應神山南麓の小径を富岡から絵師へ東行、観音堂を見つける
 子字「古坊」(ふるんぼう)を訪ねて、富岡会館から鵜ノ池へ歩く。
訪問DATE: 2010 03 15


 

津田白印『甘露院』跡(本林寺跡) 東庵に在る観音堂 富岡浜街道から見た観音堂

(観音堂から見る「鵜ノ池」)
「戴いたメールの要旨」 2010/03/01
 富岡の地名について、「古坊(ふるんぼう)」を月性庵のことかと推測されていますが、昔、私が父から聞いたのは、もっと東の絵師との境、現在、小さな観音堂が立っているところあたりとのことでした。古い瓦の欠片が畑からでるようですよ。
 應神山の山裾の道は現在の旧国道が出来る前は、南回りで絵師と笠岡を結ぶ唯一の道だったと聞いています。それで、この道沿いに観音霊場の祠があるのでしょうね。
冨岡の月性庵のある辺りは「東庵」、と今もいいます。甘露院があった場所は浄心寺末寺の本林寺境内で、あの附近が中庵、因みに、土地の古老に聞くと、現在の吉祥院の場所を「西庵畑(にしあんばた)」といっていたそうです。
 吉祥院は江戸時代初頭(1631年)に秀算和尚により笠岡駅前に創建されました。
先住は、「古坊」に吉祥院の前身になるようなお寺があったのではないかと推測していたようです。
証拠はないのですが、絵師、馬飼、広浜地区は殆どのお宅が吉祥院の檀家さんであることを根拠にしての推測だと思います。
これらの地区には金剛院(絵師地区。今は長法寺管理。建物現存)や建物が失われたものの、過去帳には存在が記された末庵がいくつかあったようです。それらは比較的新しいようなので、吉祥院の前身とは考えにくいと言うのが父の持論でした。


2010/03/16 Created
  「富岡古坊考」 (とみおかふるんぼうこう)
 
 富岡は江戸時代に水野藩がおこなった新田干拓の埋立工事によって誕生した村である。延宝2年(1674)に横島・孫治端と本土をつなぐ土手
が完成、翌延宝3年(1675)卯の年には鵜ノ池が完成した。延宝5年1677)には鎮守として「七面大明神」が祀られた。現在の徳民於賀神社だ。
一方現在富岡にある「吉祥院」の創建は寛永八年(1631)、秀算大和尚によって笠岡市内仁王堂町に在ったが昭和51年に現在地に移転した。
「吉祥院」の本寺は「遍照寺」でこちらの創建は定かではないが八世紀初頭に吉田村に創建、その後元弘年間(1331ー34)に陶山藤三義高が
笠岡に城下町を築くに当たり、この寺を町の中央に移転した伝えられる。
「吉祥院」の先代の御住職が思い描いたように「吉祥院」は富岡東庵の観音堂あたりに在って、笠岡仁王堂へ移転し、さらに現在地へ移転とい
う変遷をたどってきたのではないか、という説について考えてみた。
その根拠となる物的証拠(古文書等の歴史的な史料)はないが、いくつかの状況証拠は揃っていると思う。
1-先代御住職の史観
 a- 観音堂のある附近(小字は「古坊」)から古瓦などが発掘される。⇒「岡山県全県統合GIS」のデータベースには次ぎのように記述されている
   「鴻ノ池北側。山裾部の南向き緩斜面。土器などが出土、鎌倉,室町の遺跡。さらに絵師にかけての裾野には古墳もあり、土器など出土」
   笠岡~伏越~大磯の海岸線の南麓からは全く出土せず、鵜ノ池から東にかけての地域に限定されている。つまり鵜ノ池北側地域は先進
   文化ゾーンであったことが考古学的にも立証されている。(直接的に吉祥院のルーツに結びつくものではないが、、有力な状況証拠です)
 b- 絵師、馬飼、広浜地区は殆どのお宅が吉祥院の檀家さんであること。(メールの本文に書かれたとおりです)
2-今回歩いての補足事項(筆者の勝手推測)
 c-「大磯」という小字は旧笠岡村~富岡村~絵師村の三村に亘って東西につづく字地である。また、「古坊」の字地も富岡村~絵師村の両村
   にまたがっている。このことは大磯・古坊という地名は江戸時代よりず~と古くから呼ばれていた土地の名前だと想像できる。
   江戸期の村管理によって「大磯」と「古坊」は切れ切れになったが出土する土師器とおなじようにもっと古い時代の土地命名の事実をを主
   張していると理解する。
 d-絵師には「毘砂田」という小字がある。鵜ノ池のすぐ東側あたりである。
   この地名は吉祥院の御本尊が毘沙門天であることを考慮すると、かっては寺の所領であった名残りではないかと思わせる。毘沙門田の意。
  絵師には「大歳神社」があるが、笠岡以西には大歳・太歳などの神社が見当たらないことを考慮すればこの辺りには毘沙門天信仰があって
  神社などへの影響を与えていた可能性がある。百足・閻魔大王などに関連する伝承がこの地域には残っているかもしれない。
 f-富岡地区には「月性庵」(創建は慶長11年1606)・「本林寺」(創建は不明だが本寺の浄心寺は天正19年(1591))の二宇があったようであるが
  「古坊」なる小字の位置が二寺の場所よりさらに東寄りであること、また「古坊」とはこの二寺よりも古い~という命名であったのかも知れない。

以上の状況証拠から吉祥院=前「毘沙門寺」は鎌倉~室町の頃に應神山南東山麓にあって、遍照寺の移転時期と相前後して笠岡市内に移され
た、、、という前御住職の仮説は信憑性が高いと思う。今後、陶山一族との関係などから鎌倉・室町時代の新たな発見に期待したいものである。
最後に今回は富岡側から絵師の入り口までの歩きであったが、次回には逆方向で絵師・広浜~富岡・笠岡へ歩いてみようと思う。
なお帰り道の県道に石造常夜灯が一基あった。金比羅宮と吉備津宮への村中寄進、記年号は天保13年(1842)。舟というより陸用の誘導灯か。

位置図: 笠岡市笠岡(富岡古坊)

 <笠岡・富岡サイト内・リンク>

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歩きのメモ
(写真1枚目)
 左端写真の旧甘露院石垣の前の小径が幹道である。今回は「富岡会館」まで車で行って、その駐車場から歩きを選択。この辺りを中庵という。
(写真2枚目)
 歩きはじめて200mで「月性庵」に当たる。
同寺の境内に西国33観音、第六番札所奈良壷阪山「南法華寺」が祀られている。真言宗で眼病に霊験あらたかと云う。ここからさらに200m、目指す観音堂がある。こちらは第十四番札所、滋賀大津市円城寺町の「三井寺」を祀る。宗派は天台宗、御本尊は如意輪観世音菩薩。
(写真3枚目)
 鵜ノ池を過ぎて浜街道に下りると観音堂が応神山の中腹にぽつんと建っているのがわかる。
道路には当時海水が打ち寄せていただろうからお堂の位置が海を見下ろす適度の標高だったであろう。その位置から鵜ノ池~毛野無羅山を見た風景がこの右上の写真。
鵜ノ池は護岸補強工事中であった。