矢掛町の文化と伝統
旧山陽道の宿場町、さらにむかし、吉備真備を生んだ町
矢掛町公開HPより抜粋:歴史かおる文化の町、岡山縣矢掛町へようこそ。
山陽道の宿場町として栄えた矢掛街道。時を経てさらに美しい町並みには、過去と現在が織り成す神秘的な力が漂っています。 本陣や脇本陣など、全国でも引けを取らない歴史ゾーンを形成している矢掛には、さまざまな歴史・文化的な見どころがたくさんあります。
各種観光パンフレットを配付しています。ご希望の人は、矢掛町総務企画課企画商工係へ。
歴史 1954年(昭和29年)5月1日、矢掛町と美川村・三谷村・山田村・川面村・中川村の1町5村合併により新たに矢掛町が発足。
1961年(昭和36年)1月15日、小田町が合併し現在の町域となる。 地理
山: 高滝山(506m)、遙照養子山(406m)、鷲峰山(399m)
河川: 小田川、星田川、美山川
ダム: 鬼ヶ嶽ダム、第二星田ダム
☆矢掛宿の成立 by『岡山県史』
矢掛宿は元和5年(1619)~寛永18年(1641)の松山藩池田領時代に創設され、寛永19年(1642)~元禄6年(1693)の幕府領時代に矢掛村高を
町分と陸分(村分)に髙分けし、それぞれに庄屋を配置して支配機構を分離するなど整備が行われた。
(五街道にはそれぞれ伝馬役と言われる公用貨客の輸送用の人・馬を置いた。東海道は100人・100疋、中山道が50人・50疋、その他は25人
25疋で矢掛宿も貞享・元禄までにはその整備も行われていたと考えられる。)

小田氏七代の領有220年:[矢掛町史]による
小田家の祖は北朝応安2年(1369)小田郡の地頭職に補せられて京都から赴任し小田の神戸山(こうどやま)に城を築いて入った幕臣床上秀清である。「小田物語」で見ると、床上家は亀山天皇の後裔で代々京都に住み、秀清は紀の朝臣床ノ上小松と称した。有名な歌人徹書記の兄といわれる。秀清の子が上総守(かずさのかみ)、上総守の子が治部太夫で、のち仏門に入り徹碩(てつせき)と名乗った。治部太夫の領有地は小田の他に甲弩・山口・新賀の三か村が増え、居城を神戸山城から小田川に臨んだ岩屋山城へ移した。
「床の上におく露消えて ほどもなく よそになる子の 小田の秋かぜ」と詠んで床上から小田に改姓したという。
続いて勝清---政清---隆清---元家と嗣いで、これを小田七代という。
「小田物語」によると政清が永禄8年(1565)に山口の馬鞍山に築城して住んだとしている。
文禄4年(1595)毛利氏の都合で安芸の国へ転封を命ぜられた七代目元家は、初代秀清からの200年の土地を召し上げられた無念の思いを、
「長雨にてる日の本のてらざれば小田にみのらぬいねをいうなり」と歌に託して父祖の地を去ったという。(この項『笠岡市史』より抜粋)

歴史観光スポット
① 旧矢掛本陣石井家: 国指定重要文化財の矢掛本陣は、当時大庄屋で酒造業を営む石井家が本陣職にあたりました。参勤交代で大名や公家、
幕府役人の宿所に使われた屋敷は建築の粋をこらしており、当時の繁栄を現在に伝えます。
開館時間/09:00~17:00 休館日/金曜日、休日のときは翌日 問い合せ先/ 事務局 矢掛本陣を守る会(0866)82-2110 入館料/\300.-
② 旧矢掛脇本陣高草家:第三期: 本陣の予備にあてられ、当時、宿場の両替商で庄屋役でもあった髙草家が選ばれました。特に白壁、張瓦の
堅固な建築様式が美しい です。本陣から400mの所にあり、本陣と共に国の重要文化財に指定されています。
