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NOW  2008/08/14
BEFORE    昭和30年代、仁王堂町から遍照寺を見通す

   
西の浜移転後の仁王門

(笠岡市役所ホームページより↓)
 光明山金剛院遍照寺。本尊は五大明王と不動明王。高野山真言宗の中本寺で多くの末寺を持つ。年代は不明であるが弘法大師の開基と伝えられ、もとは市内吉田にあったが元弘元年(1331)に陶山藤三義高により笠岡へ移され代々の祈願所とされる。陶山氏滅亡後しばらく衰退し荒れ果てていたが毛利輝元の家臣村上景広が補修を行う。その後、江戸初期に小堀正次(遠州)より寺領の寄進を受けて再興された。
 仁王門を有し仁王様の寺として親しまれたが、昭和52年都市計画事業により多宝塔を残し市内西の浜へ移転。

 多宝塔と垂れ銀杏を旧仁王堂町に残したまま転出。転出先は静閑な住宅地となっている西の浜新開の一角である。周辺の敷地を取り囲むように立地していた真言宗の末寺(西明院・観照院・吉祥院・南昌院)たちも悉く分散した。
資料写真出所:「ひらけゆく笠岡」 by 市教育委員会 昭和35年3月発刊

 遍照寺は陶山氏の菩提樹として吉田村から笠岡の地へ移転したという。
ところが戦国時代寺領を地方豪族に分割され衰退、この時期笠岡に赴任してきた人物が遍照寺を救済した。その時期と人物とは、慶長五年(1600)12月、徳川家康は毛利領だった備中統治に小堀新助正次を起用した。小堀新助・政一父子は備中国の国奉行として笠岡を支配した。小堀政策のなかに寺院復興があった。慶長九年(1604)この遍照寺に30石、玄忠寺・威徳寺に5石を寄進。国の重文の多宝塔は方三間、本瓦葺きの二層塔婆で慶長十一年(1606)に建立されている。県下に所在する多宝塔としては最古の建造物で、西日本全体でも桃山時代の仏塔の遺存例が少なく貴重な存在である。

 この後、昭和40年代の戦後日本経済の高度成長期期の機運に乗って笠岡が駅前の土地整備事業に着手、その結果市内の一等地を占拠していた遍照寺とその末寺は郊外への転居となった。
小堀政策が寺院を保護することにより毛利家支配地の領民たちの民心の宣撫だとの見方もあるが、この時代の寺院が都市で占める役割は現在の我々が思い描く平成時代の寺院のイメージとは乖離するものであろう。
寺院はその地方の文化と教育の牽引(文化支配)者のみらず中央との連絡拠点(情報支配)だし今日の銀行が担う地域への投資(干拓事業への融資)、商人たちへの金融サービスなどの役割があったと考えられる。

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光明山遍照寺
ながい時代笠岡の中心に鎮座せし寺院群
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2008/09/23


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