備南の島々(鞆・沼隈・田島)


 瀬戸内海の中央に位置する備後国の湊町

地名考

 
沼隈半島 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BC%E9%9A%88%E5%8D%8A%E5%B3%B6)を一部引用)
 沼隈半島(ぬまくまはんとう)は、中国地方のほぼ中央に位置し南北約10km、東西約10kmの方形状の半島である。行政上区域は福山市に属するが一部に尾道市の飛び地が存在する。
地形的には半島の東部が海岸から切り立ち西に向かって徐々に低くなっており東高西低地形でその殆どが山地、平地はあまりない。
地質的には大半が洪積層で侵食が進みやすく、花崗岩質が多いことから地形は複雑である。このため、交通の便が悪い場所が多く平氏の落武者伝説も存在している。また、山並みは単調で植生も赤松が大半であるため見所は少ないが海岸部は阿武兎や鞆の浦といった風光明媚な景色が点在している。海岸沿いの南側~東側にかけては海食崖を形成されており、断崖に近い急斜面となっている。なお、半島の最高峰はこの斜面に属する熊ヶ峰(438m)である。
半島の中心的都市と呼べるのが南東端に位置する「鞆の浦」でかつては鞆の津と呼ばれた。
瀬戸内海のちょうど中心に位置し、ために東は紀淡海峡、西は豊後水道から流れ込む潮がこの鞆沖の海域でぶつかり合う。そのため満潮と干潮との潮位が大きく絶好の漁場を形成した。また干満差が大きいことは造船業が早くから起こったこととも関係してきた。また潮待ちの町といわれ、かっては海運隆盛と港町として繁栄してきた所以である。現在は港としては衰退しているものの、文化財や歴史的町並みが多く残り沼隈半島で最大の観光スポットとなっている。



***中川美術館(中国美術コレクション)****:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8//www.amaebisu.com/introduction.html



☆2009/09/05 走島の村上水軍考
  走島は輌ノ浦の南東に浮かぶ周囲四・五キロの孤島である。福山市の鞆港から定期船が通い、海上約二五分で本浦の走島港に到着する。
桟橋からまっすぐ山の手に歩くと道路左側の馬場と呼ばれる地所に旧走島村庄屋村上太才治(たぎいじ)家の屋敷がある。
 走島は中世の頃、島の東部の唐船浦が堺と下関の中継港として繁栄していたが、地震と大津波で海底に浸し、その後無人島となっていた。
そこで新しく備後領主となった水野勝成が、元和九年に、四十三年間無年貢作り取りという特権を与えて移住者を募ったところ、村上太郎兵衛義光
が旧家臣の宮地・小林・高橋・木村とともに応募し、島の領主となったのである。彼は田島天神山城主であった祖父志摩守則宗に従って備後沼隈郡
千年村外常石の常石城に移っていたが、徳川の世になり浪人となっていたのである。したがって、島には水軍城はなく、系譜上は、因島村上氏の
亜流ということになる。
 
 鞆の鯛網漁
         走島を取りまく海を燧灘という。この海域は瀬戸内海でも広くかつ深い。海底には岩礁が広がり、全国でも若狭湾と並ぶ真鯛の絶好
の産卵地である。毎年3月になると真鯛が現れはじめ、最盛期の5月には海が櫻色に染まったという。

この真鯛の群れを一網打尽にしようと、寛永年間(1624-1643)に走島の庄屋村上太郎兵衛義光は鞆の当納屋忠兵衛と協力し、真鯛捕獲の「鯛綱」
という漁法(しぼり網漁)を考案した。
 走島の村上家は明治二十六年、鯛網漁法を詳しく絵巻物にまとめている。それによると、鯛網漁法は広い燵灘ならではの大掛かりな仕掛けで、
指揮者が乗る大手船、主力の網船二隻、マダイを追い込む葛船(かずらふね)二隻、生け簀を仕込んだ生船(なません)の計8隻と、約60人の人手
が必要だった。
鋼船二隻は末端が袋状になった全長約三キロもの網を半円形に広げる。葛船がマダイを追い込んでくると、綱船は綱を円形に閉じ退路を断つ。
そして綱を小さく縛り込み、数十人の漁師たちが「エイヤーエイヤ」と威勢の良い掛枕声とともに、長大な網を引き揚げていく。勇壮な漁法だ。
時には「一回に一万余尾を得ることがある」ほどの大漁もあった。この漁法はすぐに走島と田島(現沼隈郡内海町)、鞆の平村の漁民たちに
広まったという。

