| 園井の砦「園井城」址 鳶ノ子城の死角を補う戦国山城、東方からの笠岡往来の関門であった。 |
訪問DATE: 2009 04 26 ![]() |
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| 「園井城」(そのいじょう 城山△104.2m) 岡山県埋蔵文化財GISからのコメント 『城山と呼ばれ、山頂平坦部に20~30mにわたり土塁 が築かれていたが、配水槽設置で消滅。中腹に五輪塔 あり。 城・館・屋敷, 室町時代』 左の写真は頂上に岡山県西南水道企業団が設置した 2基の配水池(貯水槽)越しに東を見た画像である。 本城の南に位置する鳶ノ子城との距離は僅か500m、音 信号のほうが交信容易と思われる近さである。 鳶の子城の説明は『標高154m、笠岡・園井の境界をな す山。城主は小見山氏とも陶山氏ともいう。現在山頂に は鉄塔が立つ。 城・館・屋敷、鎌倉,室町。』 この二基の山城もセットであろう。鳶の子が笠岡往来 を睨む立地にあることと、創建年代が鎌倉までさかのぼ る可能性がある点から主城である。園井城は追分から 東への往来を分担し、鳶ノ子城の補完機能を担っていた と想像する。写真では樹木が茂って今立~里庄方面へ の往来が見づらいが、あるいは吉田への幹道もあるか も知れない。園井には「土井」「馬場」「石丸」などの小字 地名が城山周辺に残っている。 |
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2009/05/21 Created 「園井城」にかんするサイト検索 → Hit 岡山県GISサイト以外なし 「萌黄ケ原の戦い」 笠岡に本拠を置いたとした仮定でこの場所に砦を新設するきっかけを想像すると、萌黄ケ原合戦にHitする。 笠岡側からすれば北東へ攻め上った反動で、目論見の戦果を挙げれなかったゆえに敵方からの攻勢を受けたときの防御 として鳶の子城の増強と同時にこの園井城を築城した。。。。というストーリー 萌黄ケ原の合戦は永禄九年(1566)の梅雨)、この戦いを仕掛けたのは村上隆重で笠岡城に居城して後、北方攻勢を企てた。 村上軍を迎え討ったのは矢掛・神戸山城に本拠を置く小田一族で、当時は5代目城主小田政清が萌黄ケ原で村上軍を討ち 破った。ゆえに、この園井城の築城は萌黄ケ原で敗北した村上隆重と考えたい。 小田も村上も時代を追って、西国は毛利に集約されていくのだか、笠岡で交戦の記録が残るのはこの萌黄ケ原合戦だけである。 陶山・高田・小見山・渡辺・井上・小田・有岡・橋(掛谷)一族など国士と呼ばれた笠岡の有力武将たちを含め地元合戦記録は 伝承の範囲を出ないからか、なかなか正史には採用されないようだ。 その分、シロートが勝手な憶測であれこれ言えるのが郷土史のだいご味かもしれない。 2009/11/14 <園井城情報> 所在地名:園井 池の平の背山にあり頂上の平坦部に周囲20~30mにわたって土塁が残っていたが、排水漕の設置で消滅。 中島兵乱記に「伊勢新左衛門貞春、備中国園井村に来たり。戦功をもって600貫を知行して後月郡江原高越城に築居す」とあり なお同山南側中腹には五輪塔が不揃いではあるが、少なくとも十数基並んでいた。昔はまだ多かったと古老はいう。 (「今井地区 歴史を語る遺跡・文化財」今井公民館 平成2年刊行より) ********************************** 中島兵乱記とは元和元年(1615)に備中賀陽郡経山城主中島元行によって書かれた「備中兵乱記」のことであろう。 北条早雲の先祖は平重盛(小松内大臣)で、その17代の後胤の伊勢駿河守であり、備中国薗井村に土着し後月郡江原の高越山 に居城を築いて、禅宗を信仰し長谷山法泉寺を建立したと書かれているとか。(未確認情報) |
位置図:笠岡市園井(城山) <サイト内リンク> 萌黄ケ原の戦い → ClickHere 鳶ノ子城址 → ClickHere 高越山城 → ClickHere ☆園井土井遺跡 園井地区には「土井」「馬場」「石丸」「溝手」など、城下 を連想させる小字が残る。事実、山陽道工事の時中世 の武家居館とみられる遺構が発見された。 「宮ノ前」に鎮座する社は「諏訪神社」、境内には樹齢四 百年のクスノキが聳え立っている。これらの関連性は? 諏訪神社 → ClickHere |