横島村、富岡干拓完工八年後の天和二年[1682]に誕生


 津雲貝塚に対峙、縄文土器が出土(笠岡工業高校遺跡)

横島の歴史考

「笠岡市史」資料編上巻より。
  笠岡がまだ村単位で語られていた時代、つまり明治以前の社会情勢を知る資料として次ぎの古書が紹介されている。
①「備中一ケ国重宝記」 正徳四年(1714)発刊、備中の領有関係や他領の事情を網羅した便覧地誌。写本も多く編者は備中南部の人物か。
    
②「備中村鑑」(びっちゅうむらかがみ) 万延二年(1861)春二月、後月郡木之子村・渡辺正利の編集、井原村荻田雲涯により清書され、その夏
                         に興業館館長阪谷朗廬の序文を得て、秋に上下巻本で発刊された。
 (編者の渡部正利は古代の渡部党の流れを汲む、という強烈な意識と自負があったらしい。木之子村の才崎城の記述でうかがうことができる。)
  倉敷御出張所 御陣屋笠岡 百五拾九石六斗九升六合 横島村 長安恒右衛門 妹尾利左衛門

③「皇国地誌」 明治七年十一月、政府は歴史編輯例則を定め、十一月中に各県に史誌編輯主任の任命報告を求め、次いで明治八年六月に
          皇国地誌編輯例則並び着手方法を各県に広布し、地誌提出を需(もと)める。
          現笠岡市域三十九ケ村(元小田郡36村、元浅口郡3村)は史誌編纂室にて蒐集され保管されている。
  村誌 備中小田郡横島村
          本村往時より本郡にあり。魚渚郷に属す。古来其の称を改めず。
          租税 田壱町八反四畝十九歩 畑四拾三町五反九畝十四歩 宅地五町八反五畝十二歩
          総計 五十壱町弐反九畝十五歩 外に塩田壱町九反七畝廿八歩 製塩場五畝五歩
          飛地 本村の東南入江新田村のうち墓地四反田
          戸数 本籍三百五十九戸平民 社三戸村祠壱座 小祠三座 寺壱戸真言宗 総計百六拾四戸
          人数 男三百九十人平民 女三百四十九人平民 惣計七百三十九人 牛馬 牝牛八頭 馬ナシ
          舟車 日本形船百石未満五十石以上 七艘 五拾石以下荷船 十艘 漁舟六十四艘 総計八拾壱艘 人力車ナシ 荷車六輛
          物産 米弐拾石三斗 麦四百十三石弐斗 雑穀二十四石八斗 芋千五百〆目 焼酎五石 清酒三十五石
          民業 男の農を業とするもの百七拾壱戸、商を業とするもの九戸 女の紡績耕織する者百四拾四人      


☆笠岡市横島 人口統計推移

  
平成17年10月1日現      戸数   227戸  人口総数  1,072人   男  511人   女  561人
   ( " 他に 新横島 )      戸数   303戸  人口総数    660人   男  313人   女  347人
   平成21年10月1日現      戸数   400戸  人口総数  1,061人   男  516人   女  545人
    ( " 他に 新横島 )      戸数   249戸  人口総数    668人   男  326人   女  342人   

町内名勝地

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 道通神社:『笠岡市史・地名編』を見ると道通山と道通濱の二箇所に地名が残っている。
     同書によると、
     『道通神社は猿田彦命を祭神とし、永禄年間(1558-1569)城山城(笠岡か?)主村上隆重の勧請創建したもので、四百年の社歴を有する。
      商売繁盛・出世開運の守り神で春秋二回の大祭があり、現在も大変な賑わいをみせている。村上隆重は城山稲荷神社を造営し、笠神社
      を改築し、これを永禄八年(1565)に宮地八幡宮と改称し、陶山氏の勢力を払う意図であったようである。同時に伏越の道通神社を奉祀し
      ている。かくて村上隆重は永禄の末頃、横島道通神社も奉祀したのである。横島は当時は陸続きではなく孤島であった。その孤島に神社
      を祀ったのは、海を中心とする村上水軍の将として当然であろう。』  ⇒ ClickHere
         

