「清水谷遺跡」 (講座)


  by 矢掛町教育委員会学芸員主事 西野 望 氏

コンセプト:古代人のタイム・カプセル

「平成21年度 県西部の文化」 生涯学習大学連携講座 第4週目(最終日)
 
  2009/09/30 Wednesday 10:00 ~ 12:00 於:やかげ文化センター
                  13:00 ~ 16:00  吉備真備現地見学

      聴講者は地元の会員+笠岡・井原・福山など約40名

  ショーケース内の土甕は骨臓器の外用器 ⇒

前期弥生時代(BC2世紀ごろ)の環濠集落の遺跡

 この清水谷遺跡は前期弥生時代の遺跡で同時代の発見例は県下で2例、少ない情報を埋める点で貴重です。
また楕円形をした環濠集落の跡がほぼ100年にわたってほぼ完全な形で発掘されています。調査は平成11年に
着手、土器をはじめサヌカイト製の石鏃・石包丁・石斧など合計2千点あまりの出土品が発掘されてきました。
場所は小田川に沿った流域にあり、環濠の大きさは約60m、溝はV字に掘り下げられて幅は約5m、深さ1.5m。
環濠の内側には柱穴があり、4箇所に分散し合計15箇の遺構に分類されます。出土品の多くは住居跡ではなく、その多くが環濠から出土しているのが特徴。
(↓以下は勝手な書き込みデス)

西側からみた清水谷遺跡の全容  環濠集落の遺構

「弥生時代」の基本的な認識 ------ 弥生時代の区分

 弥生時代(やよいじだい)は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。
弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった(しかし、近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていることが判明し、また水稲である温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていたことも判明しつつあり弥生時代のはじまりははっきりと定義できない状態である)。
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京市本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)東京大学農学部の遺跡の貝塚で発見された壷型土器が発見地に因み明治27年に坪井正五郎が弥生式土器と呼ばれたことに由来する。(なお、その後の都市化の進展などもあって正確な発見地は特定できなくなっている。) 当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。なお余談だが、弥生時代の名称の起源となった、弥生町で出土した一群の土器は、現在の土器編年上では古墳時代前期に属するとの説が有力になりつつある。

 東より見た遺跡 住居跡の発掘

「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書」

  清水谷遺跡を含むこの辺り一帯(矢掛町里山田地区)からは多くの遺跡が集合的に発掘されている。
インターネットで公開されている情報では、
『小田川に沿って形成された自然堤防や丘陵裾の緩斜面に立地する。平成9・11・13年の3回にわたる調査の結果、縄文時代晩期~室町時代にかけての遺跡であることが判明した。弥生時代前期の環濠集落跡は県内2例目の発見であり、推定で南北70m・東西60mの楕円形を呈する。環濠内の約半分の調査が終了した段階で、竪穴住居6軒・掘立柱建物28軒等が検出されている。』

清水谷遺跡のほか隣接する遺跡群の個別名称は里山田下谷遺跡・里山田上谷遺跡・橋本散布地・土井1-2号墳・畑中古墳群・四頂山古墳・三頂山古墳群・橋本古墳群・池尻古墳群・白江遺跡・官衙推定地・芋岡山1-2号墳・中池ノ内遺跡など、岡山県GISマップによると合計29箇所の遺跡群が密集している。

 住居跡の柱穴(中央は炉跡) 環濠の年代地層(断面遺構図)

《参考》笠岡市域の弥生遺跡
  笠岡には縄文170人を超える人骨が出土した津雲貝塚を筆頭に合計17箇所の遺跡がリストアップされている。
これに対して、弥生時代を始点としたいわゆる「弥生遺跡」はわずか3箇所に限定されている。
1-走出・小池遺跡 長福寺裏山の古墳遺跡につづく北端の丘陵。土器片・石鏃・サヌカイト片・器台片など出土
2-尾坂・阿倍山遺跡 山頂付近から出土、標高366mの稜線上からサヌカイト片・石鏃・石器類を出土
3-今立・大黒山遺跡 甕棺と土偶を出土
 など、縄文遺跡には当然ながら弥生時代の道具などの出土があり連続的な遺構もある。
ただ弥生時代に限定するとその遺跡はわずか3例にすぎない。 規模や出土品などをみても小規模だ。
笠岡島ショウ部から沿岸地域に定住していた縄文人たちは稲作伝来につれて、水田を求め内陸部へと北上してい
ったのだろうか。



コンセプト:古代人のタイム・カプセル
「古代の偉人 吉備真備」 by 県文化財保護管理指導員 渡邊捷平氏
 
  この日は生憎の雨、矢掛町文化センターで真備公祖母の骨臓器(模造品)とその外用器として銅壺を保護して
きた土甕(こちらはホンモノ)の展示品を見せてもらった。ホンモノは享保12年(1727)この地域の領主板倉氏により
圀勝寺に納めされたと伝わるが、現在の保管場所は非公表。レプリカは3箇あるという。写真はその中の一つ。
展示物見学の後、戸外研修。
①「吉備真備公園」(真備公の遺徳を顕彰モニュメント)吉備公館址・吉備大臣宮・筆塚・産湯井戸・吉備公銅像・
日時計・石碁盤・入唐絵屏風碑・古代の丘など、昼食をはさんで公園を散策した。

やかけ文化センター展示品 吉備真備公園(銅像)

 ②「下道氏の墓域」 江戸時代の元禄12年(1699)に真備公の祖母の「骨蔵器」が発見され、公園として整備。
場所は小田川に面した東三成の小高い丘で、「骨蔵器」には保護用の土甕が被せられて和銅元年(708)来、1,300年の時間をくぐり抜けて現存している。驚きである。蓋には和銅の文字が鮮明で、真備公の父「圀勝」の圀の字は唐時代限定の則天文字だという。
 この墓所に石臼状の石棺がある。この石棺は兵庫宝殿の竜山石(りゅうざんせき)で作られたもので、同種類の石が古墳時代の高貴な人を葬った時に使われ、近畿・中国各地で広く発掘されている。この石は東三成市場の荒神社の境内にあった梅の木の近くに在ったモノを明治時代に遺跡発掘に携わった重野博士の進言によりこの地に搬入されたもので、銅壺との結びつきはない、とのこと。
またこの墓所内の銅壺とは別に、15mほど離れた場所からは土器製の骨臓器も出土している。

 下道氏墓(しもつみちうじのはか)  小田川沿いの山陽道(墓所の標識あり)
 
 ③「神遊山圀勝寺」 真備公による創建で、天平勝宝八年(726)。
江戸になって元禄12年(1699)に骨臓器が発見されると、享保12年(1727)に領主板倉氏よって当寺に祀られた。
当初の寺名は地蔵院寺、後に圀勝寺となる。境内には椿の巨木があり有名。


*** 圀勝寺の周辺  ***  椿についての「案内板」

真言宗神遊山圀勝寺 真備公祖母霊廟所(光助霊神宮)
 
椿(つばき)
矢掛町重要文化財(天然記念物) 昭和56年3月24日指定 所在地・矢掛町東三成1344 管理者・圀勝寺
樹齢推定300年
樹高6m、直径目通り1.7m、枝張り四方9m、この椿は吉備真備の祖母をお祀りしてある。
光助霊神宮の前にあって老木巨樹で4月中旬から下旬にかけて八重の美しい鮮紅色の花をつけ、落下した
花は赤いじゅうたんを敷いたように美しい。
                                                     矢掛町教育委員会 


             
真備公園の古代の丘に配置されたモニュメントを辿る
更新 2009/09/28