「大飛島の遺跡」 (講演)


  by 倉敷考古館学術顧問 間壁忠彦氏

地名考

笠岡市民大学教養講座
 
  2009/03/07 Saturday 10:00 ~ 11:30 於:笠岡中央公民館

遺跡の発見と出土品

   昭和37年、当時笠岡図書館長をされていた田中舜治氏より出土品を見て欲しいと連絡を受けた。
笠岡へ出向いて、田中さんの机の上に2個の小壺が置かれていましてね、これが飛島jからの出土品との最初の出会いでした。飛島の小学校の校庭に鉄棒を建てるために掘っていた土中から土器が出土したのが「唐三彩」という非常に珍しいものでした。
三彩という土器は唐の時代にはじめて開発された土器を焼くとき上薬を塗布して白・緑・褐色の三色を出す技術なんですよね。当時日本でもこの三彩を焼く技術は伝わってきていたようで、中国の唐三彩に対して奈良三彩という呼び方をしています。この奈良三彩のほうがどちらかというと数が少なく考古学的には貴重なんですよね。
この奈良三彩が飛島から出た。それも1~2個の数ではなく複数個出ています。奈良時代に三彩が出回っていたのは中央のみで、一般の下々が所持できる品ではないんです。ということは、飛島の遺跡で祭事をおこなっていたのは国家レベルでの儀式であろうと想定できるわけです。
この三彩小壺以外の出土として多くの須恵器、ガラス部品、装飾金具、穴あき銭などなかりの量です。
遺物は整然と置かれているのではなく、規則性もなくバラバラです。時代も奈良~平安にかけてと思われます。
ではこの飛島の遺跡とは誰がどの時代に何のために祭具をここに残したのでしょう。

祭祀の目的と時代背景
 

   飛島には干潮時に現れる砂州があって、大潮の干潮時には大飛島から小飛島に向かって砂州が現れます。先端まで歩いていくと小飛島の方までの距離が近くなるほど長い砂州でした。近年は海砂の取りすぎなどの理由で以前ほどの砂州は見られませんが、瀬戸内海の中央にあたる飛島の位置は東西からの海潮がこの海域付近でぶつかり合って、干潮になると東西に分かれて引いていきます。
古代の船人たちは動力を持たないがゆえに、風と潮とに依存した航海をおこなっていました。そのため潮待ちをおこなったであろうこの海域で、おそらくは飛島の海岸に露出している花崗岩のあたりで、これからの航海の安全の祈願の祭祀をおこなったと思われます。

   出土した銅銭の種類は全部で12種類。時代の古いほうから「和銅開弥」(708)、「萬年通寶」(まんねんつうほう:760)、「神功開寶」(じんごうかいほう:765)、「富壽神寶」(ふじゅしんぽう:818)、「承和昌寶」(しょうわしょうほう:835)、「長年大寶」(848)、「饒益神寶」(にょうやくしんぽう:859)、「貞観永寶」(じょうがんえいほう:870)、「寛平大寶」(かんぴょうだいほう:890)、「延喜通寶」(えんぎつうほう:907)、「乾元大寶」(けんげんたいほう:958)。
通貨の出土はその鋳造年よりも以降である、ということしか判明しないが、この遺跡が奈良~平安期の遺跡であろとおもわれる。

   飛島でおこなわれたような海の祭礼の遺構は全国で発見されており、最も古い時代・古墳後期からの遺物が出土され、「海の正倉院」と呼ばれる日本海に面した「沖ノ島」があります。
ここでも唐三彩の発見があり、飛島と同時代の祭礼場所として断片土器しか出土していないが飛島の隣に位置する「宇治島」(福山市)、瀬戸大橋の「櫃石島・大浦浜」、「魚島」(広島県)などで発見されています。
また吉備の中山につづく航路としての島々、岡山の「高島」・「井島」・「荒神島」などには鏡・玉・剣などの出土と同時に祭礼の跡も発見されています。唐三彩の東の海域での発見は三河湾に浮かぶ「神島」からの出土がある程度で、全国的にも発見例は少ないと言えます。
時代がくだって平安後期、藤原純友が瀬戸内海で海賊行為を働く頃の海の祭礼遺構をして「大三島」と「厳島」が挙げられます。

