福山市 つぼうの寒森神社


陽光注ぐ南面した小高い丘に鎮座する社

地勢考

福山坪生村史より:つぼう郷土史研究会

 1871(明治 4)年2月 坪生村啓蒙所設立
 1873(明治 6)年9月 深津郡1番小学校に校名変更
 1877(明治10)年1月 第1番小学校に校名変更
 1889(明治21)年 4月 深津郡坪生尋常小学校に校名変更

 明治22年4月1日  市町村制施行。深安町域には当時いずれも深津郡に属する大津野・春日・坪生の各村が存在した。
 明治31年10月1日 深津・安那両郡が統合して深安郡が成立したことに伴い、大津野・春日・坪生各村は深安郡に属する村になる。
 昭和30年3月31日 深安郡大津野村・春日村・坪生村が対等合併して深安町が成立。
 昭和37年1月1日  福山市に編入、現在に至る。

 拝社地東西八十四間・南北十三間、面積三反六畝廿五歩 村ノ中央岡阜ノ裾ニアリ、祭神菅公本村の氏神タリ
 樹林之を囲繞ス

歴史考

坪生荘の成立と変遷について(「笠岡市史」より)
 坪生庄は備後国深津郡坪生村(規、福山市坪生町)を中心とした摂関家領の庄園である。坪生庄の庄域には篠坂、押撫、有田などの笠岡
地域を含んでいたといわれ、大門町野々浜の賀茂神社の牛王の守符の板木には、「永享十一年正月五日、備中坪生庄」と彫られている。

 また、福山市坪生町の「新中八幡社」の伝承も坪生庄の庄域を考えるうえで示唆的である。
新中八幡社は、坪生庄に勢力をふるった神原氏が、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと伝え、坪生庄の総鎮守として庄民の信仰を集めていた。
神原氏は、北接する高富圧の三吉鼓氏によって進攻を受け、仁井の合戦に破れたといわれている。三吉鼓文書にみえる暦応三年(1340)の譲状
によれば、この時期すでに坪生庄域であった地域が高富庄内とされているので、仁井合戦は暦応三年以前のことと思われる。神原氏の敗北以後、
八幡宮の氏子が分裂し、祭礼のときに争論がひき起こされ社殿などもことごとく破壊されたという。このとき、神体は大門村へ、太鼓は有田へ持ち掃り、
それぞれ八幡宮一社を興したと伝えている。この新中八幡神社を総鎮守としていた村は諸説があって一定しないがおよそ十三村であったとも伝承
されている。この十三村がかつての坪生庄の庄域であった。

 坪生庄の本家職は、判明するかぎりでは九条兼実から宜秋門院任子に譲与され、更に道家、その子実経(一条家の阻)に伝えられた。この間、
最勝金剛院の建立つ直後に院領として寄進され、年貢として油一石が最勝金剛院に納められている。しかし、庄園の本家職は一条家へ伝領され、
室町末期まで一条家の庄園として存在した。坪井圧も武士の侵略を受け、領家が庄務を保持できなかったことは他庄と変わりがなかったものと思
われる。

 南北朝期には神原氏、その後は細川氏による「坪生領家職半分」、更には応仁の乱後の山名是豊の坪生庄下向と続いている。一条兼良の
「桃華蘂葉」(とうかずいよう)には、「家領并敷地等事」として、「備後国坪生証、山名被官人大田垣代官となる。その後平賀これを預り申す。毎年々
貢三千五百疋、筵等也。山名書状等これあり。園は中納言給費の地となる。しかして、当時、当国錯乱によって未だ手に入らざるなり。」と、不知行
の状況を述べている。一條家では代官として平賀氏を京都から下向させるが、この平賀氏も備後、備中の諸所に「小城を構える」国人領主へと成長
していった。