No. 表題 Title 神島大橋から見る 「横島漁港」(後方は応神山)  内容 Contents


 横島に残る唯一の海岸線「横島漁港」

 『笠岡市史・地名編』によると横島の命名は舟の航行と平行(南北方向)に長い島を横島といった。
笠岡湊を基点として、入出港する舟を視点として真横に見えることから「横島」という命名になった、という意味なのであろうか。
いずれにせよ東西方向500~300mx1,500mと南北方向に長い島である。この島を横島と命名した人の視点は舟上もしくは大島新田を隔てた
大島側か神島にあったのではあるまいか。

『定本笠岡地方干拓史』によると横島は水野勝成が福山城を築城した直後、元和九年頃(1623)の絵図には三つの
島として描かれている。その20年後の「正保国図」(1644-47)には一つの島になっているのでこの間に繋がった可能性があると指摘している。

 島内の字名をながめると北濱・中濱・南濱・道通濱など、濱がつく地名が多い。浜は塩業を伺わせる地名であり、浜平(はまひら)なる字も残っ
ている。笠岡にも浜田があるが、この地もかつては遠浅の浜であり塩田であった。
横島北方の東西の字地名はそれぞれ孫治端、亀ノ首と本土と繋ぐ汐留堤防が伸びてきて干拓された箇所である。
延宝2年(1674)に福山水野藩により約40町歩海面干拓が施工され、さらに享保15年(1730:)七月には鳥越新兵衛が横島の東側に入江新田を完
成させた。さらに 昭和35年、富岡湾干拓完工となって海面は南へ押し込まれて現在では写真のとおりの横島港~大戸洲にかけてのみとなった。
 
004
2011/01/08  「横島八幡神社」跡地を訪ねた
 横島にはもはや島という面影はない。横島の周りの海が埋立てられたのは四百四十年ほど前、延宝2年(1674)のことである。
  横島~番町へのショート・カット ⇒ 写真とは直接関係ありません
市道横島90号美の浜入江線開通
笠岡市美の浜~入江間0.4Kmが2010/03/10 10:00~通行可能
(「広報かさおか」2010/3月号)

