| 634 |
舒明2年 |
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日、唐使高表仁来日、僧旻帰国。、『旧唐書』や『新唐書』にも記されているとおり、倭国からの派遣 |
北路をとるコース |
| 654 |
白雉5年 |
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)2船団 |
第2船が往途で遭難 |
| 655 |
白雉6年 |
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使)2船団 |
北路をとるコース |
| 659 |
斉明4年 |
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)2船団、第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される |
北路をとるコース |
| 665 |
天智4年 |
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 |
北路をとるコース |
| 669 |
天智8年 |
第7次遣唐使 河内鯨(大使)、5~7は百済駐留中の唐軍との交渉? |
南島路のコース |
| 702 |
大宝2年 |
第8次遣唐使 粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)4船団 |
南島路のコース |
| 717 |
養老元年 |
第9次遣唐使 多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)4船団、 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成同行 |
南島路のコース |
| 733 |
天平5年 |
第10次遣唐使 多治比広成(大使)・中臣名代(副使)4船団、 第3船は崑崙国に漂流、第4船は難破して不帰。 |
南島路のコース |
| 752 |
天平勝宝 |
第12次遣唐使 藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 4船団、 鑑真来日す。 |
南島路のコース |
| 777 |
宝亀8年 |
第16次遣唐使 小野石根(持節副使)・大神末足(副使) 4船団、第1船、帰途で遭難。 |
南路のコース |
| 779 |
宝亀10年 |
第17次遣唐使 (送唐客使)布施清直 2船団、唐使孫興進を送る。 |
南路のコース |
| 804 |
延暦23年 |
第18次遣唐使 藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)4船団、最澄・空海・橘逸勢・霊仙 同行す。 |
南路のコース |
| 838 |
承和5年 |
第19次遣唐使 藤原常嗣(大使)/小野篁(副使) 4船団、円仁 同行す。第2船、南海の地に漂着。 |
南路のコース |
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【遣新羅使】 日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
統一新羅時代の派遣回数は最も一般的な説が28回、初回は天智7年(668)。このときは新羅使金東厳の帰国に同行、使者の帰国に際しては、朝廷から新羅王に対して船1隻、絹50匹、綿500屯、韋100枚が賜与された。『日本書紀』にのこる記述。 |
| 笠岡資料館所蔵の「奈良三彩小壺」 |
奈良三彩とは? |
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三彩とは三種の色うわぐすり(秞ゆう)がかけられた陶器を意味する。なかでも「唐三彩」は有名で、唐時代(618-906)に焼かれた軟質陶器で、褐(黄)・緑・藍(コバルト)で彩ったものと、白地(白秞地)に褐(黄)・緑の上薬で彩ったものがあるという。大正年間、旧都・長安・洛陽付近の唐代墳墓から多数発掘された。すべての貴人たちの墓に副葬された明器とみられている。
これに対して東大寺・正倉院の三彩軟陶は和三彩・正倉院三彩・奈良三彩という。唐の技法を真似たものである。競べると材質が粗く灰色がかっている。上薬の溶解度が粗悪であるのは否めない。左が飛島の三彩だが、直径が5cmほどで素地は粘土質の少し灰赤色がかっており唐三彩のようなクリーム色ではない。色は緑(銅)・褐色(鉄)と素地の白で三彩となっている。大きな甕の中から発掘された。貴重品であったと思われる。 |
| リンクto 笠岡市立郷土資料館 |
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