開館時間/09:00~16:00 休館日/金曜日、休日のときは翌日 問い合せ先/ (0866)82-2110 入館料/\300.-
③ やかげ郷土美術館: 町木の赤松を使った伝統工法による建物で、高さ16mもある水見やぐらに登れば、歴史のある町並みが眼下に広がります。
館内には町出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品を中心に郷土資料等を展示しています。
また、ギャラリーでは創作・文化活動の拠点としてロビーではポケット水族館の空間も生まれ、地域の人々の憩いの場を提供しています。
開館時間/09:00~17:00 休館日/月曜日、休日のときは翌日 問い合せ先/ (0866)82-2110 入館料/\200.-
④ 吉備真備公園: 郷土が生んだ古代史の英傑、吉備真備公の道徳を偲んで設けられました。 -------------------→ ClickHere
広場の正面には巨大な吉備公の像が建立され、矢掛の町を見守っています。
開館時間/9:00~16:00 休館日/年中無休 問い合せ先/ (0866)83-1265 入館料/全施設無料
⑤ 古意庵: こちらのご主人自らが集めた古美術の数々を古い土蔵を改築し展示してあります。矢掛の歴史と文化の奥行きを感じながら、
矢掛の中西源兵衛が江戸時代後期に築いた池泉観賞式庭園。石組みがすばらしく、石寿園とも呼ばれています。
開館時間/10:00~17:00 休館日/月曜日、休日のときは翌日 問い合せ先/ (0866)82-0951 入館料/\300.-

☆矢掛町関係参考サイト一覧
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Site name |
Auther'sName |
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矢掛町町ホームページ |
by 町役場の公式ホームページ |
市の人口15,713人(h17国勢調査)、土地面積は90.62Km2 |
| 002 |
矢掛町南部の遺跡たち |
M/Page 「趣味の古代吉備」by 杉原さん |
鉄道井原線「三谷」~「矢掛」駅間徒歩にて踏破Log. |
| 003 |
旧西国街道をゆく(三谷・矢掛) |
写真紀行、書き人知れず(w)Good! |
京都から下関の旧街道紹介です。 |
| 004 |
矢掛宿の郷愁風景 |
by 町並Web集団の一員孫右衛門どの |
本陣・脇本陣双方がそのまま残る町は貴重 |
| 005 |
旧矢掛本陣石井家 |
by Copyright(c)2003 矢掛町役場 |
大名行列を、毎年11月第2日曜日に開催 |
| 006 |
吉備真備 |
by ウィキペディア(Wikipedia) |
持統天皇9年(695年) 宝亀6年10月2日(775年享年80才) |
| ☆2008/09/10 矢掛町見学(笠岡市生涯教育ツアー) |
岡山県西部地区、生涯教育の一環で笠岡市のマイクロバズで案内してもらった。
訪問紀行: まず最初は、「やかげ郷土美術館」を見学
美術館の後、本陣跡屋敷を見学して昼食。矢掛町営の観光協会運営のみやげ物センターで食後の珈琲を飲んだ。 そこで聞いた話。
矢掛の名産物は、素麺。遣唐使で渡航した吉備真備公がニッポンに持ち帰り、製法を教えこの町で発祥した食べものだとのこと。 奈良の三輪素麺も、その亜流。鴨方の素麺は、ここ矢掛の農家が生産したものを鴨方の名前で売り出したもの素麺の元祖は、断じて
矢掛なり!