 この坪生庄には、開発領主の後裔といわれ、在地名を名のる坪生氏も在住していた。この坪生氏は陶山氏をも名のっている。江戸時代初期の
寛永十六年に編まれた水野記には、「天平二壬午年、陶山某備中国高松に移居し、その末孫陶山勘兵衛坪生村を領し、正学院を以って菩提寺と
なす。弘安五年これを再興す」とある。このほか、有田の教積院、八幡宮、篠坂の泉福寺、西浜(現在金浦)の八幡宮、大明神、観音寺、後月郡高
屋の高山寺、両社八幡など、備中と備後の境界に位置する寺社が、陶山氏の造立あるいは寺社領寄進という伝承を持っている。
その後の坪生圧は、山名理興、小早川隆景などによって押領され、庄園としての機能は消滅していった。


坪生荘の成立について(片岡修身氏著「さくら山」より)

 治承四年(1180) 五月十一日付、皇嘉門院(こうかもんいん=七十五代崇徳天皇の皇后)惣領処分状に、この坪生庄は一条家(藤原道家の子
が五摂家の一になり、京都一条に住んだ) の領地だったが、四十一代女帝の持統天皇の治世時代に宮中で流行した、金光明最勝王経金剛に
寄付した。坪生庄の年貢が年に荏胡麻 (えごま)油が一石(180リットル) であった。荏胡麻とはインド・中国を原産地とし、高さ一メートルで茎と葉
は浅緑色。果実は妙(い) って荏油(えのあぶら)を探って灯用とする油のことである。

  坪生庄は大門・引野・能島・野々浜・津之下の備後国内の五箇(か)村と、備中国の篠坂・押撫・有田・用之江・毛平・大下の六箇村の合計十一
箇村と広域にひろがっていたので、一年間に僅か油一石の年貢で一条家から地頭権利を渡されて、統治権・裁判権・徴税権・を託された地頭が
神原氏である。  神原氏の出自は現在の静岡県庵原 (いはら) 郡蒲原(かんばら) 町の地頭を発祥地とする。
藤原南家入江氏流の神原五郎は、保元物語・源平盛衰記の承久記巻二に名が出る勇者であったが、後醍醐天皇が南朝を立てた時代にはその子孫
の神原伯嘗守助宗が領主であった。

当時は坪生庄の北側は高富庄に接し(現在の深安郡神辺町上竹田)その地の上竹田箇鼓谷に城を構えた鼓(つづみ)氏がいた。鼓氏は現在の
三次市に本拠に置く三吉氏が承久の乱で朝延方に属して敗退して、三吉氏に代わって地頭となった藤原姓の三吉氏から、西山城(池原城)の
神原伯嘗守助宗を暗殺せよと命令を受けた。神原伯嘗守は坪生町と篠坂の境にある仁井を巡視中に暗殺された。
神原氏が坪生庄への就任の時に鎌倉鶴岡八幡宮から勧請された新中(しんちゅう)八幡社があったが、この暗殺事件をきっかに祭礼に争いが
生じたという。社殿は破壊され、奉書紙に金箔を貼り付けた『御神体』は大門村の者が盗み出して、大門村の烏帽山の山頂の地中に埋めた。
後でこの地に大門・引野・能島・野々浜・津之下の五箇村の総鎮守八幡社を建てた。
一方、新中八幡社の太鼓は有田村に持出された。この太鼓は水野勝成の時代に半分に割られて在田神社に現存する

