富岡村の徳民於賀神社


大字大磯・山畑・禿山・焼山・古坊以外は新田地番

地名考

備中国小田郡富岡村:市史からの抜粋『皇国地誌』(明治9年)

 本村昔時ヨリ本郷ニアリ漁渚郷ニ属ス天和年中海ヲ填シ開墾シテ田ト為ス以来本村ノ称ヲ用ユ。
 地勢: 北タ山岳ヲ脊ニシテ南ミ平田ニ面ス西南海ニ臨ミ東宏豁中央土地担夷、運輸ハ便ニシテ薪炭ニ乏シ。
 山:   小松山 高サ直立六十丈本村ノ北ニ在リ、嶺上三分シテ西ハ笠岡村ニ属シ東北ハ繒師村ニ接ス、山脈地内ニ崛起シ笠岡応神山ニ接ス。
      全山禿童ニシテ頂上一株ノ喬松アリ。
 堤塘: 汐除堤 海岸ニ沿ヒ本村西南ノ間ニアリ。南横島村界ヨリ本村ニ接ス、長サ三百六十間馬踏弐間堤敷十八間水門壱ヵ所、修繕費用惣而官ニ属ス
      清水川提 同川ニ沿ヒ本村ノ東ノ方ニアリ北今立村界ヨリ南入江新田ニ達ス長サ千三百間馬踏壱間堤敷三間、修理費用皆民ニ属ス。
 人数: 男四百七十六人 女四百六十二人 総計九百三十八人
 寺:  本林寺 面積三畝歩本村ノ北ニアリ浄土宗笠岡村浄真寺末派ナリ開基創立詳ナラズ

 社(やしろ) 徳民於賀神社

 拝社地面積壱反九畝三歩 本村ノ西ニアリ、祭ル神大国主命、老松林ヲ為シ髯甲夭矯タリ、本村ノ氏神ナリ
 
富岡新田:

福山藩が東端の海岸線からその沖合いの横島に向けて東西二本の防潮堤を築き、約40町歩海面干拓をおこなった。
この工事の完工は延宝2年(1674)で、東堤は江志(絵師)村の旧干拓堤防西端から元東中校門まで直線で結び、そこから東へ張出して横島の孫治鼻へ
結ばれた。西堤は富岡神社の下から南へ一直線に横島まで、その南端に排水樋門が設けられた。
西提は沖からの荒波の当たりがきつく工事が難航、お七という娘を人柱にいれてようやく工事が終わる。
その後、強い風浪で堤防が危なくなるとお七の亡霊が現れて堤防の上を行き来したという伝説が生まれた。
灌漑用のため池に絵師に「鵜の池」(延宝3年卯の年に完成)、馬飼村に「割石池」を作った。

延宝5年(1677)鎮守として「七面大明神」が祀られた。
創建時の棟札に本社寄附施主として、上田玄バの家臣4名が名前を連ねる。

その後の富岡干拓完成は昭和33年(1958)


☆ 2008/08/29 「とみおかの歩み」 by 田中舜二氏著
 富岡は吉浜(寛文元年[1661]完工)、生江浜(寛文10年[1670])に続いて水野藩主水野勝種(初名勝慶)の時代に造成された干拓地に立村したと伝えられる。明治九年の富岡村誌には「天和年中コレヲ開ク」と書かれていたのが唯一の手がかりであった。
その後、富岡地区の高橋注連吉氏宅に残る古記録が発見され、延宝二年(1674)に造成されていることが判った。高橋家は藩名により代々樋番を勤めた家で、村差出明細帳にも初代高橋六右衛門の記録が誌されている。富岡新田は水野藩家老上田玄蕃頭の知行として干拓されたためか詳細記録が残らず、前記高橋文書によると鍬初めが延宝元丑年(1673)四月二十五日、成就が延宝二年(1674)の僅か1年の工事として誌されている。
富岡新田の普請奉行は本庄重政、松永の塩田造成で有名。彼の土木技術は定評があり水野藩の前は池田光政に仕えたこともあるという。彼の死は富岡新田の完工の二年後、延宝四年(1676)に70才で病没した。
 新田はその12年後、天和二年(1682)の検地で石盛りが決まった。最初の村高は百九拾石五合、しかしこの「備中国小田郡富岡村御検地々詰帳」は発見されていない。天保九年(1838)村差出し明細帳では村高貳百廿六石三斗壱升貳合。