そのとき囲碁も中国から輸入したとのこと。 右大臣吉備真備公がはるか唐より持ち帰り伝えたという「素麺」 試食してみよう~とて、一個買ってみた。 茹でる時間は2分間、水のつぎ注しは禁止、調理法までおそわった。

関連サイト

訪問紀行: 午後からは曹洞宗の舟木山洞松寺を見学 → ClichHere
縁起は古くは奈良仏教までさかのぼり、14世紀になって禅宗としていまの寺となり再出発した。 ご住職の説教で、面白いとおもったハナシ。
禅宗の海外布教のキャリアがあり、国際感覚を持たれた僧侶でこの洞松寺にも海外からの禅修業者を受け入れているとのこと。
海外からの禅修業者たちは、ニッポンではみんなが禅をやっている、華道、茶道に長じている、実に文化の香り高き生活を送っていると 思い込んでいるとのこと。
(われわれに対する遠回しなイヤミだなぁ(w))と聞こえたが、みなさんはどうだったんだろ~
そのご住職、最近ものわすれがひどくなり、アタマにずらした老眼眼鏡を探しまわること多々あるという。 檀家には自分よりもっとひどい方がおられます。 お参りにいったところ、読経の前に、お布施をだされた。 ものわすれがひどいから、わすれぬうちにお渡ししますとのこと。 在り難く頂戴し、読経がおわる。
そしたら、そのおばあさん、お布施をだしてアタマをさげる。
いえいえ、さきほどもう頂ましたと断ったところ、せっかく出したものだからお納めくださいと、いわれるので、在り難くうけとった
しばらくハナシに花が咲き、帰り際に、またお布施をもってこられた。。。
みなさんも、こんなものわすれになってください(w)みんなも、笑った。 と、そのとき質問。 「お布施を出すのをわすれる檀家はいませんか?」 と、また、また、みなさん笑ったね。
訪問紀行: 最後に訪ねたのは、大庄屋「福武家屋敷」を見学 → ClichHere
『江戸初期の元禄12年(1699)、上総(現在の千葉県)高滝から板倉重高が庭瀬に入部し、以後明治維新まで、板倉氏がこの地矢掛を治めた。
福武家は、その板倉家の大庄屋として藩政を支え、横谷には敷地約4700㎡という 当時の民家が現存する。』
頼山陽、犬飼木堂、阪谷朗蘆などの書画がいたるところ、座敷に無造作に置いてある。
壁には槍が数本あるし、土塀には銃眼(内側から矢を放つための穴)がある、古文書も十万点ほど、未整理のまま保有だとか、、、つまり~~お宝の山だ。
時空を超えていま生きているわれわれに語りかけてくる場所を、遺跡・史跡という。
遺跡も史跡も保存し次世代に残していこうという意思が働かないかぎり存続しない。
意思だけではなくて、当然ながら時間とお金がかかるハナシになるわけでその代価に見合う価値評価が住民に問われる。
幸い、矢掛町は平成の大合併後も単独で町を守り黒字の財政だとか文化財維持・保存への予算もきっちりとられているやに伺った。
いいお話だとおもう。

☆2008/10/26 舟木山洞松寺 by 『岡山博物史』 → ClickHere
舟木山洞松寺は備中随一の曹洞宗の名刹で、末寺も全国1287ケ寺に及ぶ。
応永19年(1412)、猿掛城主 荘元資の帰依によって喜山性讃(きさんしょうさん)禅師が開いたといわれ、備中大兵乱によって三村氏に従っていた
荘氏が滅亡した後は、代わって猿掛城主となった毛利元清の保護を受け、裏山には毛利元清の供養塔もあり。
現在も宿坊があり、修行僧を受け入れており若い僧侶たちの修行のための霊場であり、檀家数は少なく経済的には恵まれていないご様子。
仏教伝来からおよそ1500年、葬式仏教だと云われないためには若い人材の育成が不可欠であろう。
長い時間をかけて、朝鮮半島から渡来し、奈良・平安・鎌倉と宗派・宗門が分派しながら発展してきた仏教国ニッポンに似つかわしい平成仏教の出
現に期待したいものだ。
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内容 Contents |
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矢掛町観図:サイト『矢掛町HP』「」からの(転載)コピーです。 |
