| 笠岡市横島の「塚大明神」碑と「塚神社」 小字名は城山、鳴ケ端という半丘が島から東に伸びて海を洗っていた |
訪問DATE: 2009 04 02 ![]() |
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| 横島「鳴ケ端」(なるがはな) 県道を富岡より神島へ南下し、笠岡工業高校の体育館 の手前にこの碑がある。この辺りはお向かいの小黒崎へ 半島状の小丘が突き出していたという。 昭和30年代中頃に国道2号線の盛土工事のため丘は完 全に破壊され消滅した。 この丘に古墳時代後期の「塚大明神古墳」(横穴式石室) が発見された。今に残る碑に書かれた「塚大明神」とはこ の石室に埋葬者を神として祀ったものだと伝えられる。 また小字名に残る「城山」とは陶山一族によってここに 笠岡城の出城として鳴ヶ端城が築城された。 その後、小見山氏・村上氏なども入ったようであるが、この 地点は笠岡湊への入り口に当たり付近海域を哨戒するた めの海上前線基地であった。 東に位置する対岸の大島には高名な縄文遺跡の「津雲 貝塚」があり、鳴ケ端とは僅か600mの距離だ。 大島は島がつく地名だが古来より地続きの土地である。 横島の命名者はこの南北に長く東西に短い島を大島側か ら眺めて「横島」と呼んだことだろう。横=縦長の意味かも しれない。 陶山氏が鳴ケ端城を西岸ではなく東岸に置いたのも東か の敵に備えた防備戦線だったことが分かる。 |
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2009/04/02 Created 「塚大明神」にかんする記述書 → 「2007笠岡ふるさとガイド」 発行者 笠岡市 (鳴ケ端城は小見山・村上の居城と記述あり) この一隅は縁石で囲われた花壇になっている。聞けばご近所の材木店のおばあさんが除草とケアを続けておられるらしい。 以前は大島から世話人が訪れて維持管理をされていたそうだが、いつの頃かそれが途絶えて、いまのおばあさんが世話を 引き継いだ、というお話を現地で聞いた。 この場所を探すのに、「鳴ケ端」で道を尋ねたが、年配の方でもほとんどご存じなかった。歴史の記憶は確実に風化していると この日も感じた。 |
位置図:笠岡市横島入江(城山) <陶山一族関連サイト内・リンク> 笠岡市 有田 → ClickHere |
| 2009/08/02 村上隆重の笠岡進出について。 村上氏が笠岡に進出したのは永世3年(1506)、第27世笠岡山城城主陶山刑部高雅を村上一族が攻め落とし、吸江山に笠岡城を築城したのがそのはじまりとするのが定 説のようだ。この合戦の後、村上隆重は毛利方の武将として笠岡城を築き(or 入城し)笠岡を領有し嫡子景広の二代にわたり笠岡を支配したされるのだが、村上隆重の築城時期は天文年中 (1532-54)と考えられているが確証はないようだ。この後、隆重・景広父子が笠岡から退去した年代は慶長4年(1599)に毛利元就の八男・元康の領土となった時期に城主村上八郎左衛門尉 景広が周防へ転封・退去している。 (高雅の落城は讃岐國細川頼春の五男讃岐守満氏配下で村上二郎満兼を大将とした三千余騎兵船五十余艘の細川勢で笠岡山城を取り囲んだという。) 村上水軍がライフワークの著作家森本繁氏の説を紹介すると、隆重は一族の家督相続問題の時期、伊豫国をでてこの笠岡に入りまず神島に築城した。この城の名前が「鳥越城」だ。 隆重は神島を拠点として笠岡本土への進攻を始めた、という説だとその後の展開が理解しやすい。隆重は毛利隆景の幕下後の改名でそれまでは左近太夫宗勝と名乗っていた。 彼は陶山高雅とは姻戚関係にある。隆重の父は村上山城守雅房で本妻との子が宮内少輔吉益、その子が村上武吉。隆重は腹ちがいの母親から次男として生まれている。従って武吉とは 叔父・甥の関係だ。そして隆重の妹が陶山刑部高雅の妻である。 天文9年(1540)(or永禄九年(1566)の梅雨時期)隆重は笠岡から追分の峠を越して小田へ進攻する。萌黄原の合戦である。 攻撃を受けた小田一族5代目城主小田政清は矢掛猿掛城主穂田氏、井原高越山城主の伊勢氏などに援軍を求め村上軍を笠岡へ追い返した。 また天文9年8月に「中国兵乱記」によれば出雲の尼子晴久が大内幕下の備後三吉氏を攻めたとき、大内氏の指令で三吉救援に出向いた備中諸侯のなかに、笠岡掃部(かもん・村上武吉 のこと)村上弾正(隆重のこと)が書かれている。 結論は隆重の笠岡城築城はこれら合戦の前後であろう。ずいぶんと回りくどくなったが、鳴ケ岡を隆重が領有する以前は陶山の出城だったと思われる。 **************************************************************************** 2011/04/20 追記 「興亡史笠岡城物語」より引用 寿永年中(1182-1185)平能登守教經が横島に要害を造る。当時の笠岡領主は第13代陶山高光の頃。 第20代義高は横島の要害其の旧跡を再検し更に砦を建築し之を鳴ケ端出張と唱えて守衛を籠む。そして23代高詮の時代に、明徳元年(1390)、鳴ケ端の砦を要害堅固修復し則笠岡山本城 の端城とし田邊太郎左衛門尉時盛と原大隅義隆在番す。 このとおりとすれば、平安時代よりこの地は瀬戸内海航行船が笠岡湊へ入港する時の水路に当たり、水城として 早い時代から陶山一族が占拠防衛していたことがわかります。 |
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