常国寺と渡邊氏 (史料)
fm 「おもしろ福山史」 by 平井隆夫氏著
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渡邊氏の出自
福山市文化財指定文書に「常国寺文書」というのがある。熊野町常国寺(法華宗)所蔵の文献史料である。この常国寺は、山田村上、中、下の地頭職・渡辺越中守兼が建立したものである。渡辺氏は、羅生門で鬼の片腕を切ったといわれる渡辺綱の一族といわれ、その名は代々、兼、高、景のごとく一字だけを使っている。世に一字党と呼ばれる氏族である。
渡辺氏が備後国地頭職として入国したのは、山名宗全持豊(1404-1473)の命であり、文明年中(1469-1487)、越中守兼の時代に長和荘草戸村に入ったといわれている。その後、毛利元就より山田荘上、中、下の三力村を請け、一乗山(七面山)に居城する。
渡邊越中守兼は十六歳の時、京都において日蓮宗の僧侶冒親上人に帰依していた。
目親は、「立正治国論」を持って足利将軍義政を諌めたが容れられず、更に書を作り鹿苑院相国のたすけを得て再び諌めたため、永享十二年(一四四〇年)、ついに捕えられて獄に入れられた。そこで責苦を受け、冠鐺(なべかむり)の刑に処せられてしまった。このため、冒親上人のことを世に冠鐺親師(なべかむりしんし)という。
越中守兼は、この目親上人を開山として山田荘に寺を建立した。これが光照山常国寺である。
当時この地方は、山南光照寺の勢力が強大で多くの真宗寺院が存在していたが、渡辺氏は自己の領内の寺院、
民衆に対しことごとく法華の受法を強制した。そのため、山田荘内の多くの寺院が荘外に逃れたといわれ、鞆町にはこの時、山田より移ったといわれる真宗寺院がある。
この時代の渡辺氏に関する文献史料が市重文指定となっているのである。渡辺氏由緒書によれば、多くの感状が書き写されているが、一乗山城主時代の文献は現存しない。
それは、慶長五年(一六〇〇年)、渡辺氏は毛利氏に従って関ケ原戦に参加したが、西軍が敗れ、本国山田荘は徳川氏に取り上げられて福島正則領となったため、帰ることができなくなったからである。
したがって常国寺は無住となり、多くの文献史料は紛失したと寺伝にある。渡辺氏歴代の強者は、本堂の裏に静かに眠っている。
足利義昭と常国寺文書
足利義昭は天正四年二月(一五七六年)、毛利氏を頼って紀伊国由良の興国寺から鞆へ移った。そして二月七日、鞆から吉川元春を通じて毛利輝元に対し、鞆において幕府を再開することを命じた。
また、義昭は本願寺顕如とも通謀しており、顕如は石山寺で挙兵し、毛利輝元は信長と断交した。同年六月、義昭は鞆から使者を上杉謙信、武田勝頼にも派遣し、信長攻撃を要請した。
足利義昭は、信長によって京都を追われ、将軍としての地位も失なっていたが、再び京都に還り将軍に復することを夢見て、鞆の地から諸国の戦国大名に書状を送っていたのである。毛利輝元は、元就の家訓で中国地方より他国へ出兵することを禁じられており、また、信長と対立することを嫌っていたため、義昭が鞆に来ることを拒んでいた。しかし、義昭と顕如、そして顕知と輝元という、顕如を介しての関係により、ついに義昭を鞆に受け入れることになったのである。
輝元は鞆に来た義昭の警固衆として、山田一乗山城主・渡辺民部少輔元を命じた。義昭と通じていた本願寺顕如は、本願寺(後の大坂城)に挙兵した。輝元は石山城に兵糧を送り込むため、安芸・備後の水軍を使い、信長の防衛線を破って兵糧千俵を送り込んだ。この時、民部少輔元は有地元盛軍に属し、戦功をあげている。
天正十年、秀吉は信長の命で中国攻めの先陣となり、高松城を攻撃した。この時、信長は後陣として京都・本能寺にいたが、明智光秀がこれを襲い、信長は六月一日に切腹した。秀吉は、その明智光秀をすばやく山崎において破ったために信長なき後の実力者となることができた。
