AncientTurkey東洋と西洋の緩衝都市Istanbulから


トルコ西方の駆け足周遊8日間

旅 程

2009/06/03~11:阪急交通社

 初 日   関西空港~Tashkent~Istanbul by HY528/HY271Uzbekistan航空という聞き慣れない飛行 23:00 hrs. 発に乗るべく自宅発at 14:45hrs.
        車を大磯に預けて笠岡駅へ。1534hrsサンライナー →1630hrs岡山発 →1845hrs新大阪はるか発 →2000hrs関空着(移動距離250Km)
 2日目   Uzbekistanの首都Tashkent。何もなく乗継ぎ0335→ 0810発→ 11:10hrs Istabul到着 → フライト時間13h40m待5h(時差-6.0時間)
        飛行場からは観光バスですべて移動。まず昼食の魚料理のSUR BALIK FISH RESTAURANTを皮切りにトルコ料理がはじまった。
        食事後、歴史地区内トプカプ宮殿を観てアンカラへ。途中夕食の頃には驟雨、ホテル着23:00(移動距離450Km)SurumeriAnkara泊No1211
 3日目   アンカラよりコンヤへ移動0800発。途中Kappadicia観光 →Gyureme/PigeonValley →コンヤ泊RixosKonya2000着(移動距離500Km)
 4日目   コンヤからPamkareへ移動0900発。途中メヴラーナ教会→Hierapolis-Pamukkale →ThermalColossae泊1830着(移動距離410Km)
 5日目   アイワルクへ移動0730発。途中エフェソス遺跡・アルテミス神殿跡・セルシウス図書館→GrandDemisel泊1930着(移動距離435Km)
 6日目   イスタンブルへ移動0730発。途中トロイ遺跡→ダーダネル海峡→市内へ、タイタン広場散策EuroPlaza泊2030着(移動距離495Km)
 7日目   イスタンブル市内観光1000発。ボスポラス海峡クルーズ・ブルーモスク・G&Eバザール→空港へHY274便21:20発(移動距離70Km)
 8日目   Tashkent03:40着、07:40発。成田着19:30→関空着21:50hrs→専用シャトルバスにてAnaGateTowerHotel泊2240着(移動距離10Km)
 9日目   関空より08:30発高速バスにて岡山へ12:00着、昼食後13:20発 各駅停車JRで笠岡へs→大磯より車で自宅へ15:00着(移動距離300Km)
 
   トルコ最大の都市であるヨーロッパ側のイスタンブルは、古代からヒッタイト・フリュギア・リディア・ビザンツ帝国などさまざまな民族・文明が栄えた
地である。11世紀に、トルコ系のイスラム王朝、セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルーム・セルジューク朝の支配下で、ムスリム(イスラム
教徒)のトルコ人が流入するようになり、土着の諸民族とが対立・混交しつつ次第に定着していった。
彼らが打ち立てた群小トルコ系君侯国のひとつから発展したオスマン朝は、15世紀にビザンツ帝国を滅ぼしてイスタンブルを都とし、東はアゼルバイ
ジャンから西はモロッコまで、北はウクライナから南はイエメンまで支配する大帝国を打ち立てる。19世紀になると、衰退を示し始めたオスマン帝国の
各地では、ナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立してゆき、帝国は第一次世界大戦の敗北により完全に解体された。しかしこのとき、戦勝国
の占領を嫌ったトルコ人たちはアンカラに抵抗政権を樹立したムスタファ・ケマル(アタテュルク)のもとに結集して戦い、現在のトルコ共和国の領土を
勝ち取った。
1923年、アンカラ政権は共和制を宣言。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブルから追放して、西洋化による近代化を目指すイスラム世界初
の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。