 神島から神島大橋を渡り最初の信号を左折。横島港へ下るとこの写真の角になる。
この交差点と美の浜団地を結ぶ400mの市道が2010/03開通のサラピン新道である。
新道が美の浜団地へ続く道筋に横島の旧水際線あたりに祈りの空間があった。
この写真正面の山が道通山。神島方面から峠を下りて西から東を見ている景色だ。
彩色された板張家屋は旧横島集会所か?新築された集会所は画面の外の北側だ。
小祠の左側にある小い屋根には大師石像、その右の祠が蛭子神社。漁師町であっ
たこの辺りの集落の人々が豊漁を祈願しのであろう。
寄島八幡神社は現在では道通神社の摂社として境内に遷宮しているが、元々はこの
集会所の位置に鎮座していた。 
 横島八幡神社跡碑
「神島史誌」より引用
 「横島八幡宮は、永禄年間(1558-1570)つくられたといわれる。その頃能島の村上氏が笠岡・神島地方を支配下においた。永禄十三年(1570)村上景広が、笠岡の伏越荒神の禰宜権太夫へ書状を出している。荒神信仰とは竈の神であり、また祟りの神としても祀る。
水野領だった天和年間(1681-1684)横島八幡宮は狭い拝殿を改築し本殿を修復したという。これについて、巌津政右衛門氏が『岡山春秋』に書いた記事を以下紹介する。 『横島のバス停付近に真宗光円寺の布教所があり、その正門に足を止めた。形が変わ った四脚門で時代も古い。(中略)この門は横島八幡神社の本殿であったが、明治 年間に八幡神社を道通神社の境内に移し、拝殿は移建したが、旧本殿は光円寺布教 所の正門に寄付したというのである。』今、横島公民館の前、むかし海岸近くであった処に、八幡宮跡の石碑が建っている。昭和二十九年九月にできたもの。」
やや難解な文章だが、横島八幡宮が道通神社に遷宮する迄は、s29年9月にはここに八幡神社があったのだろう(笑)。
 光円寺横島布教所の寺門と教堂の数奇な遍歴
 八幡神社の本殿がこの布教所に建つ寺門であると「神島史誌」の著者は書いている。円光寺は浄土真宗の寺で福山市大門町にある。この寺院の出先として、横島布教所がここ横島に建っている訳だが、八幡神社碑から数メートルの距離にある。そもそも海雲山浄土真宗大谷派末寺とは、大門城主河野行部左衛門光量の子立円の開基。弘治2(1556)年河野家、平家万の国時と戦う。(国時とは陶山一族のこと)笠岡城主として代々忠を尽くしていたが両家は兄弟、親子のようであったがいささかのことで闘争になった。以下、詳しくは大門町光円寺⇒ClickHere
また「神島史誌」には神島片島がまだ水野領にあった頃には無人島であり、光円寺の管理下にあったと書いている。この地域と大門にある光円寺とのつながりは一体何であろう。また次ぎに述べるように敬業館とも関係があるようだ。
 笠岡敬業館は笠岡で最初に創建された学校で、寛政九年(1797)~嘉永三年(1850)の間ざっと54年存続した。その後は小寺家の私塾となり、明治十六年(1883) 閉館となる。この敬業館の教堂建物が天理教笠岡教団を経て横島布教所の講堂に買い取られて現存しているという。敬業館 ⇒ ClickHere
 松濤碑
 八幡宮跡碑のすぐ傍にある、自然石に「松濤」と刻まれている。
「神島史誌」によると、この石の語り部は次ぎの如き逸話があったようだ。
 『この碑は福山藩主水野公が地方巡視の際、ここの景勝地、横島八幡宮の境内で休息され、老松の波しぶきを受ける姿をて、命名された松である。
この松は昭和三十五年枯死した。推定樹齢は切断面の年輪から約五百年(1970-500=1470)室町時代、文明年間)であった。松濤碑は明治時代東渓老人の筆を刻み、地区民によって建立されたもの。今の松は二代目である。昭和五十九年八月再建、横島振興会』
  水野公とは誰のことであろうか?自領に巡視に出ているので初代勝成のことだ、とも言えまい。横島干拓事業を行ったのは水野時代であり、その工事中に進捗巡視立ち寄りをしたのかも知れない。だとすれば第四代水野勝種である。だが、いずれの人物であるにせよ当時にはこの場所に横島八幡宮が在った!という史実はうかがえる。(創建は水野時代を遡るということがわかる)
お向いの、美の浜公園の 「ありがとう」 
 
ありがとう 石匠豊田一正寄贈
 石像建立据付協力者
横島振興会・入江共助会
みの浜コミニュティ推進協議会
社団法人 笠岡青年会議所
医療法人社団 清和会笠岡第一病院
社会福祉法人 天神会
則本美容院
共同施工 倉敷ハウジング(株)
株式会社 加藤組
横島地区有志一同
平成十三年 五月吉日建之
<横島さいと内リンク> 2011/01/25
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001  道通神社(祭神猿田彦命・応神天皇) 永禄年間(1558-1569)笠岡城主創建  漁師が陽石を笠岡大磯道通谷に祀ったという伝承あり
002  鳴ケ淵の砦跡(塚大明神碑)石棺出土  笠岡市横島、笠岡工業高校の手前  喫茶点の前に立つ自然石の碑、道路によって完全掘削
 003 横島干拓前、海岸線ウォーキング   2011年12月大島郷土史例会イベント 富岡干拓と鳥越新兵衛入江新田に先行する横島干拓 
2012/01/06更新 2011/04/20