富岡鵜ノ池(子字:古坊):
 延宝二年(1674)、富岡土手の築造によって富岡新田が造成されてその灌漑貯水池として築堤された。延宝三年乙卯に造られたので、「卯の池」と
言われたが、いつの間にか卯が鵜に変化した。「元禄検地帳」に「鵜の池 86間 x 62間 一町七反七畝二十二歩」とあり、今井地区内で最大の池面
を持つ。 「古坊」とは 高野山派真言宗「富岡山月性庵」のことか? ⇒ ClickHere   鵜の池訪問 ⇒ ClickHere

☆2010/03/01 「古坊」は「富岡月性庵」にあらずとのメールをいただきました。 その顛末 ⇒ ClickHere
         メールは吉祥院のご住職からでした。      ⇒ 吉祥院 ClickHere 
 



「小田郡笠岡町大字富岡、「甘露育児院」:
 明治33年(1900)、白印38才のとき、本林寺(笠岡市富岡)の境内の建物を借りて、孤児らを受け入れる施設を創設した。
「甘露(かんろ)育児院」のいう私設の孤児院の誕生である。創設者の名前は津田白印、笠岡市内の浄土真宗本願寺派の「浄心寺」の住職津田明海
(めいかい)の二男として文久2年(1862)に生まれた。 → ClickHere


小野氏産土神社 「八幡宮」(応神山:中腹に鎮座) 、、、、、笠岡城主村上氏に仕えた物見役伝説 ⇒ ClickHere

景色考

徳民於賀神社位置
 
 本社は笠岡の街から濱街道を西に沿って歩き、大磯を過ぎると道が北に折れて富岡に入る。この道の北方の山裾に南向に鎮座されている。
参道への取り付け道路は狭く、民家の間の路地まがいの細道を北へ歩くと鳥居があり、そこからは石段がしつらえてあり昇るとまっすぐ本殿へつづく。
その境内は思いの他広く森閑とした空気が心地よく緑がいっぱい、陽光をさえぎって鬱蒼としている。境内別社は本殿浦に荒神社と金刀比羅宮が建っている。
また不思議なことに、もう一方の参道が東へ伸びて、歩いていくとここにも立派な鳥居があった。こちら側が表通りで昇ってきたのが裏参道かもしれない。
この鳥居の表には「七面大明神」と刻銘されている。同一神社が刻銘異なる社額のかかる二基の鳥居を持つ意味は一体何だ?
この神社の創設は富岡新田の完成時期と重なっている。その西堤防工事は難航を窮め、何度も決壊し、鎮魂のために人柱まで捧げたという伝承が残ってる。
日本の「七」という字には暗い陰の部分があるらしい。真偽はともかく「お七さん」とのかかわりあり「徳民於賀」という文字からも魅力的な神社である。

 七社神社についてhttp://kamnavi.jp/log/yumv0301.htm
 、【七社神社】は福島県以南で72社表示されます。5社以上の県は、新潟、岐阜、長野、静岡、福岡、鹿児島です。このうち福岡県を除く5県などでは、祭神を1柱とするところが目立ちます(大己貴神、大山咋神など)。

 『柳田翁の『賽の河原の話』では、越後の国上山の近くに賽の河原と呼ばれた場所があり、七面明神が出現した地だとあります。「七人ミサキ」とか「七人塚」などの不幸な死に方をした霊と元は関係があったのかもしれません。悪七兵衛平景清も、名に「七」があります。七は葬式や供養の関連でよく意識される数でもあります。
 七社神社には、七つの社を合祀したためにその名となっとのも少なくないわけです。
 「七福神」は江戸時代以降の神のようですが、「七軒百姓」といふ伝承が各地にあり、村の草分けとなった家が七軒だったとされる話で、なぜか七の数なんだそうで  す。』