  その後、備中国坪生庄は笠岡の陶山氏が支配した。坪生庄の開発者の子孫の坪生勘兵衛尉高恒が南山城を築いて坪生村のみを統治した。
坪生の上竹田に近い仁井に仁井山城を築いた仁井太郎吉近は、大門・引野・能島・野々浜・津之下を統治を狙(ね)らったが、野々浜村に飽浦四郎
左衛門尉が明知(あけち)山城を築いて、当時は官軍側の足利軍に加わり、備前国三石(現在の岡山県備前市)で、赤松則村と戦って戦死した。
その跡に塩飽大刀之丞が城主となった。その後、天文元年(1532)に塩飽氏が病死、城には岡志摩守安氏が入城した。天文二年(1533)には
大門村に高野山眞言宗眞明寺を明知山城主岡志摩守の菩提所として建立した。
 君主を暗殺され後継者が幼少の神原家は後刻に眞明寺が建立される処の隣地に、これまで坪生村にあった神原氏の菩提寺を移して『上の坊』
を建立した。
****************
 2010/04/22 三吉言覚弁の戦況(笠岡市史資料中巻p54より)
 観応2年・正平6年(1351)に岩松頼宥(足利尊氏の家臣で備後守護として下向し貞和年間(1345年~1350年)・正戸山城を築いて居城としたと
いう。正戸山城(別名、小藤山城,勝戸山城,勝渡山城,正渡山城 )は丘城(49m/34m)、場所は福山市御幸町大字上岩成 )から出された感状2通。
1-備後国石成上下城退治の事、去る13日軍忠いたし之条、尤も神妙、京都殊に注申すべくの状、件のごとし。
2-備中国荏原高越城に於いて、去る10/29より同12/2まで度々合戦し、同十五日、延福寺山合戦の時、軍忠致しの条もっとも神妙、、、
いずれも宛名は「三吉少納言御房」 発給は頼宥(花押)



福山坪生村史より:つぼう郷土史研究会
 
坪生史を語る上での史書リスト

峯殿置文』     建長二年(1250)十一月の記年のある九條道家の「置き書き」のこと。
         九條道家は光明峯寺と号したので峯殿と称せられた。この古文が備後国坪生庄が記述された最古の文献で鎌倉時代の往時を
         偲ぶ唯一のものである。
         九條道家は建保六年(1218)左大臣となり、承久三年(1221)四月、仲恭天皇(ちゅうきょう)の外舅(がいきゅう)なるの故を以て政
         を摂し、安貞二年(1228)関白となった。その子頼経は源実朝の没後に北条義時に迎えられて征夷大将軍となり、一門
         赫々(かくかく)、勢い朝野を傾け、慶長四年二月二十一日薨ず。享年61才であった。
         ☆『福山市史』
             上記文書から、坪生荘は道家が前摂政実経から譲渡された緒荘に属し、阿弥陀堂(最勝金剛院と号す)の領とされる。
           阿弥陀堂は、藤原忠通が久安年中(1145-1151)に草創したところであり、その緒荘は忠通から寄附されたものであるという。
           ゆえにこの荘の成立は久安年中以前にさかのぼると考えられている。この荘の年貢は阿弥陀堂の寺用に充てられ、本家職は
           九條家にあり、戦国時代まで九條家領であった。

桃華蘂葉』(とうかずいよう)    文明十二年(1480) 一條兼良の遺した一條家の故實、作法、領地などの置書。
         坪生庄はこの一條家の領地として書かれており、室町時代を知り得る唯一の文献。この書は群書類聚巻四第471に収めらている。
         坪生庄から年貢として「筵」(むしろ)を納めていた記録が残る。
         一條兼良は後成恩寺と号した。永享四年(1432)摂政、文安三年(1446)太政大臣、同四年には関白となった。
         応仁二年(1468)八月細川勝元と山名持豊の争乱におよび難を避けて南都に移り、文明二年(1470)関白を辞じ、同五年出家し法名
         を覚恵を称した。文明13年四月二日薨ず、享年80才。

牛王版木銘(ごおうはんぎめい)』 現在の野々浜石川 ClickHere ⇒ 加茂神社
         加茂大明神の牛王版木の裏に刻されている銘文で、永享十一年(1439)巳正月五日の記年がある。といっても「福山志料」からの
         孫引きで、備後坪生庄が備中坪生庄と称せられたことがあるということを称した証拠で、『深津郡野々浜の加茂大明神に、備中坪生
         庄南方石川村鴨大明神常住也、永享十一年巳正月五日、執事後藤左京進基季、作者同高季と彫付たり』とある。