 現地ガイドの男性のお名前はMr.Kelmさん、旅行会社の日本語習得研修に応募し東京にも3ケ月ほど逗留されたことがあり、流暢な日本語だ。
外にも仏語の観光ガイドをおこなっておられるとか。歴史に明るく日本事情もよく学習され、気配り・目配りともに勝れた知的なおじさんだった。
このMr.Kelmさんからトルコと日本のかかわりをバスの中で聞いた。 →  詳細 ClickHere
1-オスマントルコの軍艦、エルトゥールル号遭難に救助にあたった和歌山人たち(1870年)
  ☆2010/01/26 エルトゥールル号 遺品調査より 『大英帝国1ポンド金貨と日本1円銀貨を発見!』 by 朝日新聞   ClickHere
  ☆2010/09/07 「120年前の同胞思い トルコの旅行客が串本町を訪問」by 紀伊民放2010/09/07 WebNews by 紀伊民報
ClickHere
2-イラン・イラク紛争時、国外脱出の邦人を救ったトルコ航空機(1985年)
3-日露戦争(1904-5)
4-トルコ大地震(1999/08 & /11の二度)

Unesco世界遺産

トルコの世界遺産は9カ所:以下その登録基準
 

(i) 人類の創造的才能を表す傑作である。

(ii) ある期間、あるいは世界のある文化圏において、建築物、技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展における人類の価値の重要な交流
を示していること。

(iii) 現存する、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する独特な、あるいは稀な証拠を示していること。

(iv) 人類の歴史の重要な段階を物語る建築様式、あるいは建築的または技術的な集合体または景観に関する優れた見本であること。

(v) ある文化(または複数の文化)を特徴づけるような人類の伝統的集落や土地・海洋利用、あるいは人類と環境の相互作用を示す優れた例
であること。特に抗しきれない歴史の流れによってその存続が危うくなっている場合。

(vi) 顕著で普遍的な価値をもつ出来事、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または明白な関連があること
(ただし、この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

☆2009/06/15 旅を終わって調べた結果(今回訪問できた遺跡の数は4ケ所、残りの5カ所は今回ツアーコース外にある)

****  トルコの今回訪問 世界遺産リスト  ******


No 名 称 概 要 外 観
01 イスタンブルl歴史地域
Historic Areas of Istanbul

登録年:1985文化遺産:C(i)(ii)(iii)(iv)
トルコ共和国イスタンブル市
  イスタンブルの旧市街にある歴史的建造物群に設定された世界遺産群はまず旧ビュザンティオン市のあったトプカプ宮殿の丘を中心に設定された地区に建物が集中している。トプカプ宮殿は、15世紀から19世紀までオスマン帝国の君主が居住した宮殿。スルタンアフメトは6本のミナレット(尖塔)と直径27.5mの大ドームをもつイスラム教のモスクである。内部では数万枚のイズニク製タイルによって青く輝くことから「ブルー・モスク」の通称で広く知られている。テオドシウスの城壁は3世紀初頭にテオドシウス2世の治世に建設され、イスタンブール旧市街を完全に内側に覆いつくしている大城壁が市街地に残る。カーリエ博物館は城壁のすぐそばにある歴史的建造物だ。5世紀にコーラ修道院として建てられ、オスマン帝国時代はカーリエ・モスクとしてモスクに転用されていたが、20世紀に漆喰の裏から14世紀頃に描かれビザンティン美術の最高傑作のひとつモザイク画が発見された。
02 ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群
登録年:1985 文化遺産:C(i)(iii)(v)(vii)

Göreme National Park and Rock Site of Cappadocia
   カッパドキア(Cappadocia)とはアンカラの南東にあるアナトリア高原の火山によってできた大地をいう。古代の地理において「美しい馬の地」を意味するペルシア語:Katpatukに由来、トルコ語:Kapadokyaは、小アジア(現代のトルコ)の広大な内陸地域を指した。ヘロドトスの時代には、「カッパドキア人」がタウルス山脈から「ユークシン(Euxine、すなわち黒海)」までのすべての地域を支配した。カッパドキアの町に在るギョレメにはの岩窟教会"妖精の煙突"と呼ばれる岩の形成物がある。この地域への初期の移住は キリスト教が伝播した頃の古代ローマ後期にさかのぼる。史跡の中にはギョレメのオルタハネ、ドゥムス・カディル、ユフス・コックとベジルハネの教会、など岩盤を穿ち居住区を刳りぬいた家々と縦抗がある。近年、地下45メートルの岩盤に、広範囲の地下都市が発見されている。
03 ヒエラポリス-パムッカレ