☆2008/06/24 七面大明神の移転先
 
この日午後、七面大明神の鳥居をくぐった。ゆるやかなスロープを上ると右側に遊園地がある。この遊園地の花壇を独りで草刈をしている人と話
ができた(s19生男性)。最近の若い人は信仰心もないし公共心もない。神社の手入れなんかでようともしないし、氏子の務めに振り向きもしない。
違約金2,000円だというと、簡単に払うという。困ったものだ。この地域だけでもないようですよ、と相槌をうちながら懸案の質問を投げかけた。
「同じ社に何故二通りの鳥居があるのか?」
答えは簡単だった。「干拓工事終わった後、七面さんは線路の向こうに移転した。」
江戸時代の富岡干拓で人柱の犠牲になったオヒチさんを祀ったお宮さんだという。その移転先を聞いて、さっそくでかけた。 ⇒ 移転先へClickHere


☆2009/09/27 和霊神社の勧請について、、、、聞き取り情報
  富岡で廻船業を営む徳太郎さんという方が、明治時代に船舶の航行安全を祈念して宇和島から「和霊神社」を勧請し、富岡踏切の辺りへ祠を
 建てた。 その後、現在の位置に移転したという。従って、七面神社と和霊神社とのつながりは全くないようだ。


☆ダルマ堂薬局のシンボル、ダルマ像顛末(2010/03/13))
 冨岡の浜街道にはかって「ダルマ堂」のダルマ像が屋根から通りを睥睨していた。
 瓦葺きの屋根に脚を踏ん張って、雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズじっと空を見上げていた。 ⇒ ClickHere
 ダルマ堂薬局の開業は大正九年(1919)、爾来ざっと九十年、平成20年6月初旬に家が取り壊わされた。 ⇒ ClickHere
 2009・6.26 ダルマ像は笠岡東公民館に収納された。 ⇒ ClickHere

No. 表題 Title   内容 Contents
001 徳民於賀神社につづく濱街道(旧国道2号線)  画像みる    ↓
     
1-樋守からくる道の交差部に立つ道標

2-その辻に残る医院跡?
いえいえそこは交番でしたよ


3-達磨の商標ダルマ堂

4-ダルマ堂はクスリ屋だったとか


2009/06
達磨堂は
取り壊し
となった
(更地化)


達磨像は東公民館に保存された。
 
 濱街道に軒を連ねる家々は店舗を構えて賑わっていたらしい。
この道筋で21世紀の現在まで店を続けている家はごくごく少数、昔ながらの店の構えと品揃えで店の風格がひときわ強烈な個性を放っている。
むかしの米屋・薬屋・箪笥屋・竹籠屋・畳屋・金物屋・駄菓子屋・一杯メシ屋などの商いを支えていた人々は消えたし、店を支えるお客も消えた。
 絵師からきているこの道を手前にむかって逆戻りをすると、大磯・真角・伏越・八軒屋町・石橋町・西本町になる。
通りに名前を付す風習は古代よりあったし、海外でもストリートという有名な街路がある。

☆2009/09/27 富岡の町区分について、、、、聞き取り情報
  富岡の浜街道は3区分になっていた。この写真の辺りは西組で交番のある道しるべの交差点より常夜燈のある区間が中組、そして常夜燈
 から東を東組と云った。また大磯と富岡の境界は吉祥院の東にある應神山からの沢をもって西が大磯、東が富岡とした。江戸時代の水野藩
 だった頃、富岡地区に水野藩が井戸を三本掘ってくれたそうだ。その位置までも聞かなかったが、いまも使われているらしい。

002  南面する徳民於賀神社の鳥居と正面拝殿  画像みる    ↓

5-拝殿に見えるシビ瓦

6-境内別社

7-本殿葺替えで出た不要瓦?

