海から陸上部へ追われた「住吉神社」  注連柱の年号は明治三十年(1897)七月
 笠岡の港の衰亡をそのまま映す移設にみえる。
訪問DATE: 2009 02 11


「住吉神社」は昭和まではこの位置にあった。
地図でみると吸江山の北西麗海抜20メートル
に鎮座していた。直感的には今の国道2号線
の城山遂道工事によって移転を余儀なくされ
たのだろう。この遂道開通が昭和33年10月だ
から、この地図は少なくともその前までに刷ら
れた貴重な資料である(Fさん所蔵)。
右上の注連柱、「安随神明」・「抜穢塵心」神明
に随って塵・穢を祓うという意味だろうが何故こ
んな所にあるのか、この道路を通るたびに不思
議に思っていたが、この地図を見せていただき
持ち主が住吉神社だと教えていただいた。
当時の城山には道路が7本も頂上へつながって
いる。また地図からの理解だが、メインの登山
道は南の海側からも整備されていたこと、高王
神社からも直接上る径があったことが解る。
住吉神社は海にかかわる社である。当初は未
新田の先端に鎮座していた。その後は海から追
われるように陸上部へと移っている。
現在では高王社に合祀され、昔の面影はない
のは笠岡港の衰退を投影しているように見える。

 2015/12/25  Created   住吉宮の変遷
  住吉宮の元位置は未新田の西南端にあったというから、創建は未新田が竣工された年、安永四乙未年
 (1775)の未年であろう。干拓工事で締めきり堤防はできてはいたが新田に明治41年になって宅地拡張の
 ため11月より古城山山頂の土砂を採取に着手、明治43年に完工した。
 では住吉宮が上図の場所へ遷宮となったのは何時の時代であろうか?それを示しているのが注連柱の年
 号の示す明治三十年(1897)ではあるまいか。また高龗神社も現在地に移る前には紡績工場敷地内にあっ
 たが工場移転に伴って現在場所へ遷宮となっている。


現在の住吉宮位置図:笠岡古城山北麓

 住吉宮の最初位置 ⇒ ClickHere
  JR線路より南へ約80mほどの位置

 標柱の位置はこちら ⇒ ClickHere
 
明治6年の笠岡町絵図    明治中期の笠岡町畧図(笠岡市史第3巻より) 
  未新田の完成はは安永四乙未年(1775) ひつ
じ年、3町4反の新田出来という記録あり。
そのために住吉町辺りをいまでも未新田と呼
ぶ事がある。住吉宮の創建はこの年であろう。
そして明治30年7月に古城山西麗へ移転、そ
の移転理由は不明。現在のスーパーマルナカ
の場所は山陽製糸社~笠岡紡績(m27.10)~
福島紡績笠岡支店(m42.6)~敷島紡績(s19)と
変遷を経て昭和52.10月に閉鎖となっている。
住吉宮が高龗神社に合祀されたのは国道2号
線の古城山遂道工事(s34)の頃であろう。標柱
が語りかける住吉宮の変遷史である。
 
         住吉神社変遷の真実 by 『富岡・古城山』廣澤澄郎氏著(平成13年刊行)
 
 写真は昭和の初めに住吉神社の前の道路から撮影
 されたもの。 注連柱が見えている。
 「安随神明  石橋町」「祓穢塵心  維時明治三十丁
 酉年七月建焉」と刻まれている。石橋町にご注目。
 この建立の明治三十年の場所は元位置である未新
 田であろうから、社殿再建の年か何かの年であろう。
   ◎花火大会は住吉祭りと同時期の開催で住吉花火とも呼ばれたが、やがて笠岡港まつりの花火大会として平成4年八月九日に、笠岡港花火大会が開催された。
 その時のスポンサーの何社かは姿を消して時代を感じる社名が並ぶ。
NKK福山製鉄所、ワコー電器、笠岡マルセン開発、井笠鉄道、内海、
中山グループ、吉本組、ニチイ、新星釣具、河田商会、茂平工業会、笠岡金融協会、後援・笠岡市、笠岡商工会議所
 ◎住吉神社~祭神は上筒男命(うわつつおのみこと)。
 未新田が安永四年(1775)未の年に完成し、同十二年検地された。
同地の住吉大明神は文化五年(1808)三月の笠岡町図に載っている。
未新田には麦や綿が植えられたりしたが、明治中期、紡績工場がで
きてから家産が並ぶようになった。のち住吉神社があるので、住吉町
といわれるようになった。
昭和八年の笠岡小学校『新郷土読本』第九課に「住吉様の祭」(神垣作)
という一文が掲載されている。
要約すると、祭礼は旧暦六月廿八日の夜、笠岡の神社の最後を飾る
夏祭りで大賑わいだった。神社への通りの両側には露店が軒を並べ
繰り出した人通りはモノ売りの声と喧噪と歩く人の砂塵が舞い上がって
いた。この頃から海上では花火が打ち上がり、吉備花火大会と呼ばれて
いた。
ところが昭和25~6年頃にお社に落雷があって社殿が焼失、そのため
古城山の麓、敷島紡績の東南に神社を新築し移転となった。
この時、注連柱も雲碩庵の下の道路へ移動となったのである。
しかし、さらに国道2号線の遂道工事のため移転を余儀なくされ、昭和
32年6月に高龗神社に合祀となった。、
 明治初期  江戸期






























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