登録年:1988 文化遺産
と自然遺産:C(iii)(iv)&(vii)

Hierapolis-Pamukkale
   ヒエラポリス-パムッカレはトルコ西部にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰棚の丘陵地帯の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。当時帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるがその後、復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。現在は劇場、浴場などの遺構が残る。
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。昔、弱酸性の雨が台地である炭酸カルシウムの溶液となって地下水となった。それが地熱で温められて湧き出て温泉となり、沈殿した石灰が固まって、あたかも純白の棚田のような景観を作り出している。棚田のようになっているのは、漂流してきた枝などに石灰がたまり、それが長い間を掛けて堤を形成するためである。このような景観が約200mの高さに渡って形成されている。
04 コンヤとメヴレヴィー教会

Konya &

  コンヤ(Konya)は、トルコの内陸アナトリア地方の主要都市のひとつで、フリギア、リディアの時代から存在する都市。アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン(Iconion)と呼ばれた。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台のひとつとなった。
メヴレヴィー教団(-きょうだん)とはイスラム教のイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一つ。13世紀にジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207年 - 1273年)によって開基された。日本では旋舞教団といわれ、スカートをはいた信者が音楽にあわせて、くるくると回転をし踊るという宗教行為で知られる。これは祈りの手段であり、回転は宇宙の運行を表し、回転することで、神との一体を図るというものである。1923年のトルコ革命では、「脱イスラム政策」の一環として、霊廟は破却され、教団は解散させられた。その後、歴史的文化価値などから復興し、霊廟は博物館として一般に開放されいる。
05 エフェソス 

Efesos
(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus 現在はトルコ語でエフェスEfes)
   エフェソスはアルテミス崇拝で知られたギリシア人都市である。現在は遺跡が残っているのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられている。
発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロスタトスという名が伝わっている。アルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられた。5万人を収容する劇場やアレキサンドリアのベルガモ図書館など世界三大図書館のひとつ、エフェソスのセルシウス図書館の遺構も残る。
06 トロイの古代遺跡

Archaeological Site of Troy
登録年:1998 文化遺産:C(ii)(iii)(vi)
  1870年(明治3年)、シュリーマンは、私財を投じてホメーロス『イーリアス』のトロイアの発掘を開始。シュリーマンの狙いは正しく、彼は曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。
ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。現在までの調査によると、イリオスの遺跡は9層から成り、シュリーマンのトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだということがわかった。第I層、すなわち最初の集落は紀元前3000年頃に始まっており、初期青銅器時代に分類される。第II層は、エーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイア文化ともいうべき独自の文化を持っていた。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されている。しかし、その後の第III層から第V層は繰り返し発掘の破壊に遭って、発展的状況は認められない状況のようだ。

☆トルコ 興亡史 『百科事典『ウィキペディア 』等のWeb資料からの引用
 古代オリエントと極東のニッポンとは絹の道を経由して遠くて微かなつながりだ。→ 平城京から8世紀のイスラム陶器が出土(2009/07/04朝日新聞)、その2

ローマ帝国支配前 
     現在のトルコ共和国の国土の中心となっているアナトリアは世界的にも歴史の古い土地で、紀元前18世紀にはインド・ヨーロッパ語族のヒッタイト王国が建国された。鉄器を最初に使用したというヒッタイトは紀元前14世紀には全盛期を迎えるが、紀元前1200年頃には海の民によって滅ぼされた。紀元前9世紀にはフリュギア王国、紀元前7世紀にはリュディア王国がこの地に建国された。
☆2009/03/26 「最古の鉄器」発掘、by「朝日新聞」1面に掲載
 → Click Here
 2010/02/01 同上財団の新たな遺跡発掘許可記事 by 「朝日新聞」→ Click Here
  2010/06/04 慰霊のトルコ行進曲 at和歌山串本沖 by 「朝日新聞」→ Click Here
 2010/08/07 ヒッタイトを遡るか?遺跡発掘許可記事 by 「朝日新聞」→ Click Here