8-境内より南眺望

9-五角柱地神
(ただし五神の名
前はなし)

  「岡山県神社一覧」によると
『創建は延宝2年(1674)、福山藩家老上田玄蕃が七面大明神を勧請したと云われている。富岡新田ができてから、富岡村の誕生
は天和二年(1682)と記録されている。明治初年の神仏分離に際し神社書上帳に初めて德民於賀神社の名前が見える。
主祭神:大国主命 境内:1,252坪 主要建物:本殿・幣殿・拝殿・御輿倉 境内摂社:御歳神社・素盞嗚神社・金比羅神社』

境内には「三百年記念」の碑があった。300年記念は1977年、昭和52年に建立なので引き算では延宝5年(1677)の創建で富岡
干拓が完成した延宝2年(1674)の3年後となってしまう。
前述の縁起では富岡干拓の完成に併せて水野藩筆頭家老上田玄蕃が七面大明神を勧請し創建したとある。人柱伝説の残る犠牲
者となった「お七」と「七面大明神」(神体はふくよかな女神で吉祥天、龍女、天女などと呼ばれて日蓮宗との関係が深い)と関係を
連想させるが、ご神体の「大国主命」が祀られているのは何故であろうか。
また、徳民於賀神社なる社名は明治になって以降に「笠神社」の立神宮司が命名したという話を聞いたが、真偽のほどはわからない。
鳥居が二種類あるように、何故に二重の命名をおこなったのであろうか、謎の多い社である。
正面参道 百度石の隣の手洗には享保十九年(1734)平井弥七郎寄進の銘がある。

富岡小学校は(村の小学創立は明治六年、場所不詳)昭和時代この神社に隣接して建てられていたが、学区再編成により中央小
学校緯に吸収されてこの場所は廃校となり、その跡地には卒業生・有志・篤志家たちで記念碑が建立され公園として整備されている。

☆2009/09/27 本殿に祀られているお七さん像について、、、、聞き取り情報
 神社の秋の縁日にはこの像がご開帳になるという。像の材質・形状などの詳細は不明。
 お七さんは公家の出の女性で、毎年決壊する樋守の土手の人質となるために京都から富岡に来たという説を聞いた。

☆ 2008/08/29 「とみおかの歩み」 by 田中舜二氏著
   棟札① 延宝五丁巳年(1677)九月吉日 福山長久山妙政寺中興五世法乗院日登
   (裏書)上田玄蕃頭の内 藤山勘之丞 榎本与右衛門 須田九郎右衛門 渡部曽平
   御神体裏面墨書(立神家の記録より)
   「南無七面大明神」   為備後国福山長久山妙政寺鎮守日任奉勧請之、明暦三年丁酉(1657)五月吉祥日
   また厨子の裏に   京都六条住大佛師畑三良佐衛門 施主 当村住人三宅八左衛門
   棟札② 安永九庚子(1780)天仲秋吉辰 妙乗精含日仁之を誌す
    福山妙政寺より笠岡妙乗寺への管理委譲があり、明治まで別当職は笠岡妙乗寺が任ずる。
    享保五年(1720)より立神家が神官を務めたが、本社運営は別当寺の権限であった。
   棟札③ 拝殿再建は正徳五年(1715)の秋、
    更に、寛政十一己未年(1799)天初夏十四日棟上 庄屋 三宅八左衛門(この棟札は現存)

003
東面する 七面大明神 画像みる    ↓

9-境内より七面鳥居の参道を見る


10-参道入り口の巨石お堂

このお堂↓
「笠岡ふるさとガイド」(笠岡市発行)を読んで新たな事実を発見!
下段に追加です

 濱街道から巨石お堂の道を左折:

