(1827)~慶応3年(1867)準幕領 一橋家・徳川氏 この時代の代官所は井原市の西江原に在った
明治元年(1868) 芸州藩鎮撫所、廃藩置県
明治3年(1870) 倉敷県支配 知事 伊勢新左衛門、 明治4年(1871) 深津県 権令 矢野光儀
明治5年(1872) 小田県 権令 矢野光儀、 明治8年(1875) 岡山県 県令 高崎五六
皇国地誌:管轄沿革
上古詳ナラス元禄中(1688-1704)ヨリ幕府代官所ノ支配地タリ 其ノ後文政十亥年(1827)ヨリ慶応三卯年(1867)マテ一橋家ノ采地トナル、
明治元辰年(1868)幕府大政奉還ノ際芸藩ノ鎮撫スル所トナル 幾モナク又一橋家ニ復ス 同五壬申年小田県管轄ニ属シ同八年十二月岡山県に属ス

箱田山神社: 拝社地東西三十間、南北三十間、面積三反歩、本村東シ山麓にあり、祭神吉備津彦命本村の氏神ナリ-----→ ClickHere
創建年月日、由緒は不詳。延宝5年(1677)の検地帳、小田物語や、本殿再建が嘉永元年(1848)とする記録からすれば時代はかなり古い。
古記録によると、この地の神社は一の宮大明神(地区の人々は森脇大明神と呼んでいた。)が祀られていたが、明治43年村内の諸神社(吉川の八幡神社、
田平の六社権現、迫の天神社、山手の荒神社、仁吾の大歳宮など)が合祀され、この地に村社「神饌幣帛料供進神社」 箱田山神社が誕生した。
鳥居、唐獅子、常夜灯、灯籠等は地区内各社への奉納者の名前が刻まれている。 また、主祭、配祀神が多いのもこのためである。
現在、当神社のお祭りは、春と秋二期に行われているが、5月14日の例祭「春祭り」は合祀を記念した「合祀祭」である。
主祭神: 吉備津彦命、上津綿津見神(かみつつわだつみ)、小彦名神(すくなひこ)、素盞嗚命、大歳神(おおとしのかみ)、応神天皇
配祀神: 大山積神、若年神(わかとし)、神功皇后、市寸嶋姫命(いちきしまひめ)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、多紀津姫命(たきつひめ)、
中津綿津見命(なかつわだつみ)、底津綿津見命(そこわだつみ)
境内社: 火産霊神社(ほむすびじんじゃ)、荒神社
建物: 本殿、幣殿、拝殿
境内地: 517坪 (この項、「ふるさと よしだの史蹟
by 吉田公民館)

ヒメアヤメの自生地: 市指定天然記念物(昭和31年) ⇒ ClickHere
九州・四国・中国地方のごく限られた地域で低い山地に自生する。
ここ吉田地区が世界における東限地帯だと学者はいう。箱田山神社の南の山裾に自生するが、今では天然自生はほとんど見られない。
アヤメ科の多年草で、10センチの可憐な花が4月中旬に開花する。花の寿命は1週間~10日間。
☆2012/04/21 案内板発見、開花鑑賞す ⇒ ClickHere 開花に合わせた地元のイベントは2012/04/29(日)開催、という貼り紙があった。
皇国地誌:地勢
東南山岳ヲ負北方山脈中断シテ乾位又山峯アリ、西ノ方平野ニ俯シ遥カニ見ル。 地勢東ニ高クシテ西漸ク卑レ中央流水ヲ以テ界画ス
全面凹凸均カラス 運輸通常ニシテ薪炭トモニ乏シ
山: 虚空蔵山 高サ直立九十丈(換算で273m 現地図▲258m)本村東ニアリ、嶺上二分シ一ハ山脈東南ニ向ヒ起伏綿亘シ浅口郡里見村ニ伏シ
一ハ西北ニ低レ本村ニ属ス 全山髠樹木ナシ
川: 吉田川 三等ニ属ス。 平時渓水一綫、源ヲ本村霧ケ谷ニ発シ本村中央を貫注シ小平井大戸大河ノ諸村経テ転折南流海ニ入ル。
村内ヲ流ル長サ二十四町十三間広サ 弐間 平川ニシテ堤防ナシ。

