写真正面の山が「一乗山城」址、その右方にみえる屋根が常国寺。
手前は福山市の水源だった論田池(ろんでんいけ)
渡邊越中守兼創建「一乗山常国寺」および「一乗山城」址
 沼隈郡熊野町上山田(現福山市)の水源池に張り出した小丘の城と菩提寺。
訪問DATE: 2009 08 26 
↓これは「唐門」に嵌め込まれた二枚一対の桐紋・鏡像

一乗山城と常国寺(福山市熊野町一乗山)説明板↓
 一乗山城は渡邊越中守兼(かねる)によって、文明から
永正年間(1469-1521)に築かれた中世の山城で、郭・石
垣・堀切・井戸などの保存状態が良く、市史跡に指定さ
れている。渡邊氏は、室町時代の初め(1400年頃)草戸
村に入り、長和荘の管理にあたったが、四代目兼の時代
に山田荘(現熊野町)に移った。初め尼子氏に就いたが、
兼の晩年には毛利氏に属し活躍した。
兼は日蓮宗に帰依し、城郭内に法華の守護神である七
面大菩薩を祀り、麓には日親上人開基の常国寺を建立
し菩薩寺とした。
以来五代(兼・高・元・景)が一乗山城を拠点としたが、
関ヶ原の戦いで敗れこの地を去った。その間、京を追わ
れた室町幕府の最後の将軍、足利義昭が毛利氏を頼っ
て鞆へ来住した時は、その警護と接待役を務めた。また、
常国寺は日親上人や足利義昭関係の遺品(常国寺文
書)をはじめ、江戸時代中期の建造物(唐門・鐘楼・番神
社本殿)が市重要文化財に、ケヤキとモッコクが市天然
記念物に指定されるなど、多くの文化財が所在する。

2009/08/27 Created
 
   常国寺は、山田村上、中、下の地頭職・渡辺越中守兼が建立したものである。渡辺氏が備後国地頭職として入国したのは、
山名宗全持豊の命であり、文明年中、越中守兼の時代に長和荘草戸村に入ったといわれている。その後、毛利元就より山田
荘上、中、下の三力村を請け、一乗山(七面山)に居城する。兼は十六歳の時、京都において日蓮宗の僧侶冒親上人に帰依し
ていた。目親は、「立正治国論」を持って足利将軍義政を諌めたが容れられず、更に書を作り鹿苑院相国のたすけを得て再び
諌めたため、永享十二年(一四四〇年)、ついに捕えられて獄に入れられた。
そこで責なべかむり苦を受け、冠舘の刑に処せられてしまった。このため、冒親上人のことを世になべかぶり冠錯親師という。 
越中守兼は、この目親上人を開山として山田荘に寺を建立した。これが光照山常国寺である。当時この地方は、山南光照寺
の勢力が強大で多くの真宗寺院が存在していたが、渡辺氏は自己の領内の寺院、民衆に対しことごとく法華の受法を強制した。
そのため、山田荘内の多くの寺院が荘外に逃れたといわれ、輌町にはこの時、山田より移ったといわれる真宗寺院がある。
  

位置図:福山市熊野町上山田

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  一乗山城縄張り図 → ClickHere
  

「唐門」寺門をくぐり石段をのぼりつめた境内への入り口にある。市重要文化財
  正面巾3.3m、一間一戸の四脚向唐門【むかいからもん】、総けやき造、本瓦葺。

 常国寺の長い石段を昇りつめたところに、唐門(市重文)が肩をいからせて迎えてくれる。本瓦ぶきの四脚門で、戸に桐紋の彫刻がなされている。現在の唐門は江戸中期に再建されたもの
といわれており、 戸に桐紋の彫刻がなされているのは、義昭が常国寺に逗留中、ここを将軍館として使用した名残りであろう。
桐紋とは桐の葉と花を象(かたど)ったもので、中国においては王者の出現を待つめでたい鳥、鳳凰の集まる木として瑞章的な紋章とされていた。わが国においても、王者を祝福する瑞鳥の
嘉木として天皇家が使用し、平安時代、嵯峨天皇が皇衣に用いられたという記録がある。
足利氏はまた自分の一門や勲功の将士にもこれを与えた。以来、織田、豊臣氏が桐紋を使用し、その臣下の多くに対しても使用を許した。桐紋は前述のように菊紋についで最も名誉ある紋
として、足利、織田、豊臣の家臣団に尊重されたのである。(引用は「おもしろふくやま史」より)