徳民於賀神社への参道より七面さんの参道がはるかに広いし、わかり易い。

同一祭神の同一社宮で異なる名称の命名への素朴なる疑問。

同一異名となった理由は、おのおの用途がちがうから二つの名前を名乗らざるを得なかった。ここまでは理解できる。
徳民於賀神社でないとまずいケース、また七面神社でないとまずいケースとはどんな想定なんだろう?
疑問の2。富岡ではなく「徳民於賀」の異字にこだわる理由。
徳ある民を賀する場所⇒徳民於賀神社 地名とすれば全国規模で非常にレア(個性的)だ。でもこの文字つづりは神社の名称でしか登場しない。
きっと何か理由があったはず。

☆ 2008/06/24 七面大明神は移転されました。 ⇒ ClickHere(和霊神社)

和霊神社の祭礼
  2008/07/23 (Wednesday)夜、どこからか神主さんが来て祭事をおこなっていたとのこと(詳細には興味なし)。
  話を聞いた女性(t14生)は金魚掬いの網をタダで貰ったけど、すぐ破れて一匹も掬えなかった。ホントは地区の子供へのサービス
  としての催しなのに、、、、と愉しそうな笑顔で語ってくれた。

☆ 2008/08/29 「とみおかの歩み」 by 田中舜二氏著
   この鳥居は東参道二ノ鳥居。 大正十五年建立
  富岡神社は明治以前には七面明神であった。(富岡を徳民於賀と書いたのは笠神社の立神宮司とか) 富岡新田完工の三年後、
  延宝五巳年(1677)に創建された。開発者上田玄蕃によるものと考えられる。
  
  
004 明和の小作騒動義民の慰霊碑(このお堂の正式名称は「辻堂」、文化10年1813村差出し明細帳に堂内に地蔵尊を祀るとの記載) 画像みる    ↓

西本町
 天神社
(天満宮)
明和の小作騒動:fm「笠岡ふるさとガイド」 Original:「小田郡誌」「故田中舜治氏資料」

『明和7年(1770)この年は前年にひきつづき天候不順による凶作で各地で百姓一揆が頻発、笠岡代官所でも布告をだして
徒党・強訴・逃散などの厳禁通達をおこなっていた。

8月になり福山東部の村々で起きた百姓一揆に刺激され笠岡村の小作人らが連合して地主に対し種麦の供与を強訴しようと計画した。
村役人たちが中止を説得したが聞き入れず、9月8日西本町天神社に百余人が集まって密議し、十一日に仁王堂町に集合して地主宅
へ押しかけようとしたところを代官所によって一網打尽に捕らえられた。

二年後の明和9年6月11日、判決がくだり首謀者の百姓久兵衛と水呑百姓儀兵衛に斬首、水呑百姓9人(連絡に触れ廻り役)
が処払い、その他連累者一同には過料10貫匁が課せられた。この事案を裁いた代官が第26代野村彦右衛門。
刑の執行は6月13日、死罪の二人の処刑は大磯の葬斂(そうれん葬式)場でおこなったと伝えられる。

二人の刑死の後、義民の死を悼んだ地福寺の栄厳和尚が願主となって刑場の後へ一基の供養墓を建てた。
現在は富岡会館の上り口に移転されて祭られている。』

☆2008/07/04 この史実におもうこと。

1-義民・慰霊碑・悼むなどの字句から推して当時の争議は鎮圧側よりも被鎮圧者たちに同情する世論があった。⇒処刑後に慰霊碑が
   建つのは幕府の決定に「異議あり」の抗議表明行為になったのでは?
2-福山側の刺激を受けたという事案の成り行きは芳しい方向への収束だったかどうか?
   (挫折or鎮圧されたのであれば真似る価値はないだろうと、、、) もっと詳しい情報が必要。
3-当時大磯には処刑場があった。⇒斬首刑執行とは異例のことであり恒久的なものではなくて臨時的な施設であったろう。
  当初の慰霊碑は地福寺の境内ではなく刑場にあったと伝えられていることからもわかる。
4-100余人の小作人を有する地主とは誰のこと?
5-密議者たちへの場所提供者となる「天満宮」側にはお咎めなし。 ⇒ 常駐宮司はいなかった可能性あり
6-このお堂の瓦文様はまたしても「戎紋」(三つ巴に外側の星の数は10個)

