| 摂津麻田藩代官陣屋趾の石垣と代官堀 麻田藩一万石、青木家支配の矢掛町川面には川面村代官所が置かれた |
訪問DATE: 2011 07 13 ![]() 「写真は代官所の遺構と伝えられる石垣、現在の住居は池田さんのお宅。古い屋敷があったという。 |
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| 「代官堀」あるいは「代官用水」 (当日訪ねた池田のおばあちゃんから聞いた池の名) 岡山県史には麻田藩川面村代官陣屋については 資料乏しきゆえに、詳細は解らないと記されている。 この場所に代官所があり石垣が残存している、という 情報は同行のM氏が矢掛町教育委員会から入手した もので、もらった略図もかなり精度が低かった。 井原から国道486を東行し、星田川に架かる北田橋を 渡ると東川面に入る。もらった地図の場所の付近でそ の所在を聞いても、すぐには解らなかった。 鳥越さんという家の方が場所まで案内してくださって、 やっと石垣の位置を確認。(写真左) 石垣の向こう側に建つ家の池田さんから話が聞けた。 附近一帯は池田一族の所有地。駐車場にも代官屋敷 があったそうだ。おばあちゃんの記憶では古い屋敷を 毀したことは記憶にあるとのこと。また家の前の灌漑 用池は「代官用水」「代官堀」と教えられたとか。 ご近所の子が池に落ちて亡くなったこともあり、当主が 池の周りに柵で囲ったとのこと。 |
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2011/07/15 Created 麻田藩の成立と領地について(資料出処:Wekipedia他) 麻田藩は江戸時代、藩庁として摂津国豊嶋郡麻田(大阪府豊中市蛍池)に陣屋を置いた藩。藩主は外様大名の青木氏。表高は1万2千石、慶長20年(1615)~明治4年 (1871)、麻田藩が麻田県となり、備中領は深津県に編入されて終わる。初代一重は2,000石を弟可直(よしなお)に分地、以後は1万石となる。 領地は摂津国は豊嶋郡に15ケ村と川辺郡に3ケ村、備中領分は、「奥組」と称する後月六村に加え小田郡川面(かわも)村の七ケ村と「口組」と称する浅口郡上新庄村・ 浜中村・小田郡関戸村の三ケ村であり、代官所を川面村と浜中村に置いた。 【麻田藩石高】 摂津国18村で6,852石、小田郡関戸村[244]、川面村[671]、後月郡 稗原村[221]、北種村[205]、南種村[202]、井出村[224]、中種村[207]、佐屋村[157]、浅口郡では 上新庄村[337]、下新庄村[374]、浜中村[305] 青木氏は戦国末期美濃国にあり、初代藩主の父、重直は初め土岐頼藝に仕え、のち斎藤道三に属した。その後、織田信長~豊臣秀吉に仕えた。重直の子が一重で 麻田藩の初代である。一重は秀吉の没後は秀頼に仕え、大坂七手組の頭となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣には大坂方に与し、翌元和元年(1615)1月、 大坂方の和議礼謝の使として駿府に下向したが、帰路拘禁された。この後、大坂の落城を聞いて剃髪、幽居されることを望んだが、家康に再仕することになり、同7月、 父重直の采地12000石余を領し、豊嶋郡麻田に住んだ。のち、弟の可直に2000石余を分与した。その後、重兼・重成・重矩・一典・一都・見典・一新・一貫・一貞・ 重龍・一興・一咸・重義と続いた。明治2年(1869)6月に上知して麻田藩知事となり、のちに子爵を授与された。 【麻田藩主在任期間一覧】by[岡山諸藩事典] 1 一重(かづしげ)忠助 元和元年~元和5年(1615-1619) [民部大輔] 2 重兼(しげかね)源五 ~寛文12年(1619-1635) [甲斐守] 3 重兼(しげかね) ~元禄6年(1635-1693) [甲斐守] 4 重矩(しげのり)源五郎 ~正徳3年(1693-1713) [甲斐守] 5 一典(かづつね)寅之助 ~元文元年(1713-1736) [甲斐守] 6 一都(かづくに)源五郎 ~寛延2年(1736-1749) [出羽守] 7 見典(ちかつね)内膳 ~宝暦4年(1749-1754) [内膳正] 8 