この時期に義昭は、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を通じ、秀吉に京都復帰を頼み、秀吉がこれを承知したため、義昭は秀吉の武将・黒田孝高に太刀一腰、馬一頭を贈っている。
また、義昭の警固衆であった渡辺元にも御内書が十二月十三日に与えられている。これが常国寺に現在も残されており、市重文に指定されている。
御内書とは三位以上の者が発行する文書のことであるが、その内容は、白傘袋、(しろいかさぶくろ)毛氈の鞍おおいの使用を許可するとしたもので、将軍が使用するのと同等のものを許したということである。末尾には、輝元、昭光より申すべくとあり、輝元とはもちろん毛利輝元のこと、そして昭光とは真木島昭光のことである。
昭光は将軍・義昭の近臣で、もとは山城国宇治真木島城主であったが、義昭に従ってその地で信長に対する軍を起こし、義昭とともに追われて鞆に来ていた。義昭側近中の重要人物である。 この昭光については、彼が毛利家中・粟屋雅楽丞にあてた天正十四年(一五八六年)発給の文書が常国寺文書の中に残っている。その内容は、義昭が常国寺に居を移した時、常国寺院主が義昭に対し釣鐘の建立を願い出たところ、義昭は直接、院主に建立を約した。しかし、現在にいたるまでその約束を果たしていないので、昭光と粟屋の二人で建立をしようと申し入れた書状である。
天正十年、本能寺の変で織田信長が死したことにより、状勢は大きく変化した。義昭の京都へ還るという希望がなくなってしまったのである。渡辺氏はこれを受けて師の義昭を自らの領地山田(現在の熊野町)の常国寺に移した。
その後、太閤秀吉は義昭の居館を津之郷へ移動させ、九州平定後の帰途ではこの地に立ちより、義昭を連れ帰っている。
常国寺唐門の桐
渡辺氏が一乗山城(別名黒木城)を築城したのは越中守兼の時といわれている。一乗とは、天台宗の宗義である法華一乗の法門、圓頓一乗より名付けたものであろう。
この地には、古くは宮近門民部左衛門藤原信走なる人物があり、彼は日親上人に帰依し、大曼荼羅と圓頓章(常国寺蔵)を持ち帰り、ここに一寺を建立せんとした。しかし、それを果たすことができず、越中守兼に建立を託した。兼は築城後、日親上人を開基として常国寺を建立した(沼隈郡誌)とある。この時の圓頓章は常国寺文書(市重文)として保存されている。
圓頓章とは、天台教義のかなめで、自己の一心の内にすべての現象や存在を持っているという宗教的境地を、日蓮宗、禅宗が三種止観のひとつとして説いたもので、真宗では本願一乗と名づけている。
足利義昭は渡辺氏の居城に迎えられ、常国寺に滞在していた。この間、義昭が渡辺氏に与えたものの中に、足利義昭胴肩衣(とうぎぬ:市重文)があり、現在でも常国寺に残されている。
この胴肩衣は、麻製で紋は97の桐が染め込んである。桐紋とは桐の葉と花を象(かたど)ったもので、中国においては王者の出現を待つめでたい鳥、鳳凰の集まる木として瑞章的な紋章とされていた。わが国においても、王者を祝福する瑞鳥の嘉木として天皇家が使用し、平安時代、嵯峨天皇が皇衣に用いられたという記録がある。
桐紋が皇室の教章として初めて用いられた時期は明らかではないが、後醍醐天皇より足利尊氏が桐紋を賜ったという記録は古書にあり、足利氏は元来の家紋である二引両とともにこれを使用した。
足利氏はまた自分の一門や勲功の将士にもこれを与えた。以来、織田、豊臣氏が桐紋を使用し、その臣下の多くに対しても使用を許した。桐紋は前述のように菊紋についで最も名誉ある紋として、足利、織田、豊臣の家臣団に尊重されたのである。
