高島(笠岡諸島) 訪問日:2010/09/27


「笠岡市史」は無土器時代の明地島出土品の記述から始まる

地名考

高島の無土器文化 by 『笠岡市史』を参照
 「笠岡の歴史は今から一万数千年前の旧石器時代に始まった。昭和二十八年に明地島で旧石器人類の遺物
が鎌木義昌によって発見された。」 笠岡市史全編八巻の記述はここ高島の沖に浮かぶ明地島から始まる。
縄文時代は16,500年前~BC10世紀の時代区分なので、それよりは前の時代に人はこの場所に住みついていた。
明地島の標高50mの稜線部からサヌカイトを加工した旧石器時代の石器が出土された。これらの出土品はその
後の時代の縄文~弥生まで継続的に出土しており、島内の歴史資料館「興世館」に展示されている。

高島の巨石群 by 島内 『案内板』より 近世の人工的な構築物を除き自然石が祭られたもの(未確認あり)
 「天津磐境」 王久山遺跡群島の中心と考えられている場所。岩戸石、踊り石、萬古石、とんび石、隣には
         子妊石がある。子妊石(こはらみいし)は大陰石で近年になって、大陽石が添えられた。
         元々150年前までは島の南東の金光の海辺に大陽石があった。
 「亀石古墳」 太陽の昇るにつれ瞳孔が開き首肩瞳の彫刻技法は不可解。の銘がある。
 「神卜山」山頂 卜石は神武天皇が吉凶を占った、遙拝石と磐座東の二基の立石がある。また島内には西と南
         にも磐座があって南磐座には鳶の頭部浮彫の彫刻あり、河内の豪族長髄彦との合戦の縁と云う。

島内の地名 (紀元前7世紀の頃、弥生時代ではあるがこの地域に稲作が既にあった!?)
 黒土      軍兵が島に上陸の際に草茅などを焼き払い土が黒くなったという伝承による。
 唐臼米庫   稲を兵粮米にして備蓄した場所
 本高須と内高須      須は栖の字を当てることもあり。前者は行宮の在った処で高貴な人の巣(住居)跡。
          後者は皇后女官たちの住居のあった場所、両所は現在住居となっている。
 穂積島     稲を鼠のいない離れ小島に積み上げ保管
 ほや島     穂屋の字か?おなじく稲を保管する場所の意
 船堀      島の東海岸、窪地になっており船が緩やかに海へ進水させる処(古代造船所跡)
 竹の浜     島の南(現海水浴場)西と南からの外敵に備え、武術修練の場所

景色考

位置:N34°30'37" E133°29'03" 笠岡港より南約8キロメートル(陸地からは3km)の海上
大きさ: 面積1.05km2 周囲:5.9km  、最高点海抜84メートル

2010/04/01現在の人口: 世帯数61 男子61女子 55 合計116人

 

現地へのアクセス
 JR笠岡駅下車、徒歩5分で笠岡港より定期船便あり
三洋汽船(0865-62-2866) 笠岡港 ⇒ 高島港(神島寄港) 08:10~(08:30) 08:36   13:20~(0840) 13:46  17:50 ~(1810)18:16。
                      高島港 ⇒ 笠岡港(神島寄港) 07:13~(07:19) 07:37   11:43~(1149) 12:07  17:13 ~(1719)17:37。
豊浦汽船(0865-68-2281) 笠岡港 ⇒ 高島港(神島寄港) 15:00~(15:22) 15:29
                      高島港 ⇒ 笠岡港(神島寄港) 09:11~(09:18) 09:40

No. 表題 Title   内容 Contents
001 名勝高島 渡船場に建つ 島内案内板  画像みる    ↓
    往路 
渡船場風景(神島外浦港)


順路
島内遊歩道



復路
渡船場風景(高島港)
神話と遺跡の島
 この島は、古く一万年前から人々が住み、石器・縄文・弥生・平安時代にいたる長い年月人々が居住していた。これらの時代の石器・土器・貝類の出土する古墳や遺跡など数多く残っている。
①神卜山(かみうらやま)  神武天皇が高島に御滞在のおり吉凶を占った山である。山頂には大正八年に築造された「高島行宮遺阯」と題する高さ
                  8m、重さ225tの巨大な自然石の碑がある。山頂にあがると瀬戸内の大パノラマを見ることができる。
②真奈井(まない)  神武天皇が、天つ神にお供えするお水をお取りになった井戸という伝説がある。
③高島神社  神武天皇東征の途中、しばらく御滞在になり、吉備高島行宮の遺跡と伝えられている。その神武天皇をおまつりしているのが高島神社である。
④高須塚古墳     長方形後方式であって、昔は30ケ所近く点在していたが開墾などのため破壊され、現在では数個のみに至っている。
⑤遊歩道  島の南側に、全長2Kmの美しい瀬戸内海を眺めながらの散歩が楽しめる、途中展望台からは、晴れた日には瀬戸大橋も見ることができる。
⑥子はらみ石  陰石としては日本でも稀に見る巨大なものである。昔から良縁、子授け、安産、婦人病の霊神として信仰され、祈念すれば御利益があり、
          島民に今もなお信仰されている。
002 王泊の入江  画像みる    ↓

全島俯瞰図(興代館)模型図より
 神武天皇(じんむてんのう) Wikipedia他より引用
 庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)~ 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))
「神武天皇」は、天平宝字6年(762年)~天平宝字8年(764年)に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)。日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。