☆2010/03/22 鞆の保命酒中村屋 ⇒ 中村屋吉兵衛古文書

景色考

歴史舞台へのデビュー:「万葉集巻3」 大伴旅人の歌三首他、全部で七首 旅人は帥(天平2年(730)太宰府から都への帰途
  わぎもこが 見し鞆の浦の 天木香樹(むろのき)は 常世(とこよ)にあれど 見し人ぞなき    ⇒ 対潮楼の眼下に碑文あり
  鞆の浦の 磯の天木香樹(むろのき) 見むごとに 相見し妹は 忘れえめやも
  磯の上に 根延ふ天木香樹(むろのき) 見し人を いづらと問はば 語り告げむか
 

平安仏教の蓬着:
  大同元年(806)伝教大師最澄が建立。鞆最古の寺の名前は「静観寺」、七堂伽藍の巨大寺院だっという伝承が残るが詳細は不明。
  天長3年(826)弘法大師空海が「医王寺」を創建。空海はこの地に滞在し、祇園宮を参拝、鎮国護法の行をおこなった。
 鞆にはその後、江戸時代にかけ30を越える寺院が建立・繁栄をしたが現在では19寺にとどまるという。

 

No. 表題 Title   内容 Contents
001  「鞆の浦」観光まっぷ  画像みる    ↓
   
 
 ☆2009/09/07 鞆の浦散策マップガイダンス
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001   福禅寺(村上天皇と明子と空也)  朝鮮通信使の宿所として使用   「備後國鞆之浦観音堂之縁起」絵図あり。
002   萬年山小松寺(臨済宗)  尊氏逗留、光厳天皇の宣司を受く   清盛長子小松内大臣重盛の開基、嚴島参拝時建立
003   通盛神社(沼隈町中山南)  平家谷に鎮座、ショウブ園あり   http://www.bes.ne.jp/bingo_e/midokoro/tubaki108.html
004   安国寺(旧臨済宗金宝寺という)  本尊は「阿弥陀三尊像」  尊氏の開基、暦応2年(1339)説に先行する諸仏あり
005   山中鹿之助首塚  播州上月城で敗北、首は鞆へ   天正6年(1578)
006  海潮山磐台寺観音堂(国重文)  通称「阿伏兎観音」口無しの瀬戸   慶長12年初回朝鮮通信使の間で景観評価が高まる
007 沼名前神社(能舞台とおてび) 創建は仲哀2年、元国幣小社。 通称、鞆祇園宮。御神体は大綿津見命と須佐之男命
008 田島 奥の坊 高倉上皇の松 治承4年(1180)嚴島御幸の故事 沼隈郷土文化勉強の会


   平家が色濃く残っている場所がある。鞆の西隣の阿伏兎瀬戸に面した湾岸の土地を能登原という。(平氏武勇の華、能登守教経のりつね)
 にちなみ矢ノ島・平などの地名が残る。この瀬戸を口無しの瀬戸という。識名には嚴島参拝が盛んで皇族・貴族たちの逗留の記録が残る。
 その後、鞆の町が隆盛をきわめるのは元禄期(1688-1703)だと云われる。(平家ゆかりの地

 特に寛永12年(1672)西廻り航路が改良されて、日本海沿岸の物資が瀬戸内海を通るようになってから鞆港の重要性が増した。
 奈良時代からの伝統である刀鍛冶の技術が船具・漁具などの新たな産業として発展し、鞆には約二十軒の鍛冶屋が集められた。
 鞆遊郭の繁栄 ⇒ (サイト内リンク) ClickHere
002  内海町田島「常楽院」境内より横田湾(横田港)の眺望  画像みる    ↓