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☆11/09
当日
見学に行
きました
↓
Click
Here
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この古地図からわかること。
1-大津野村字大門と用之江は海つづきではなかった。
2-この地区でも三期に分けて干拓工事がおこなわれている。
第一期:寛永元年(1624) 大谷新開 第二期: 寛永十九年(1642) 野々浜新開 第三期:寛文七年(1667年)
3-汐崎神社は埋め立て工事以前にすでにあった。
大津野と茂平にはそれぞれ「塩崎神社」がある。
両社が共に勝成説話と同時期の勧請だとすれば1640年代、正保年間以降となる。
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銅 壺 やかげ郷土美術館所蔵 下道圀勝母骨蔵器(模造) |
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銅 壺 下道圀勝母骨蔵器(模造)
奈良時代の高官吉備真備(695-775)の祖母の骨蔵器である。
蓋にそのことを示す刻銘がある。
下道圀勝は奈良時代の当地方の豪族で、吉備真備の父である。この銅壺はその母の骨蔵器で、和銅元年(708)に作られている。
現物は元禄十二年(1699)に、矢掛町東三成字谷川内の丘陵で村人によって発掘され、昭和31年に国の重要文化財に指定された。
☆2009/09/28 10:00~15:00 「2009年度 県西部の文化」学習最終日、やかげ文化ホールにて
今年も参加しました ⇒ ClickHere
<則天文字>「圀」の使用
武則天(唐の高宗の皇后。周初代皇帝、在位期間 690 - 705年 )
中国史上唯一の女帝となり、武周朝を建てた。日本では則天武后(そくてん ぶこう)と呼ばれることが多いが中国では彼女が皇帝として即位した事実を重視して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている。
漢代の呂后、清代の西太后とともに「中国三大悪女」の一人に数えられる。
則天文字(そくてんもじ)は、中国・武周の女帝武則天が制定した漢字。則天新字、武后新字とも言われる会意文字である。
以下、その一部。
曌(照 日+月+空 武則天の名を表す。則天文字で最も有名なものの1つ。)
瞾(照 目+目+空 」「曌」の異体字と考えられている。)
埊(地 山+水+土 、山の水が土に到達する所、すなわち大地を意味)
一+生=人「一の下に生」、人の生は一つだけということを表している |
09/09/28
この骨蔵器が発見された遺跡へ行きましたよ。(写真はレプリカ:本物の保管場所は厳秘とのこと) |
003
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矢掛町 旧本陣石井家(造り酒屋商家屋敷) |
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旧山陽道に面して軒を連ねる宿場町:
立派な門構えである。この本陣に泊まる大名たちの行列は最大800名を超える取りまきが領主の籠を囲んで参勤交代の旅をしたという。
地方大名たちの蓄財の目減りを目的とした隔年旅行が地方の町々を潤した。同時に街道、宿場、駅家などが整備され何よりも情報の伝達
が人の移動によっておこなわれた意義が大きい。
☆2008/10/26 石井家の経歴 by 『岡山県史』
石井家は小田郡矢掛町矢掛の胡町に居住し、近世矢掛町の庄屋(延宝8年1680以降)や庭瀬藩の大庄屋(宝永5年1708以降)を勤め
るとともに、山陽道矢掛宿の本陣職を勤めた。
祖先は備中猿掛城主毛利元清に仕えた後、土着帰農して矢掛の古市に居住し、元和申年(六年=1629)に現在の場所に新築移転したという。
石井家は十七世紀末の元禄初期に、町役人の地位を背景に、地主・酒造業を営んで、矢掛町で筆頭の地位を確立した。
18世紀末の天明~寛政期には持高250~ 270石、酒造業約600石に発展し、山陽道に面して間口十間の母屋と同じく七間の本陣を備えた