 この他、『坪生村差出帳』 宝永八年(1711)坪生村庄屋宝永七年に阿倍正邦の福山藩への就封するや各村に報告書の提出を命じた。
         渡辺一男氏所蔵版による。
      『備陽六郡誌』 福山藩士 宮原直知著 全40巻、最古の郷土史誌である。
      『福山志料』   福山藩撰藩誌 三十五巻 菅茶山他4名と各村の庄屋 文化6年完成



笠岡側からの陶山氏消息:「笠岡史談会資料」住吉松濤氏(s55.11.3)

「坪生荘に、陶山氏という豪族が古くよりいたことは、寛永十六年(1635)の水野記に
 『天平二年(731)(注:天元五(982)の誤りか?)壬午陶山某、備中国高松に移住し、其の末孫十三代陶山勘兵衛坪生村を領し、正学院を以て
  菩提寺と為す、而して弘安五壬午年(1282)之を再興す云々」と記され、神森大明神の条には「天文元年(1532)壬辰陶山又次郎(藤原姓坪生
  氏)、山名理興等此辺の地頭となる』
 とあるから陶山氏が有田や笠岡を領する以前に坪生村の地頭であったことは確かであろう。

 しかし、元弘(1331)の頃より陶山氏の本流はすでに京都に居館を持ち、地方では坪生より有田を経由して笠岡に移っていた。天文元年(1532)頃
 坪生の地頭陶山又次郎は支流と考える。
 笠岡陶山氏の詳細については別途考研中であり、その出自についても不明の点が多い。
 宝暦7年(1757)石井好胤の「備中集成志」には下稲木村工ケ城(たくみがじょう)の条に「陶山氏は俵藤太秀郷後胤にて本国下野国なり、鎌倉右
 大将家より宛行(あてがわ)れける。」とあるのが出自としての文献ではないだろうか。これによると梶原景時、土肥実平に随行して、領地を安堵さ
 れたように記されているから、笠岡以前は備中高松を経て備後国坪生であったことが再考される。
 それはともかく、坪生村に住み着いた陶山氏が次第に勢力を張って、幕府や守護の統制力の緩んだをの記に武力をもって備中境を越え有田より
 笠岡へと進出して、遂に本居が笠岡となったのではあるまいか。」


☆2009/02/05 坪生公民館にて@¥500。-小冊子を購入(平成10年版 「坪生たずね歩き」by つぼう郷土史研究会)
****  つぼうの史跡  ******

坪生に残る地名: 北から仁井・才ノ谷・池平・殿辺・殿迫・カジャ・中山・青木・大塚・峠・井ノ木・狐原・江戸野・山の奥 

No 表題 事 跡 時期
01 寒森神社
総鎮守「新中八幡神社」の分裂した後の天文六年(1537)、当時の支配者の坪生氏と支族陶山氏が筑前香椎宮より勧請
創建したと伝えられる。現在の社殿は平成9年3月、本殿の屋根修理を発端に大改修をおこなったもの。香椎造りの華麗
な四方よせ棟が見事に蘇り、福山城の用材のもらいさげたと伝わる「翌檜」の木が使われている。
神社
02 おつぼう
さん
鎌倉時代の様式をとどめる墓石群で、坪生盆地を開墾・経営した坪生氏の代々墓と伝えられる。昭和2年に書かれた「坪
生村郷土史」には『大塚におつぼうさまという墓あり。坪生の地頭職の墓ならん』と記されている。
墓石群
03 新中八幡
神社