一方、エーゲ海沿岸地方にはギリシア人によってミケーネ文明が開かれ、「トロイア戦争」で有名なイリオスは紀元前1200年頃までには繁栄していた。その後紀元前7世紀の地中海各地への植民が行われたマグナ・グレキアの時代には各地に植民都市が建設され、ボスポラス海峡に建設されたビザンティウムもその一つである。

アナトリア地域は紀元前6世紀にはアケメネス朝ペルシアの支配を受け、紀元前4世紀のダレイオス2世の頃に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服された。アレクサンドロス大王死後はセレウコス朝シリア、ペルガモン王国などの支配を経て、紀元前2世紀にはローマの属州となった。

東ローマ帝国支配 
     330年ビザンティウムはローマ帝国の首都となりコンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)と改名された。395年にはローマ帝国が東西に分裂すると東ローマ帝国の首都として前代未聞の繁栄を見せた。
東ローマ帝国は6世紀のユスティニアヌス1世の頃にローマ帝国の版図の大半を回復することに成功したが、その後サーサーン朝との抗争やユスティニアヌス時代の征服戦争などによる財政破綻などから急激に衰退する。7世紀初頭の皇帝ヘラクレイオスはサーサーン朝に勝利したものの、勃興してきたイスラム帝国やスラヴ人の侵攻を受けて版図は急激に縮小し、守勢に転じた。また、西欧諸国やローマ・カトリック教会とも対立を深め、それまでの地中海周辺全体を支配する大帝国から、当時ギリシア人が多数を占めていた現在のギリシャ・トルコ周辺を中心とする国家へと変貌し、公用語もラテン語からギリシア語へと改められた。この時代、現在のトルコに当たる小アジアは対イスラムの前線として、そして穀倉地帯として重要な役割を果たしていた。

9-10世紀になると、東ローマ帝国は国力を回復させて再攻勢に出るようになる。その結果、11世紀初頭にはバルカン半島全土や北シリア、南イタリア、アルメニアなどを支配する大帝国として復活する。しかし、11世紀半ば頃になると再び国力が衰え、東からテュルク民族の侵攻を受けるようになる。

セルジューク朝 
    アナトリアで東ローマ帝国がイスラーム帝国と覇権を争っているころ、東方のアルタイ山脈の麓では突厥が柔然を滅ぼし、中央アジアに大帝国を築いたが東西に分裂し滅亡した。7世紀にイスラムの捕虜となったトュルク族はイスラム圏で遊牧生活を営むとともに、マムルークとして浸透していった。その中のオグズ族のセルジュークが部族を糾合し、1038年にはホラサーンの支配を確立しセルジューク朝を樹立した。1055年にはトゥグリル・ベクがバグダッドに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの地位を授かった。セルジューク朝はスンナ派の庇護者としての正当性を得ると、西アジアのイスラーム圏の主導的立場となった。

1071年マンジケルトの戦いでセルジューク朝が東ローマ帝国を破ると、アナトリアに進出し、ルーム・セルジューク朝が誕生した。ルーム・セルジューク朝の支配のもとでアナトリアのトルコ化、イスラム化が進行した。 1243年にはモンゴル族がイル・ハン国を樹立。セルジューク朝はアナトリアに中心を移した。

オスマン朝
     セルジューク朝が滅ぶとアナトリアはいくつかの君公国に分けれていたが、1299年にオスマンが開いたオスマン朝は順調に勢力を拡大し、3代スルタンのムラト1世はアドリアノポリスを占領し、ブルサから遷都した。その後コソボの戦いでセルビア、ブルガリア、ルーマニアを支配下に置いた。さらにニコポリスの戦いでは神聖ローマ皇帝ジギスムント率いる十字軍を破っている。バヤズィト1世は初めてコンスタンティノポリスの包囲を敢行した。しかし1402年アンカラの戦いで、東方からの征服者ティムールに敗れ、オスマン朝は崩壊の危機に見舞われた。その後メフメト2世の頃には国力を回復し、コンスタンティノポリスを包囲1453年にこれを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡させた。さらに1517年にはエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、イスラム教スンニ派世界の主導的地位を獲得した。

