笠岡市園井「鳶ノ子城」と「木野山神社」
 追分の手前、龍王山から見えない北東方向の視界を確保する砦
訪問DATE: 2009 04 03 

「鳶ノ子城阯」(とびのこじょうあと)△145m
 山頂に送電用の塔が建っているお陰で下追分団地から
上る山道は整備されはいるが急傾斜、落葉と礫石で滑り
が上々、手摺りがないので危うく落下、ご用心のほど。
 笠岡市史によると、この鳶ノ子城主は北条早雲か小見
山左衛門か陶山氏の一族かの三択だという。
陶山氏は平氏の一門として早くよりイオスナに居城を構え
ており、井原の高越城を拠点とする伊勢氏が何時の時代
にせよ陶山氏と至近距離で対峙していたとは思えない。
山脈は龍王山とは谷を挟んで加入堂山の尾根つづきと
なっていること、また龍王山山頂にある龍王神社の雨乞い
の神事を加入堂山が一年ごとに山頂で火を焚く風習が
最近まで残っていたこと、などを考えると同じ領地として
の位置関係にあったと考えるのが自然であろう。
従って陶山一族もしくは陶山氏とは姻戚関係にあった小
見山一族の城であり、主城からは死角となる北方と当方
の眺望を確保する目的であったと思う。
またこの山の中腹に「木野山神社」がある。祭神は大山祇
神で高梁市津川町今津にある木野山神社から分霊勧請
されたものであろう。大山祇神は海神であり、イオスナを
基地としていた陶山一族の城の香りならぬ潮の香りがた
ただよっていた。

2009/04/04 Created
 
 「木野山神社」にかんするサイト → 「岡山県神社庁」 HP
 
 高梁市津川町今津に鎮座し、第62代村上天皇の天暦9年(955)9月16日の創建になる古社である。
 御祭神は、大山祇命、豐玉彦命、大己貴命
 古くから流行病、精神病に対するご霊験があらたかとされている。明治初年に中国地方にコレラが猛威をふるった時は、
 各地からの参拝が多く神威の発揚があった。
 

位置図:笠岡市笠岡鳶ノ子(鳶ノ子山)

 <陶山一族関連サイト内・リンク>

  笠岡市 有田 → ClickHere
  鳶ノ子の木野山神社 → ClickHere
  園井城址 →  ClickHere

  備中大門村枝廣城 → ClickHere
  
2009/09/08
 「皇国地誌」(笠岡市史資料編より)
 鳶子山古城跡 城主小見山左衛門建武中(1334-1338)ノ人ナリト云フ、或日宋雲入道卜云、或人曰備後国三吉村光明寺奮記二載ス。
 寛正年中(1460-1466)笠岡城主陶山国時夜二乗シテ大門村城主藤間兵部少輔光重ヲ攻メテ其城ヲ落スト云々、此陶山国時ナル者ハ
 当此ナル城主(与+欠) 古城山旧城主(与+欠) 今知ル可カラス

この城主陶山国時が大門村城主藤間兵部少輔光重を攻め落としたという記事は大門側にも残っている。

 河野刑部左衛門光重は2人の息子光明・光圓と共に在城したようだが明確な資料はない。(大門町史では30-40年間) 
この光重は備中陶山一族との交戦で討死する。「西備名区」につぎの記述があるという(要約)。
天正年中(1573-1592)、笠岡城主陶山弾正忠国時は500余騎で七隠山に陣を張る。両軍臨戦態勢下、国時は詭計を用いて光重軍と和平を締結し、兵士を天神祭礼の芝居
に招き、その隙に乗じて城に攻め込んだ。光重が討たれたのは「備後太平記」では大門から伊豫へ渡る船着場の「帆出の渡り」で矢に射られ落命したという。
光重を射落した武将は国時の弟陶山国定の部下、時友という。光重の嫡子光圓は尾道に落ち延びており、この光圓が後に出家し光圓寺を開基した(「光圓寺縁起巻物」)。

 両者の違いは年代が寛正(1460-1466)と天正年中(1573-1592)、年代比較では113年の相違だが文字でいうと「寛」と「天」の一文字のちがいだ。
攻め方の武将の名前は両者で一致、落城方は「藤間兵部少輔光重」と「河野刑部左衛門光重」で場所はどちらも備中と備後の国境に在る大門の城だ。
「皇国地誌」が拾った史料の「備後国三吉村光明寺奮記」とは一体どんな史料なのだろう。備後三吉村に何故、この城の記述が残るのかも疑問。でもそこが
おもしろい。