☆2008/07/06 供養塔は地蔵尊の下、お堂は「観音堂」だと教えられて再見聞。
 図書館に立ち寄り、昭和15年発行の「増訂小田郡誌」を借りて記事をさがす。
江戸時代の平穏な笠岡にとっては大事件だろうから、、、、ちゃんとあった! が、その記述は市史の記述と若干ちがっていた。
事前協議の役人側のメンバーが克明に記録されていたこと、首謀者のうち義兵衛は「准首謀者」と記されていた。また、
供養塔建立の経緯、郡誌では処刑された百余名以外で、
『外にこの暴動に参加せざりし故を以て、賞詞を受けたるものに、平七、喜助の二人あり。
後年に至り死罪に処せられし久兵衛、義兵衛二人の冥福を修する為に地蔵尊を作りしが、後移転して現今富岡にあり』

つまり、地福寺の住職の名前は出てこない。
郡誌に記された平七と喜助は賞詞を受けたというのも新たな情報だ(いま様にいえば、彼らは当時の内部告発者?)。
で、現地で碑文を調べてみた。↓
 
 お堂は観音堂だと教えてもらって、格子戸の奥をのぞいてみた(写真:観音堂内部)。
小さい石像仏が並んでいる。中央には「大仙大権現」、その左が「弘法大師」、右どなりに「如意輪観世音菩薩」、さらに3仏を
両側から寄り添うように無名の像が左右に1体、更に左端には首だけの石仏(?)
斬首を連想させるようであまりに生々しい。(わたしの見まちがいかもしれない。。。。。。)

お堂左側に鎮座する地蔵尊は台座の上にござらっしゃった(前回は見落とし!)写真:供養碑塔
その四角い台座石に刻み込まれた文字は、
 正面 「願主 地福寺栄厳」  裏面には戒名か?「旭山照空理諦信士」
 側面西側 「俗名 仁王堂町久兵衛 明和九壬辰天」 東側 「六月十三日 俗名 川部屋町 義兵衛」

供養塔の日付と処刑日が同じ日になっている。
郡誌には後年に至り云々とあるので、処刑即建立というわけでもないだろう。地福寺のご住職栄厳上人の在職年次を尋ねてみれば
新たな事実が出てくるかもしれない。

☆2008/07/24 富岡在住のFさん(s10年?男性)からの聴き取り。
 『明和騒動のお地蔵さんについての詳しい話はわからない。
 あそこの観音堂は近くの人でお祭りをしてるのでその人たちに話しを聞けば詳しいことがわかるでしょ。
 ただ、大磯に刑場があたったという話は昔からの伝承で聞いている。應神山から降りてくる小道のあたり、あの坂道の上の方に
 あったらしい。』

 笠岡市史 資料中巻 P245 『治安 文書番号72 種麦事件顛末』にHit!
 明和7年(1770)~明和8年(1771)笠岡図書館蔵 「備中国小田郡笠岡村之内百姓騒立候一件」
 闕所(けっしょ)の刑なるものがあり、死罪を申し渡されたお二人は、更に家財は闕所(没収)となった。
 久兵衛さん65才、儀兵衛さん51才、共に処刑されたのだが、捕縛された年の11月末日に久兵衛さんは重病で出牢し翌年の六月
 廿七日に再度入牢、同じく儀兵衛さんも十二月二十一日重病にて出牢し翌年六月二十一日に入牢している。
 所払の処分となった9人を含め水呑み百姓の肩書きではないのは久兵衛さんただ一人。
 高齢でもあるし、統率力もあるし、分別もあったであろう。この事件のおよそ60年後に大阪で勃発する大塩平八郎の騒乱を想起させ
 る時代の体制への義憤による抗議行動事件だと思う。

観音堂
  内部


供養碑塔
(正面)


同裏側


〃 西面
更新⇒2010/08/29 08/07/25