スレイマン1世の頃には1526年のモハーチの戦いでハンガリー王国を滅ぼし、征服。1529年には第一次ウィーン包囲を敢行。神聖ローマ帝国に肉薄した。1522年にはプレヴェザの海戦でキリスト教国連合を破り、地中海を「オスマンの海」とした。 スレイマン1世の頃はオスマン帝国の絶頂期で、法制の整備、イェニチェリの改革や教育政策の充実、学芸の振興などが進んだ。

オスマントルコの衰亡
      スレイマン1世の死後、1571年にはレパントの海戦でスペイン艦隊に敗れ、オスマン朝はキリスト教勢力に初めて敗北を喫した。これを以ってオスマン帝国の衰退といわれるが、実際は地中海の制海権を維持していた。しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗後にはスレイマン1世以来の制度の変質が顕在化し、衰退に向かった。18世紀初頭には西欧諸国との間で、良好な関係が形成され、チューリップ時代と呼ばれる平和な時代が到来した。しかし、ハプスブルク君主国やロシア帝国などの中東欧諸国との戦争で弱体化を余儀なくされ、18世紀後半には露土戦争の結果、クリミア半島をエカテリーナ2世のロシア帝国に割譲した。

このような帝国の衰えに対しセリム3世のように改革を実行しようとするスルタンも現れたが、イェニチェリの介入で失敗し、政局は混乱した。
19世紀のはじめにはタンジマートと呼ばれる改革が実行され、さらに1876年にはオスマン帝国憲法が制定されるなど近代化が試みられたが、アブデュル・ハミト2世が専制君主制を復活させ反動化した。
この中で、バルカン半島の諸民族の独立運動とそれに対する列強の介入やロシアの南下政策などで領土は縮小し、産業革命にも西欧の後塵を拝し、対外債務の増大や国民経済の窮乏化など国力は疲弊して行った。

これに対して、危機感を募らせた青年将校たちが統一と進歩委員会を結成し、「憲法復活」などをスローガンに革命を起こした。いわゆる「青年トルコ人革命」である。この革命によって「汎トルコ主義」による近代化が推進されることになるが、「統一と進歩委員会」のエンヴェル・パシャはドイツ帝国と提携しロシアに対抗。第一次世界大戦では中央同盟側に参戦し、敗戦。オスマン帝国は崩壊することになる。


☆ヒッタイト(Hitit)遺跡を展示する「アナトリア博物館」(不訪問)
  アナトリア高原の中央部に位置するトルコ共和国の首都アンカラの東方150Kmに人口千人のボアズキョイ村がある。
この地が古代ヒッタイト帝国の首都ハットウシャであることが発見された粘土板に記されたヒッタイト文字解読によって確定された。
ヒッタイト(古代BC1,900~1190年、後期BC850~700年)の人々は小アジア(アナトリア)に侵入したインド・ヨーロッパ語に属する民族だった。
この博物館にはヒッタイトに先行する古代アッシリア時代(BC1950~1750年)、金石器・青銅器時代(BC5000~2000年)、新・旧石器時代の展示品あり。