先般、鞘の資料館に97の桐の鬼瓦が出品されていたが、義昭が鞆在城中の館に使用されていたものであろう。義昭は天正十年、織田信長が死して天下の形勢が変わり、もはや京都に還って幕府を再興する望みを失ない、津之郷に移るまで3年間、常国寺に滞在したといわれている。
常国寺の長い石段を昇りつめたところに、唐門(市重文)が肩をいからせて迎えてくれる。本瓦ぶきの四脚門で、戸に桐紋の彫刻がなされている。現在の唐門は江戸中期に再建されたものといわれており、 戸に桐紋の彫刻がなされているのは、義昭が常国寺に逗留中、ここを将軍館として使用した名残りであろう。
慶長五年(一六〇〇年)、関ケ原戦後、渡辺氏は一乗山城に還れなくなったが、景の三男が住職として残り、これを第七世日保上人という。五和五年(一六一九年)、水野勝成備後入封後、勝成の甥(弟忠胤の子)を日保上人の後住として入れ、これを日感上人と称した。
熊野常国寺と渡邊氏
昭和四十八年頃、岡山市の渡辺氏宅を訪問し、本家渡辺氏由緒書を拝見しました。
それによると、渡辺高が十七歳の時、亡き父、拝の代わりに高の後見をとっていた伯父が、父の遺領を乗っ取ったため、高が伯父を討ち取り、京都泉涌寺(せんゆうじ)に隠れました。高はその後、京都悲田院の寺領備後国草戸中山城に入り、山名宗全持豊の勢力下に入りました。高の子、越中守兼の時、上山田村(現熊野町)黒木谷に黒木城(別称一乗山城)を築き入りました。
また、沼隈郡誌には、黒木城主の兼が久遠院日親上人を招じ、日蓮宗常国寺を開基するまでの経緯が記述されています。
それによると、上山田村の宮近門という者が、周防国(現山口県)の大内幕下として京都に登りました。応永三十四年(一四二七年)宮近門は、日親上人が京都戻橋で妙法を唱え、法華経(日蓮宗)以外の仏法を超然として攻撃している姿に感激し、熱烈な信者となりました。
この日親上人は、「立正治国論」を草して足利義教(足利六代将軍)に献じ、義教の政治の欠点を厳しく指摘。将軍の怒りに触れた日親は、水、火や鞭打ちの責めで、他宗派の念仏を唱えるよう強制されましたが、その命に従わず舌を切り、さらに熱湯が入った鍋を頭からかぶせられても動じませんでした。このことから、日親は冠鐺(なべかむり)
日親と呼ばれました。
その後、日親上人は朝廷から地をもらい、京都本法寺を建立。宮近門は、この日親上人から曼荼羅等三品をもらい、上山田村に帰国し、一寺建立を発願しましたが、なし得ず、この地の支配を渡辺兼と交代しました。
文明時代(一四六九年~一四八七年)の末、兼は、九州布教のためこの地を通った日親上人を山田に招じ、上人を開基として常国寺を創建。兼から四代後の景は、慶長五年(一六〇〇年)、毛利輝元軍として関ヶ原戦に参降しましたが、西軍敗戦により徳川家康が毛利氏を防長二ヶ国に移し、所領を取り上げたため、一乗山城に帰ることができず、濃州に隠れました。
渡邊氏の城 by 「続山城探訪」備陽史探訪会・小林定市氏
三代目 四代目
渡辺信濃守家 --- 備中守兼 --- 越中守幸 --- 出雲守房 --- 民部少輔元 --- 源八景 --佐渡信(毛利
(草戸城・鷹取城 (別所城・苧原 (手城山城 勘左衛門秀(水野臣
佐波城) おはら城・一乗山城) 鞆城) 杢太夫政(水野臣
1- 家の死亡は永正6年(1509)正月、草戸で死亡した。
2- 文明7年(1475)、備後守護山名是豊は敗戦し被官人草戸代官渡辺家は領地喪失(草戸・瀬戸町長和他)
3- 文明8年(1478)、家は守護代宮田教言に降参代官職剥奪され、一年の蟄居の後に小水呑を与えられる。
4- 天文5年(1536)、家の次男杢之丞正は笠岡小平井の春日神社に鳥居を寄進す。
5- 明応2年(1493)、兼は山名政豊の嫡男俊豊に従軍し但馬に攻めるも不成功。されど軍功により坪生5ヶ庄