豪壮な屋敷を構え、備中有数の豪商・大地主としての地位を明治維新に至まで維持した。
また、安永以降の歴代当主(本陣亭主)は、学問・和歌を好み造詣も深く、山陽道往来の文人・墨客と親交を重ねていた。
☆『近世道中閑話』 by東山欣之助著
昭和44年国重要文化財に指定、昭和46年から補修工事に着手し、平成3年に工事完了、同年4月より一般公開が開始された。
石井家が本陣を勤めた最初は、元文3年(1738)福山藩主安部伊勢守の宿泊記録が残っている。
石井家の保存書類は総点数が5,000以上、宿駅関係資料が2,700点におよぶ。
脇本陣高草家は、大庄屋大地主として金融業の豪商、屋敷は矢掛の宿場の東寄り、約千六百平方米、建物は母屋、門倉、表門、茶室等
十棟。高草家の脇本陣となった時期は、天保11年(1840)頃だと云われている。
国重要文化財となったのは本陣の石井家と同時で、補修・一般公開の時期もまったくオナジである。
おなじ宿場で本陣と脇本陣がそろって現存するのは類例がないとのこと。
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矢掛町 猿掛城跡(戦国の兵どもの夢の跡) |
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
猿掛城(さるかけじょう)は、備中国小田郡(岡山県倉敷市真備町から小田郡矢掛町にかけて)の猿掛山(▲243m)に存在した連郭式山城。
その歴史は平安時代末期に遡るといわれ、武蔵七党の一角を占める児玉党の旗頭であった庄家長(源平合戦で元暦元年1184、一ノ谷合戦において平重衡を生け捕りにした功と伝えられる)が備中国に領地を与えられ、ここに城と居館を築いたことに始まると伝えられている。
以後、戦国時代に至るまで庄氏の居城となった。 南北朝時代初期には南朝の北畠親房に属し、足利尊氏配下の高師直と戦火を交えた。
戦国時代中期の天文2年(1533年)当時の城主であった庄為資は松山城の上野頼氏を攻め滅ぼし備中半国を配下に収め、為資は松山城に移った。
猿掛城には一族の穂田(穂井田)実近が入った。天文22年(1553年)尼子氏と結んでいた庄氏に対し、鶴首城主で備中に覇を争っていた三村家親は毛利氏と結び猿掛城を攻略した。為資と家親は家親の長男の元祐を穂田実近の養子とし猿掛城主に据えることで和睦した。永禄11年(1568年)為資の子・庄高資は備中に侵攻した宇喜多直家に呼応したため、宇喜多氏が一時、猿掛城を落とした。これに危惧を感じた毛利元就は六男の元清を遣わし猿掛城を奪取した。のちに元就の命で元清は元祐の養子となった。この年、毛利氏の援軍により家親の子の三村元親は庄高資を追い落として松山城主となり備中に覇を唱えた。
天正2年(1574年)三村元親は織田信長と結んだため、毛利氏と三村氏が争う備中兵乱が起こり猿掛城は三村氏攻略の前線基地となった。天正3年(1575年)5月に松山城が陥落し備中兵乱は終結、三村元親は自刃した。天正10年(1582年)には羽柴秀吉による高松城水攻めの際、毛利輝元本陣となった。天正11年(1583年)元清は猿掛城の西部にある茶臼山に中山城を築いて移った。猿掛城には重臣の宍戸隆家を城代として置いた。天正17年(1589年)広島城の建設が始まると元清は普請奉行として広島に常住するようになった。慶長5年(1600年)毛利輝元が関ヶ原の戦いにおいて西軍総大将として敗将となったため、防長2国に大幅に減封された。このため、城の周辺は天領となり猿掛城は廃城となった。
☆備中国小坂庄地頭・庄藤四郎入道行信
庄氏は武蔵国の児玉党の流れを汲み、鎌倉幕府の御家人であった。「庄氏系譜」などによれば、庄家長が一ノ谷合戦において平重衡を
生け捕りにした功により備中国草壁荘(現小田郡矢掛町横谷周辺)の地頭となり武蔵国より移住したことに始まった。(書きかけ)
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2012/03/12 改 |
08/09/13 |

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