No. 表題 Title   内容 Contents
001  城壁と石造遺構が残るイスタンブルの市街地をバスで巡る~  画像みる    ↓
     
 観光バスの窓から観るイスタンブルの市街地View

  ボスポラス海峡を挟んでイスタンブルの旧市街地には古代ローマの城壁と城塞、さらには写真にある水道橋などの石造構築物が市内のあっちこっちに残っている。イスラム教のモスクには尖塔群が聳えたつ情景が窓に流れると異国へいるんだという実感に浸れる街である。
またトルコ共和国の総人口7,500万人のうち1,400万人が住んでいるというここイスタンブルは旧い時間を閉じこめた建物が多い。
タクシン広場の繁華街と電車の往来、ブルーモスクとエジプシャン市場の喧噪、ボスポラス海峡クルーズで洋上から観た城下町ウスクダラ、そして最もたくさんの店が集中しショッピングを愉しむお客の流れも途切れない。
   ⇒江利チエミ 「ウスクダラ」 Play Click
 
002  シルクロードの隊商たちが歩いた風景  画像みる    ↓
 
    シルクロード(Silk Road)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹の道とも呼ばれる。
現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。
シルクロードという語は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『シナ China 』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセンSeidenstrassen (ドイツ語で「絹の道」の意)として使用したのが最初で、彼の弟子ヘディンがその中央アジア旅行記の一つの書名にこの言葉を使用し、さらにその本が1938年に『ザ・シルクロード』という題名で英訳されたことにより有名になった。日本ではときには、シルクロードの通過する地域である中央アジアを地域的に指す言葉としても使われることがあり、日本ではシルクロードの通る地域は、中国で伝統的に言った「西域」(さいいき)という言葉とともに広く知れ渡っている。日本では、奈良の正倉院に中国・ペルシア製の宝物が残り、天平の遣唐使に随行したペルシア人の来日記録がある。摂津国の住吉津(現大阪住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥・平城京が「シルクロードの東の終着点」と呼ばれることがある。
  シルクロードの中国側起点は洛陽(河南省洛陽市)。長安(陝西省西安市)という説も有力ではあったが、2007年4月に中国政府は洛陽であると認定した。一方欧州側起点はシリアのアンティオキアと定義できる。この名称をリヒトホーフェンとヘディンが使用した意味から、この隊商路の主要な路線は次の3本になる。
1.敦煌(とんこう)からアルトゥン山脈に沿い、ホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南辺のオアシスを通過してパミール高原に達する南方の交通路 (西域南道)。これが最も古い。砂漠の南を通ることから漠南路とも呼び習わす。
2.敦煌からトゥルファンを経てウルムチに達し、イリ川流域にいたるもの。この北方のシルクロードはおそらく紀元後数年に開かれた。天山山脈の北麓を進むことから天山北路とも呼び習わす。
3.敦煌から楼蘭(ろうらん)を経てコルラに達する中央路は北方路よりも古く、南方路と同じ頃の紀元前2世紀にさかのぼり、最も重要な隊商路として4世紀前半まで使用されていた。天山南路あるいは漠北路ともいう。
広義のシルクロード、すなわち西トルキスタン(旧・ソ連領中央アジアの一地域)以西の東西隊商路は多数の路線に分岐していた。


003
参照・Webサイト一覧(整理中)
No  Site name  Auther'sName  Coments 
001  みんなの世界遺産 2005-2008 みんなの世界遺産  Republic of Korea UNESCO登録情報 参考サイト
002  世界遺産りすと 社団法人日本ユネスコ協会連盟  地域別リスト(アジア)いかなる情報も無断転載を禁じます
003  皐蘭寺(고란사:コランサ) だるまさんが転んだ  「日本と韓国」など、韓国関係 資料編
004  扶蘇山城 備陽史探訪の会長 田口義之氏   百済遷都にともない扶余の106mの扶蘇山に築かれた山城
005  ぼくのご先祖さま K's roots 旧坪生村に多い「掛谷」姓のルーツをさぐる 
006  高麗八萬大蔵経 フリー百科事典『ウィキペディア  (現地語読み仮名) パルマンテジャンギョン
007 アジア歴史資料センター 国立公文書館 使用するためには別途アプリが要るようです
008 百済への旅 by ゆみさん 韓国旅行記より
009 石州往来・坪生~西浜~笠岡 Yagumoさん 坪生の旧跡を通って、有田~吉浜経由で笠岡威徳寺まで

2010/09/07更新 作成2009/07/05