   飛島からの出土品からこの祭礼が国家的なレベルでの行事であったことから、海に関する国家的行事という範疇で遣唐使船がその対象として考えられています。遺跡は何も語らず、文献としての確証はありませんが、遣唐使船の年表は下表のとおりです。
遣唐使船が唐まで航海するコースで分けますと、第3・4次は「北路:630年~665年の航路」(朝鮮半島の西岸に沿って北上)、第7・9・10次は「南島路:702年~752年の航路」(薩摩の坊津(鹿児島県南さつま市)より出帆し、南西諸島経由して東シナ海を横断するルート。)、第14・~は「南路:773年~838年の航路」(五島列島から東シナ海を横断するルート。日本近海で対馬海流を横断して西進する。 )となってます。
これらの遣唐使船が飛島で祭礼をおこなった候補と考えます。


*** その年表  **** 講演資料は【遣唐使】のみ

【遣隋使】 
推古朝の俀國(倭国)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)             の18年間に5回以上派遣、なお日本という名称は遣唐使のときから使用された。
600   推古8年  【遣隋使】開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。 『隋書』「東夷傳俀國傳」
607  15 第2回遣隋使 小野妹子、裴世清  (『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
 608  16 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など、隋使裴世清帰国  (同上)
 610  18  第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)  
614 22 第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造。百済使、犬上御田鍬に従て来る 『日本書紀』
618 24 隋滅亡、唐が建つ 以降は遣唐使

【遣唐使】 、『旧唐書』や『新唐書』にも記されており、倭国が唐に派遣した朝貢使のことをいう。             
634 舒明2年 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日、唐使高表仁来日、僧旻帰国。、『旧唐書』や『新唐書』にも記されているとおり、倭国からの派遣 北路をとるコース
654 白雉5年 吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)2船団 第2船が往途で遭難
655 白雉6年 高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使)2船団 北路をとるコース
659 斉明4年 坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)2船団、第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される 北路をとるコース
665 天智4年 (送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 北路をとるコース
669 天智8年 第7次遣唐使 河内鯨(大使)、5~7は百済駐留中の唐軍との交渉? 南島路のコース
702 大宝2年 第8次遣唐使 粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)4船団 南島路のコース
717 養老元年 第9次遣唐使 多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)4船団、 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成同行 南島路のコース
733 天平5年 第10次遣唐使 多治比広成(大使)・中臣名代(副使)4船団、 第3船は崑崙国に漂流、第4船は難破して不帰。 南島路のコース
752 天平勝宝 第12次遣唐使 藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 4船団、 鑑真来日す。 南島路のコース
777 宝亀8年 第16次遣唐使 小野石根(持節副使)・大神末足(副使) 4船団、第1船、帰途で遭難。 南路のコース
779 宝亀10年 第17次遣唐使 (送唐客使)布施清直 2船団、唐使孫興進を送る。 南路のコース
804 延暦23年 第18次遣唐使 藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)4船団、最澄・空海・橘逸勢・霊仙 同行す。 南路のコース
838 承和5年 第19次遣唐使 藤原常嗣(大使)/小野篁(副使) 4船団、円仁 同行す。第2船、南海の地に漂着。 南路のコース
【遣新羅使】 日本が新羅に派遣した使節である。特に668年以降の統一新羅に対して派遣されたものをいう。779年(宝亀10年)を最後に正規の遣新羅使は停止された。
統一新羅時代の派遣回数は最も一般的な説が28回、初回は天智7年(668)。このときは新羅使金東厳の帰国に同行、使者の帰国に際しては、朝廷から新羅王に対して船1隻、絹50匹、綿500屯、韋100枚が賜与された。『日本書紀』にのこる記述。
 
笠岡資料館所蔵の「奈良三彩小壺」 奈良三彩とは?
  三彩とは三種の色うわぐすり(秞ゆう)がかけられた陶器を意味する。なかでも「唐三彩」は有名で、唐時代(618-906)に焼かれた軟質陶器で、褐(黄)・緑・藍(コバルト)で彩ったものと、白地(白秞地)に褐(黄)・緑の上薬で彩ったものがあるという。大正年間、旧都・長安・洛陽付近の唐代墳墓から多数発掘された。すべての貴人たちの墓に副葬された明器とみられている。
 これに対して東大寺・正倉院の三彩軟陶は和三彩・正倉院三彩・奈良三彩という。唐の技法を真似たものである。競べると材質が粗く灰色がかっている。上薬の溶解度が粗悪であるのは否めない。左が飛島の三彩だが、直径が5cmほどで素地は粘土質の少し灰赤色がかっており唐三彩のようなクリーム色ではない。色は緑(銅)・褐色(鉄)と素地の白で三彩となっている。大きな甕の中から発掘された。貴重品であったと思われる。
リンクto 笠岡市立郷土資料館
 

2010/01/28更新 2009/03/07