坪生荘と呼ばれた鎌倉時代から室町時代(1200-1500年ごろ)にかけての総鎮守。荘の範囲も備中有田村を中心とした
地域と引野・能島・大門・津之下・野々浜を含む13ケ村と広大であった。室町後期に坪生荘の解体とともに総鎮守も分裂
し現在は江戸野地区の氏神さまとして祀られている。
有田八
幡神社
の前身
3-1 浦上八幡
春日町にある「浦上八幡社」、天文7年(1538)秋坪生鎮守八幡社に荘園内の各村が参集し協議した。神辺城が落城
し状況変化により(能島)は御神体(阿弥陀仏三尊像と鬼鳩・鬼瓦のこと)を持ち帰えり自村に祀った。
新中
分社
3-2 五箇八幡
大門
「浦上八幡社」と同じく神辺城の落城で大門の三郎兵衛外二名が御神体を持ち帰った。が、後難をおそれ池の底に隠し
て時期を伺っていた。天文22年(1553)五箇荘が毛利から平賀領となり、烏帽子山に五箇八幡社としてこれを祀った。
新中
分社
04 仁井山
城址
南北朝時代の山城址、古記録では当時の坪生荘は反足利尊氏勢力下にあり、隣の鼓覚弁(つつみかくべん)と対立関係
にあった。この城主は「神原」・「仁井」・「坪生」氏など記録もまちまちで定説はない。石塔・五輪塔も残っている。
山城址
05 仁井の
伝大名墓
仁井城の山裾に「伝大名墓」なる標識に誘われて、杣道を歩いたが、仁井山城とは時代が異なり、無関係のようだった。
藤田家の墓所に祀る先祖墓で、水野勝成の築城した福山城の設計にたずさわった先祖という伝承と稲荷社あり。
墓石
06 西山城 坪生に残る中世山城の一つ。南北朝の頃、神原采女・和泉守が居城し鼓覚辨により亡びたと伝えられる。 山城址
07 水無瀬山
西楽寺
天平の奈良時代、行基上人の開基とされる古刹。寺伝によると弘安4年(1281)に陶山勘兵衛が再建し、初代住職には
宋からの僧が就任、宗派は真言宗で御本尊は薬師如来を祀る。
古刹
08 野々浜加
茂神社
加茂大明神の牛王版木の裏に刻されている銘文で、永享十一年(1439)巳正月五日の記年がある。備中国坪生庄と
書かれているという。
神社
09 坪生要害 清水山古戦場址、の史蹟として伝えられる。天文十六2年(1546)、神辺城を攻める毛利軍がこの地を落とし陣を敷いた。 古戦場

八幡神社について 『おもしろふくやま史』平井隆夫氏著
  『坪生の荘内の者達は、なぜ新中八幡社の神体を競って奪ったのであろうか。坪生の荘の本家は九條家である。坪生の荘に関しての文献は、
九條道家の峯殿置文(道家の遺書)が最古といわれている(坪生村史)。九條道家は藤原(北家=摂関家)良房の末裔である。 藤原氏の祖、
中臣氏は豊前国仲津郡中臣郷からでた氏族であり、天平三年(731)より宇佐八幡とつながりがある。このため、それ以後、藤原氏から代々多く
の太宰帥が任ぜられ、藤原氏は八幡神の神威を、宇佐宮は藤原氏の中央政界での権威を相互に利用し、良房の代に石清水八幡宮を勧請。
さらに良房は神威を利用し娘明子の生んだ惟仁親王(清和天皇)を皇位につけるまでに勢力を拡張した(小倉一著・八幡信仰)。以後、藤原氏は
代々八幡神を信仰し、九條氏も坪生の荘の中心的祭祀として八幡神を勧請し、藤原氏荘園支配の権威の象徴とした。
 八幡大菩薩は、悪疫退散、五穀豊穣を願う荘園内の人々の神として特に秀れ、多くの人々の信仰を集め、以後、五ケ村が共同神として宮座
を構成し、祭祀を行なっていた。この祭礼の時、宮座として座る席順は、生産高の多い村の順と決まっていたが、引野佃沖干拓が行なわれた後
の元禄検地(1699)の時、引野村の反別は一七八〇反とそれまでの上席の野々浜村の四八〇反を大きく上回ったため、引野村の農民が自村に
五ケ八幡を持ち帰ると主張し、争いが生じている。』


