| 坪生要害(清水山古戦場・清水丸・龍王山とも) 天文16年(1547)徳寿丸(隆景)初陣、 神辺城合戦で坪生要害を落とす。 |
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| 訪問:2010/06/15 福山市坪生町山の奥 |
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| 坪生寒森神社からの道ゆき 坪生町から県道76号線を大門町へ向かって南下、山陽自動車道と交わる高架橋を越えると正面にに見える丘陵地。標高75m、 比高は30mくらいであろうか。狐原の集会所が道路の西側にあり、四ツ堂附近に車を置いて丘陵をのぼった。小高い丘なので頂 上まで開墾され畑地になっていた。 頂上の主郭があった平坦地には龍王宮と石鎚神社が祀られている。この丘の小字名を清水丸というそうだが、龍王山とも呼ばれ た古記録が残っている。(「坪生たずね歩き」より引用) 神辺城合戦の前哨戦 時代背景等、『私の「坪生村史」探求』小森浩氏著、に次ぎの記載あり。 「天文七年(1539)、大内氏の庇護により神辺城主となった杉原理興は、豪勇の誉れが高かったが、尼子氏の誘いに応じ、天文十 二年(1544)、反大内毛利に転じ、大内方備後諸城を攻撃した。天文十六年(1548)、大内氏はその不信を責め、陶晴賢を総大将と する大内、毛利、小早川連合軍を東上せしめ備中備後の境付の野々浜附近に上陸、橋頭保を築き、同年四月備後五箇庄(大門、 引野、能島、野々浜、津之下)を抜き、直ちに北進して坪生庄の要害龍王山(清水山)を奪取、神辺城攻略のくさびとした。従ってこ の時点、即ち天文十六年五月から坪生圧の実質領家は、小早川隆景になったのである。(資料は「坪生村史」より) 案内板には次ぎの説明があった。 『清水山古戦場址 室町末期の戦国時代、周防(山口県)の大内氏と出雲(島根県)の尼子氏が中国地方をめぐって争っていた。 「天文十六年(1547)大内方の毛利・小早川軍は尼子方の神辺城主山名理興を攻めんと、海路から上陸し坪生庄の要害龍王山 (清水丸)を突いてこれを抜き、、」と古記録は語っている。』 位置図: 福山市坪生町山の奥 |