一新(かづよし)主税 ~明和7年(1754-1770) [美濃守] 9 一貫(かづつら)伊織 ~天明6年(1770-1786) [甲斐守] 10 一貞(かづさだ)源五郎 ~文政4年(1786-1821) [甲斐守] 11重龍(しげたつ) ~弘化4年(1821-1847) [美作守・駿河守] 12 一興(かづおき) ~嘉永2年(1847-1849) [美濃守] 13一咸(かづひろ) ~安政3年(1849-1856) [甲斐守] 14 重義(しげよし) ~明治4年(1856-1871) [民部少輔] のち信光[子爵] 位置図: 小田郡矢掛町東川面町 |
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| 麻田藩と鳥越家 (資料出処: 『小田郡誌』) 郡内青木氏封地は代官所を小田郡北田村(今川面村)に置き、代官を置きて之を治す。代官所は元淺口濱中村に在りしか斯地備中麻田領の南端に 在りて不便なり。北田村は國道に沿ひ交通便にして且領内中央に位するを以て後年此に移轉せしものなりと云ふ。 移轉年月詳なrざるも古記録に「天保十二年十月川面陣屋大破に及ひ修繕を加へ其工費負擔方につき、淺口郡上新庄村・濱中村、小田郡關戸村(以上 三村を口組と稱ふ)と小田郡川面村後月郡六ケ村(以上七ケ村を奧組といふ)と意見を異にし紛紜(ふんうん)の處嘉永五年二月に至り領主青木家の出 資を以て建て替えすることに決し工費五貫四百目にて其費額内へ奧組は壹貫七百匁大割入んいて上納、口組は高割(石高に応じて割り当てること)に せず大庄屋村役人中割合加勢仕候事」云々とあるによりて、天保以前既に川面村に代官所を移されしものなり。 川面村代官所の代官は初代を鳥越瀬平といふ、初め大庄屋にして後代官となる其子佐兵衛襲職し明治維新に至る。濱中代官を仁科匡平といふ。 始め村年寄を勤め後代官に進み淺口郡領内を支配す。匡平一代にて明治維新に至る。川面代官所以前の濱中代官所については詳ならず。川面代官所 の修繕、敷地料共民費負擔なり。構えは表通八畳三間を民事に、裏通六畳貳間を刑事裁断所にあつ。吟味事は後年は両代官立会にて行へり。代官所に は代官の外に筆刀の吏なし。代官所付き足軽ありて帯刀御免なり。また郷足軽あり、郷足軽は年給米貳斗、従前より地方役人は庄屋年寄組惣代を置く。 麻田領には米納なし總て金納なり。摂津御陣屋元より毎年米値段を取り極め代官に通達す。 代官より村庄屋に達し、小前より徴収して送金せり。また大豆納の事あり。元来畑は一ツ免(税率1割)なり。高壹石に付き豆壹斗此値段亦摂州御陣屋元 より取極め米の通りに取扱ふ。五ケ年目位に大豆現物納の達しあり。此時は大豆を取立て小田郡入江新田まで持出で、出張の役人船頭へ引き渡す。 運搬費用は民費とす。金納は村費用まで總て庄屋へ集金し五日目毎に川面代官所へ飛脚二人を以て送る。然して代官より貢納金皆済に至れば送金に及 ばざる旨を庄屋へ内達あり。即村費用まで一應代官へ収入して下附するの取り扱いなり。領内井山村には御用捨高四拾石あり。惣高の内四拾石に對し、 免二ツ八分の取米を年々検見して田持ち主へ分輿するの法あり。上毛一割半、中毛三割、下毛四割半、下々毛六割にて、是は高にて割を引くことに計算す。 年により四拾石に対する米に過不足すれば按分比例にて分かつ。過あるも四捨五入にて止む。検見は土用(立秋前18日)後直ちに庄屋年寄組惣代に於い て行ふという。領内五人組帳宗門帳ともに毎年二月調べ出す規定なりきと。 '******************************************************************* 享保年間(1716-35)に小田と淺口にまたがる約120町歩に亘って西大島・入江・濱中新田干拓工事を成就した鳥越新兵衛は川面村と隣の本堀村の庄屋 に生まれている。 この干拓工事完了後には入江新田に永住し、代々大庄屋となったが、川面村代官の鳥越家との関係はどうなっているのだろうか。麻田藩領地という共通項 があって、鳥越家とのつながりがあったのではないだろうか。 (2011/07/17追記) |
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