笠岡有田八幡神社の割られた太鼓

半分に割られた太鼓 その紹介記事 笠岡市有田の有田八幡神社
 有田八幡宮は、南北朝時代(1330年頃)に坪生荘(福山市坪生)にあった新中八幡神社が分裂したとき陶山氏により大太鼓を御神体として式内社在田神社に13ケ村の氏神として合祀された神社と伝えられている。江戸時代初期に火災に会い御神体の大太鼓は新しい新中八幡神社に預けられたが、明暦2年(1656)に有田八幡神社が再建されたとき大太鼓の返却を求めたところ紛争となり、時の水野候の仲裁により半分に割られたと伝えられている。
【掲載誌:かさおか「半分に割られた太鼓 紹介者:陶山公民館館長 惣津章雄氏】

No. 表題 Title   内容 Contents
001 坪生ガイド・マップ  画像みる    ↓
     
 
 坪生荘に残る陶山氏の「あしあと」
  

  笠岡・有田の里はその昔、「陶山村」だった。さらにその昔、平安末期から鎌倉時代にかけて備中・備後ににかけてこの地域は
 陶山氏が平家一門の武家として勢力を蓄え、実質的な支配者として蟠踞していたようだ。
 陶山一族の名前が公の記録として一般に認知されている歴史資料に登場するのは、源平合戦で妹尾太郎兼康が戦死の場面に
 兼康方の武将として陶山道勝(外の史料に記載された生存期間は1155-1232)が登場する。笠岡市史の陶山氏にたいする記述は
 「鎌倉末から南北朝のはじめにかけて、忽然と現れ、笠岡地方に勢威を振るった陶山氏も、、、、、、また、備後国坪生には弘安4
 年(1281)備中高松から移住したという陶山勘兵衛がいる。」と書かれている。

  一方、ここ坪生に残る史跡の説明板に登場する陶山氏関連の記述は、つぎのとおり。
 ①神森神社由緒  天文6年(1527)坪生氏および支族陶山氏が筑前国香椎宮より勧請し、坪生荘の鎮守として神森大明神を創祀
             した。これが即ち現在の神森神社である。
 ②新中八幡社   笠岡側史料との不一致があるが、笠岡有田にある有田八幡宮はこの坪生新中八幡社から分社した。
             その分社をおこなったのが陶山藤三義高だという。有田八幡宮の由緒書きから引用すると、
             「鎌倉時代に陶山藤三義高(1294-1333)の勧請により、坪生庄新中八幡神社より氏子十八郷の中十三郷をもっ
             て分社したものである。十三郷とは、有田、押撫、篠坂(備中坪生を除く)、入田、用之江、茂平、大冝、吉浜、
             生之浜、西浜、大河、木之目、西大戸の各村をいう。」
 ③西楽寺由緒   天平年中(729-748)行基菩薩の開創、と寺伝に記す。
             のち坪生氏の祖先菩提寺として、弘安4年(1281)支族陶山氏により再建された(福山志科)。

 この陶山氏に関する史料は残念ながらきわめて乏しく、笠岡市史の編者をしても「忽然と現れ」という表現をおこなっている。
 陶山氏に関する資料だけではなく、一般論として現代の高名な歴史学者たちが信じるにたると認める資料以外は「俄には信じ
 難い」と断じるのが正道のようだから、時代を遡るにしたがって発掘・出土・現存する歴史資料が少なくなるのだろう。
 手持ちの参考資料では、
 『天仁2年(1109) 陶山和泉守盛高は源義親を討ち取り、恩賞として備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫を賜う。
 これにより盛高の居城和泉國より備中国所領を懸持す。』
 とある。この陶山和泉守盛高が笠岡西浜に城を築き、忽然と歴史の表舞台から姿を消すのはおよそ400年後のことである。
 
  弘安4年(1281)は元寇の役という大事件で鎌倉幕府が揺れた年である。
 この年、「陶山勘兵衛は備中高松より坪生へ移住し、香化院として西楽寺を建立、翌年 正覚院を再建する」と伝えられる。
 神森神社を創建した支族陶山氏は勘兵衛の末裔であろうが、坪生氏の支族というのはどんな関係なのであろうか。
 また、西浜に居た盛高の一族との関係はなかったのだろうか。
 陶山一族に関するいろいろな情報を拾ってみたい。