常楽院
 田嶋村上氏の繁栄

   沼隈半島に寄り添うように浮かぶ二つの島は田島・横島という。
 鞆之津から舟出して沼隈半島を西に行くと最初に見えるのがこの田島だ。常石識名へと続く水路の入り口が狭く、遠くからは見え
 ない ところから本土と田島との海峡部を「口無しの瀬戸」(阿伏兎瀬戸)と呼ばんできた。写真の横田湾はその水路とは反対側
 に当たり、南 面した瀬戸内海が広がっている。中央に浮かぶ島が百貫島の向こうは四国伊豫の国である。
   此の地に天神山城を築いて治めたのは因島村上水軍と伝えられる。
 
<天神山城の城主記録>(「内海町誌」より引用)
 村上四郎吉則        正長元年(1428)田島地頭職に補任される。
 村上四郎左衛門      田島宮丸の持主。文正二年(1467)には千石船を所有。
 村上美濃守義雄       明応年間(1492-28)在城後、常石に移り田嶋を名乗り、神石郡上野村へ移る。
 村上左近太夫範和     大永年間(1521-28)在城。弘治元年の厳島合戦に毛利方武将として出陣。
 村上叉右衛門元常     又右衛門就常の父。
 村上又右衛門就常     永禄六年出雲津田表攻め、同白鹿城攻めなどに戦功あり。永禄十二年周防布部城攻めで討死。
 村上加賀入道尚吉     天文十二年の『渡唐船法二十八ヶ条』掟書の著名人、加賀守源朝臣沙弥は尚吉のこと。
 村上弾正左衛門義則   天文二十年(1551)まで在城。常石へ移り田嶋と称す。後対馬へ移り子孫田嶋監物と云う。
 村上四郎左衛門尉     弾正左衛門義則の嫡子。永禄中(1558-70)対馬へ退去。
 村上志摩守則宗      天正年中(1573-92)まで在城。常石へ移り、孫の太郎左衛門義光は走島へ退去
 村上八郎左衛門景広   備中笠岡城を兼帯。関ケ原後は細川藩、屋代島等へ移住、田島常楽院に墓塔がある。
 村上義満          天正十年(1582) その名が見える。
 村上又七郎         天正十五年(1582)、毛利方として九州宇留津城攻に出陣している。
 村上又四郎         宇留津城攻めに出陣。分捕の功あり。帰国後、佛徳山を再建。
 村上右近太夫和員 慶長五年、村上元吉と共に伊予松前城攻めに出陣。松前城代佃次郎兵衛の夜襲を受け、元吉ともども討死。

 田島村上氏と笠岡城主との関係上、想像以上に両地域は密接な関係にあったと思われる。また対馬との交流があることは村上氏
 が対明貿易など、海運業として活発に活動していたことをうかがわせる。


☆2009/08/26 常楽院を訪ねました  ⇒ ClickHere
  
 

003
熊野町「一乗山城」から見えたであろう山田村の鳥瞰(水源池堰より眺望す)

常国寺
常国寺と足利義昭
 
 南北朝~室町時代に国内動乱を迎えた中世ニッポンを思い描こうとするとき、ここ沼隈半島が大きな位置を占めていることが解る。
第十五代将軍足利義昭が信長との合戦に敗れて、京を落ち紀州に潜み、西国の雄毛利輝元を頼って鞆の津に辿りついたのは天正
四年(1576)二月八日のことである。側室の春日局とわずかな側近を引き連れて小松寺に入ったという。
その後、鞆城に入り、居館はその近くに申明亭を設け鞆幕府を開いた。また渡邊兼の居城である一乗山城や安国寺阿弥陀堂などを
転々とし、福山市内深津の蔀山や津之郷に御座所を設け、逗留したと伝えられる。
義昭が再度帰国を果たすのは信長の死後、秀吉との和解を受け入れ、天正16年(1588年)、薩摩の島津氏が秀吉の軍門に下った年
である。義昭はついに征夷大将軍を辞して出家し、昌山と号した。朝廷からは准三后の待遇を受け、秀吉からは山城槇島において
1万石の領地を認められた。晩年は斯波義銀・山名豊国らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。
貴人として生涯をまっとうした。慶長2年(1597年)、大坂で死去。享年61。


☆2009/08/26 常国寺&一乗山城を歩きました  ⇒ ClickHere
  


渡邊一族の系譜
2009/09/06