池: 藤五郎池 藤五郎が朝飯前に掘ったいう伝説の池。
延宝5年(1677)の検地帳に次ぎのように記してある。
「池床 拾弐間 参拾六間 壱反九畝六歩 唐五郎池 是者古池ニ而 年数知不申候 但野池池床ニ成申候故分米無御座候」
池の東の小高い丘を「神ノ木」といい、かってはその地に「藤五郎神社」があった。

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内容 Contents |
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箱田山神社前の常夜灯の風景 |
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箱田山神社は村の中央に位置している。
この位置に立つと四方が山に囲まれて、あたかも盆地のなかに立っているような錯覚に襲われる。この吉田地区を水源として、南に流れる
川が吉田川。小平井・大戸・大河・金浦と流れて海に注ぐ。北へ流れる川は尾坂川で関戸・新賀・山口・甲弩を流れて矢掛町で小田川に注ぐ。
吉田村は廃藩置県で一橋領から小田県になり、昭和28年に笠岡市となるまで独自の文化が育くんできた。海のある笠岡ゾーンとの行き交い
よりも尾坂川が流れる方向の矢掛町~井原~高梁とのツナガリのほうが多かったかもしれない。
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箱田山神社の参道をのぼる |
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立派な神社である。
長い参道には椙の木が茂り、常緑樹独特の濃い緑のトンネルと木漏れ日の沐浴の道を用意してくれる。
小高い丘に切り開かれた境内から観える吉田の景色は里山の平和、古きよき日本の原風景だ。
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「よしだの史跡」めぐりまっぷ by 吉田公民館 |
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この地図は実寸よりも縦長になっている(w)。
吉田の町はバスの通る基幹道路と箱田山神社以外の道は歩いてはいないが、地図をみると古墳と常夜灯が目にとまる。
反面、寺院が少ない。この吉田~関戸地区には白鳳時代の関戸寺と真言の古刹遍照寺があった。
この地図を片手にいちどゆっくり散策しよう。
☆2012/04/21 五角柱地神碑
旧道バス道と県道笠岡美星線との間の間道沿い、吉田バス停の北側付近に鎮座する。
地蔵堂の瓦葺小祀と六十六部日本回国供養塔、御影石製家型宝殿(ラントー)などが集積された一隅である。
この碑の創建は嘉永七年(1854)、三段の基壇に五角柱地神碑。だが不思議なことに神名は「天照皇大神」のみ。他の四神は。。。?
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木勢以の五輪石塔 |
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説明板に書かれた内容
『笠岡市指定 石造美術品 吉田木勢以(きせい)の五輪石塔
吉田字木勢以にある五輪塔は、花崗岩製で高さ138cm、戦国時代末期の武士の墓でありもと当地に住んでいた徳田氏・
小田氏などの先祖墓といわれている。
徳田氏の古記録によれば、もと尼子家の家臣であった鈴木四郎重則が、主家滅亡後この地に隠れて徳田万五郎と名乗り、
農業を営みながら主 家の再興を図ろうとしたが、元亀3年(1572)十月五日に52才で病没した。その子万四郎重成が、父の
七回忌にあたる天正4年(1576)十月十五日に五輪塔一基を建て、松の苗木を植えたという。
その後慶長11年(1606)には亡母をあわせ葬っていることが台石の追銘によって知られるが、初銘は摩滅して読み取れない。
昭和36年10月4日 笠岡市教育委員会』
一方尼子氏の動向をネットから拾うと次ぎのとおり。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で守護代。山陰地方で活動し、戦国大名となった一族である。