(引野・春日・手城一帯)・藁江庄おうき・木之庄正枝(木之庄町)・山北の代官職を拝領す
6- 明応8年(1499)、俊豊の弟政豊は家督を相続し備後守護となるも、但馬に在国のまま。兼の後楯が弱体
7- 永正年中(1504-1521)、兼の山田入部。草戸千軒の消滅時期と一致。永正16年(1519)山田の一乗山城を
築く。慶長検地での石高は草戸257余石・山田郷1,834石余。
8- 天文5年(1536)、尼子詮久(後の晴久)より兼宛て、鞆・山田に関する書状を送る。
9- 天文9年(1540)、9月尼子詮久は毛利元就の居城郡山城を3万の大軍で攻める。兼は毛利方に参戦す。
10 天正4年(1576)、2月元就は鞆に足利義昭を迎え、渡辺房に警護を命じる。
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渡邊氏の出自 fm 「福山散策」 by村上正名氏
渡辺氏は郷土史書福山志料や西備名区によると、有名な京の羅生門の鬼退治渡辺綱の子孫と称し、関東地方に居住したものが、その一族で摂津の渡辺に移って、渡辺氏を称し、鎌倉時代に備後に移り、五世の孫・友綱がこの熊野盆地山田庄に地頭として入ってきた関東御家人なのである。
南北朝時代には足利尊氏に組みし、友綱の子供の拝は一族と共に、九州多々良浜の合戦で戦功をたてて、山田庄を安堵(ど)されている。
そのご観応二年(一三五一)三月二十七日付で、足利直義の意を受けて、高師泰等と福山市御幸町上岩戒の石崎で戦い、その他、所々に転戦して、戟功をたてて感状をもらっている。 拝の子・究も貞和七年(1351)二月十七目付で、今川治郎太輔直貞の執達で、この石崎合戦などの戦いで感状をもらった記録が存在している。このように渡辺氏は南北の争乱を足利尊氏側にあって地位を確保していったのである。
山田一乗山に城を構えたのは、この渡辺氏の一族の子孫・渡辺越中守兼とされている。彼は特より七代を経て、六代信濃守兼の第四子、幼名を源三と呼び、長じて父の兼を襲名している。
文明年間十六歳で京にのぼり、禁裏守護の在番のとき、京都で法華の説法を聞いて熱心な信者となり、帰郷して、常国寺を建立したと、伝えている。そのころの備後守護職は山名氏で、とくに山名俊豊は明応七年(一四九八)まで十力年間、備後に在国して支配しているので、この間、彼に従っての戦功の感状も残されている。
そのご備後は西の大内氏、北から尼子氏の勢力が入り込んで、いわゆる群雄割拠の時代となり、その間にあって兼も勢力をのばして、山田を中心に、水呑、草戸、長都(瀬戸)国富、上下、宇山、市村、坪生、木之庄、山北五ケ手島などに領土を増やしている。さらに大内氏が勢力を伸ばすにしたがって、これに属し、毛利元就と組んで備南に勢力をのばしてゆくのである。黒木城も営国寺造営も彼の代のこととされている。
二代出雲守房のころは、毛利元就が厳島の合戦で大内氏にかわって、中国地方に進出の転機となるが、房はこの戦でも功をたて、感状をもらっている。かくて毛利がのびるにしたがって小早川隆景の旗下として転戦し、地歩をかためている。三代高、四代元も毛利、尼子の争乱のうずの中で、つねに毛利にしたがっている。とくに石山合戦や足利義昭を鞆に迎えたときの働きは、常国寺に 残された文書や遺品の伝えるところである。
五代景にいたって、毛利と運命をともにして、備後から退いて、仏門に入り、各地をめぐり、最後は福山に帰って、城下町西町に通安寺を営んで住職となり終わっている。
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2009/02/27 |
201010/12更新 |

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