| 「仁井山城」 跡 坪生の側から仁井山城址を望む、頂上に幟がはためいて見えるがそこまでは登れなかった。 |
訪問DATE: 2009 02 09![]() 位置図:福山市坪生町仁井 |
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| 古記録では、建武中興の坪生庄は、反足利尊氏の勢 力下にあり、隣の竹田庄の鼓覚弁(つつみかくべん) 勢力と対立していた。「覚弁、坪生庄の攻略をはかる。 坪生、仁井山城には城主以下五十名がたてこもり、 よく守るが、二回目の戦闘で遂に落城、城主自刃す」 と記す。この時城主に「神原氏」あるいは「仁井氏」「坪生 氏」など記録はまちまちだが、山城跡の山裾に小五輪 塔がずらりと並び「仁井氏古墓」と伝えられている。 山城跡一帯は、今雑木にさえぎられ石組みなど形跡も 見あたらない。「つぼう郷土史研究会」 |
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2009/02/25 Created 坪生町の東北に「仁井」の集落がある。 この集落の背後に「仁井山城」と呼ばれる中世の山城跡がある。城は北から南に突き出た尾根を二重の空堀で断ち切り、二段の曲輪を築いただけの 極めて簡単な構造。城跡に登るには、山麓の「伝大名墓」の看板のあるところから道なりに山頂を目指し、中腹から右に道を取れば空堀跡に達する。ここから南に行けば本丸だ。 仁井氏は、太郎吉近、次郎吉清、四郎惟清、三郎惟信と四代に渡って仁井山城に居城したと伝えるが、独立した豪族ではなく、備中笠岡の陶山氏の家臣で、文明年中(1469〜87)に 滅亡したと云う。 神原氏は、仁井山城主、或いは坪生の西端に残る西山城主と伝える在地武士で、大内氏に仕え、伯耆守助宗、采女正助春、和泉守、四郎頼景と四代相続し、 頼景の代、享禄年中(1528〜32)に没落したという。 仁井氏、神原氏が伝承上の存在なのに対し、坪生氏は実在の豪族だ。坪生の産土寒森神社の天文六年(1537)の棟札に「陶山又次郎、坪生武高」とあり、備中の大豪族陶山氏の一族であった。 更に永禄六年(1563)の再興棟札には「小早川□□隆景、坪生兵部丞藤原乗高」とあって、小早川氏配下の部将として神社の再建に当たったことがわかる。 このように、伝承と残された記録から見ても在地の豪族は陶山、大内、小早川と言った大勢力に属して、その興亡に左右されながら乱世を生き延びようとしたことがわかる。その生きた証が、 残された山城跡であった。 備後・山陽・歴史散歩より http://blogs.dion.ne.jp/frombingo/ |
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