002  寒森神社へつづく参道  画像みる    ↓


 寒森神社縁起を巡って
  

  天文六年(1537)筑前国香椎宮より「かんもりじんじゃ」が勧請された。
「かんもり」は土地の名前、寒森または神森が充てられた。この勧請前、坪生庄には地頭の勧請によって「新中八幡社」が祀られ
ていた。この社は社殿が破壊されその場所に小祠が建ち現在に及んでいる。

寒森神社について、『福山志料』からの引用
香椎宮の勧請時、棟札には「天文六年丁酉霜月、陶山又次郎・坪生武高という字見え再興(修理)棟札に永禄六年(1563)癸亥
正月廿八日、小早川□□朝臣高景・坪生兵部丞藤原桑高と見ゆ」高景は、隆景であり桑高は武高か。
勧請創建当初に社領10貫があり、その後に山名理興が50貫を寄進、小早川隆景が35貫を与とある。山名理興は天文年間の
坪生庄の領家であった。
小早川隆景が坪生庄の領家となったのは天文十六年(1547)元和六年(1620)の水野検地で社領は消滅となった模様。

寒森神社勧請より約六十年、坪生庄は太閤検地で二村に分かれた。
備後国深津郡坪生村と備中国小田郡篠坂村の両村となったが、この両村はその後も両村の産土神として寒森大明神を祀りつづ
けてきた。150年後の元禄十六年(1703)にその神像を共に造立した。

この神像は虚空蔵菩薩座像で、寄木胡粉造(よせぎこふんづくり)の完全なる仏像である。
光背々面は黒漆塗りで朱の筆書きの銘がある。この銘文によると、この神像は元禄十六年十月に竣工、備中笠岡遍照寺
秀遍上人・□遷宮導師西楽寺空養の開眼供養をおこない、翌宝永元年(1704)七月十六日、社殿に遷し祀った。(寒森・神森との
表記とは別の神盛と表記なり)この神像は現在西楽寺の本堂にある。

嘉永二年(1849)の再興
この寒森神社再興の棟札は現在西楽寺に保存されており、その記文によると、
再興は坪生村と下篠坂村の共同に於いて行われ、嘉永二年一月二十八日に棟上げが行われた。「下篠坂村」という呼称は公に
はなく、領域不詳の私称である。

 

003
リンクサイト 画像みる    ↓
No  Site name  Auther'sName  Coments 
001  びんご古城散策 清水山古戦場跡 備陽史探訪の会長 田口義之氏  坪生要害と小早川隆景、毛利元就の3男三本矢の一人
002  トイレの考古学 大塚土居前遺跡 財団法人広島県教育事業団  埋蔵文化財調査室
003  つぼう古道散策  ときめき「夢ひとびと」  福山から坪生まで古道を散策した記録。
004  びんご古城散策 仁井氏と仁井山城 備陽史探訪の会長 田口義之氏   この地は備後守護代太田垣氏の支配するところとなった
005  ぼくのご先祖さま K's roots 旧坪生村に多い「掛谷」姓のルーツをさぐる 
006  陶山氏 by播磨家さん   陶山氏の系譜 風雲戦国史 すごいDBです
007 備後・山陽・歴史散歩 by 備後の住人 仁井氏、神原氏が伝承上の存在、坪生氏は実在豪族だ。?
008 岡山県の城 お城のとびら 954城を制覇ちゅう~
009 石州往来・坪生~西浜~笠岡 Yagumoさん 坪生の旧跡を通って、有田~吉浜経由で笠岡威徳寺まで
010 広島近郊の山城と史蹟 by よしだっちさん 凸城跡探訪記 道ゆき写真、くるわ図、ルート図など豊富で重宝。充実サイト

2010/06/14更新 2009/02/26