 天皇は甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えたとされる。

天皇の即位年月日は、『日本書紀』の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている(51才)。
2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に
廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた。

003
高島神社(祭神は神武天皇) 画像みる    ↓

高島神社周辺より発掘せられたる高島宮趾
 高島 国指定名勝 (現地案内文)

 笠岡諸島は瀬戸内海国立公園のほぼ中央に位置する。高島は国指定の名勝地で、周囲には有人無人島が転々と飛び石のように連なり、波穏やかな海に浮かぶ風景はまるで日本庭園を眺めているようである。高島の最高峰・神卜山からの景色は特にすばらしく、最近その一部が樹林で見えなくなってきたものの、周辺の小島や笠岡諸島はもちろんのこと、西は福山、東は下津井方面、はるか南方には塩飽諸島は四国の連山を望見することができる。
 高島は、古くから内海航路の需要な寄港地として栄え、古歌にも多く詠われてきた。島内からは旧石器から縄文・弥生・古墳時代を経て古代・中世に至るまでの各時代の遺物が出土し、島の歴史が浅からぬことを教えてくれる。
古事記・日本書紀には、神武天皇が東征の途上「吉備の高島宮」に数年滞在したと記されている。近隣では古くから、高島宮とはこの島のことであると考えられてきた。島内には神武天皇にまつわる伝説が数多く残っている。高島神社は神武天皇をまつっており、明治以前には「神武皇帝宮」などと呼ばれていた。神卜山は神武天皇が吉凶を占った場所といわれ、今は巨大な「高島行宮遺阯碑」(高さ8m重さ255トンの自然石)が立っている。この碑は大正八年に畑中平之丞(地元の石造業者)が建てたものである。山の中腹にある真奈井(まない)は神武天皇が天つ神にお供えする水を汲んだ井戸と伝えられる。
「吉備の高島宮」の候補地は各地に残っており、岡山市の高島が有力視されているが、地元では今でも高島宮はこの地にあったと信じられている。
昭和十九年十一月七日 指定 笠岡市教委委員会 - - - - - - - - - → 江戸時代の「高島宮」伝承by 小寺清先『備中国名勝考』ClickHere

<高島神社>「岡山県神社一覧」より
 主祭神 神武天皇、例祭 五月五日、境内地 三一〇坪、主要建物 本殿、 氏子数 一〇〇戸、宮司 渡部更生、 禰宜 定金恒次、 責任役員 
 河田作一、 由緒沿革 創建不詳。明治維新後、従来の社名「神武皇帝宮」「神武天皇宮」または神武天皇神社・神武天皇社を改めて高島神社と
 改称した。明治十二年官幣大社創設を精頑した。同十四年内務卿から太政官に伺い出て允許により、お手植の榊を植え、玉垣を建造し、官有地に
 編入した。
 (註:お手植の榊は三代目を最後に枯渇した。現在は神卜山の登山口をくぐり山道の右側に石造の玉垣だけが残っている)

<境内の発掘調査>昭和18年
 古墳時代の土器、炉跡などが発掘された。
 

004
明治天皇招魂碑 画像みる    ↓

「興代館」外観
たかしま歴史資料館『おきよ館』 (個人所有の民俗資料展示館、平成十七年開館) 

 河田作一・浩二氏の父子の収蔵品を展示。土地・建物は山本米造氏の提供
        河田善治郎・浩二氏の三氏が世話人となり「興代館」碑を平成16年四月に建立した。

 この明治天皇招魂碑は大正四年の建立された。
☆*************************************************************2011/11/14 追記 **************************☆ 
高島宮霊阯表修趣意来歴」(小田郡長を顧問とし笠岡町長以下郡下村長連名にて県知事宛の
趣意書)より
大正四年九月三十日、畑中平之丞ヨリ高島霊阯表修紀年碑設立寄附募集ノ件、本縣知事笠井殿
ヘ伺大正四年十一月廿九日聞居ニ相成。

表修紀年碑石 
 高さ三丈(3.33 x 3丈=9.9m)、巾一丈四尺(3.33 x 1.4丈=4.6m)、厚さ之に準ず
該石は遠き神世の昔より此の山上に存せしを位置を正し用いしものなり。

 大正四年十一月十日建焉

碑文  高島行宮遺阯碑 (および) 明治天皇招魂碑

  宮中顧問官従三位勳二等文學博士 三島 毅 謹書 時于年 八十有六
  
なお同史料より「吉備高島の遺跡遺物」として以下のものがリストに書かれている。
 行宮阯神木玉垣(あんぐうじしんぼくたまがき)、霊泉玉垣(れいせんたまがき内務省直榮工事)、埋木、王の焼物(高島并ニ神島西瀬製煉工塲
地下より 続々出ズ)、高島差出島の古墳、稲積(いなづみ糧食 ヲ貯ヘシ地)、窓石山上の大岩、黒土(くろつち皇軍御上陸ノ際鬱蒼タル森木ヲ
焼払ヒシ趾ナリ)、 明神、明神島、高の濱(たかのはま)、王道(をゝみち)、大泊(をゝどまり)、米庫(よなご)、冠石(かんむりいし)高山、御手洗、
高(こー)、海ニ高の石、 高の御井(こーのおんいど)、高の神社、神崎(かみさき一名御崎ノ端)、御興与明神(おきよみょうじん高島神社)
 
いずれも神武天皇を祭り或は天皇に因縁の地名等枚挙に遑(いとま)あらず。

2011/11/14更新 2010/09/29