初期の室町幕府で影響を持った佐々木高氏(道誉)の孫、高久が近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。室町時代には高久の次男、持久は宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向して月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠り、出雲と隠岐の守護代を務めて雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。
孫の尼子晴久(1514-1561)の時代には山陰・山陽八ヶ国約200万石を領する大大名にまでなった。当時の大内氏と対等な勢力図を築いていたのは事実である(この当時の毛利氏は尼子、大内の2大勢力に比べるとまだまだ弱小であった)。その後、毛利勢との応戦中に晴久が月山富田城にて急死晴久の子義久は毛利氏の攻勢に耐えきれず、永禄9年(1566年)に月山富田城を包囲する毛利氏に降り、戦国大名尼子氏は滅亡した。尼子氏の遺臣である山中鹿介や立原久綱らは尼子一族の尼子勝久を擁立して織田信長の援助を受けながら各地で抵抗し、一時は城を得て尼子氏を再興するが、天正6年(1578年)に播磨国上月城を毛利軍に落とされて勝久は自害し、鹿介は殺されたため、尼子氏は完全に滅亡した。一方、義久とその兄弟は毛利氏に降った後安芸に送られて配流生活を送り、子孫は関ヶ原の戦いの後に毛利氏から知行を給されて長州藩に仕えた者、水戸藩に仕えた者などがいる。』
☆2008/12/14 現地訪問二度目にして、地元のヒトに道を尋ね、捜し廻ってやっとたどりました。
ひっそりとした空間に佇むこの 塔が今に伝えていること、
1-16世紀後半の当時には、この笠岡吉田村の近くまで戦国大名出雲の尼子氏の勢力が及んでいた。
尼子晴久の子義久が滅ぶのが1566年、木勢以の徳田万五郎の逝去が1572年、尼子勝久の自害が1578年である。
笠岡に村上隆重(弾正)が入城したのが1534年、備中兵乱といわれる1567年、まさに笠岡地区も戦禍動乱であった。
2-1541年に萌黄原の合戦(攻:村上隆重 守:5代目城主小田政清)村上軍敗北があった。
吉田は小田氏の勢力圏だと思われるが、説明文では徳田・小田氏の先祖墓ではないかと言いながら、徳田氏の古記録を引用
し尼子の家臣の墓石だと言う。できれば徳田文書なるものの公開を。
小田氏と徳田氏との間には同盟関係でもあったのだろうか?
3-五輪石塔の連想
この時代のこの規模の塔の残存があまり確認できていないのは、建立された数が少なかったせいであろう。
同時に建立できる人物はかなりの社会的な地位があったと考えられる。
しかしながら、同族としての墓が見あたらないことは後裔が途絶えたということなのか、この墓石の建立者の墓すらないのだから。
一般的に墓石を建てるという風習がこの時代には少なかったのでは。
一般庶民はもとより、武士とて死後に墓石が建つケースが稀であり、墓石が社会全般へ普及をみせるのは江戸後期、文久年間
ではなかろうか。
4-五輪の持つ意味
「五輪卒都婆(そとば)(卒塔婆(そとうば))ともいう。五大とは、物質の構成要素である地、水、火、風、空のことであり、輪とは
すべての徳を具備するという意味をもつ。したがって五輪とは、地輪、水輪、火輪、風輪、空輪の総称である。それぞれ方、円、
三角、半月、宝珠(ほうしゅ)形につくられ、日本では平安時代のなかばごろから死者への供養塔(くようとう)あるいは墓標
として用いられた。」Yahoo百科事典より引用
おなじ「五」のつく五行説は、古代中国に端を発し自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成ると説き
この五輪石塔の意味とは異なっている。
教義はともかく、同一の埋葬方法が笠岡のなかで広い範囲に流布している点から中央政権と地方との間でヒトの往来をつうじ
て文化と情報の交流があったことがわかる。
位置図:笠岡市吉田木勢以
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2012/04/21 更新 |
2008/10/20 |

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