岡山藩2代藩主、岡山藩池田家宗家4代 池田綱政の事蹟について
 子づくり大明神とも云われた迷君?の命により築造された日本国特別名勝指定の庭園「後楽園」
訪問DATE: 2010 03 13

 <写真風景>後楽園から出て旭川を渡る。左上は綱政絵、左下はカメラ視点の反対側の後楽園入り口。

「後楽園」蓬莱橋の袂にある「説明板」絵図
 後楽園(こうらくえん)は岡山県岡山市北区後楽園
1-5にある日本庭園(大名庭園)で日本三名園のひとつ
である。江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって
造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名
勝に指定されている。
 後楽園の旭川を隔て南にある岡山城は1597年(慶長
2年)、豊臣家五大老の一人で、時の岡山藩主であった
宇喜多秀家が旭川の流域にあった「岡山」という小高い
山を利用して築城したものである。
この時、旭川を城および城下町の防御を固めるための
堀の代わりとして用いるために、旭川の流路を岡山城の
手前で大きく東方へ曲げて城の北東面に沿わせ、さらに
南流するように変えたのである。これにより、城と城下町
の防御は強固なものとなったが、あまりに不自然な流路
となったため、以後、岡山城下はたびたび洪水に悩まさ
れることになる。
藩主の座は宇喜多氏の後、小早川氏から池田氏へと
移り変わり、4代目の池田綱政の治世となる。
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2010/03/14 Created
 
 「鴨方往来」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 鴨方往来(かもがたおうらい)とは、江戸時代に岡山藩によって岡山城下を中心に放射状に整備された6つの官道の内のひとつ。
鴨方往来の他に、金毘羅往来・松山往来(備中高松・総社・美袋・高梁 )・津山往来(岡山・金川・福渡・弓削・亀甲・津山)・牛窓
往来(岡山・益野・西大寺・牛窓)・倉敷往来(岡山・牟佐・町苅田・周匝・林野=倉敷)などを整備した。
鴨方往来の起点は、岡山城下の栄町仙阿弥橋(岡山城三之曲輪:現在の表町2丁目天満屋付近と推定され、当時は「町合所」が
おかれていた。三之曲輪には西国往来が南北に通り、いわゆる城下の中心地であった。)を起点に、庭瀬、生坂(生坂藩/岡山新
田藩)付近、長尾(新倉敷駅北地区)、占見(金光)などを通って鴨方に入り、出雲街道と連結する商港でもあった笠岡などを結んだ。
庭瀬までは「庭瀬往来」とも呼ばれた。また途中までは金毘羅往来と重複していた。


位置図: 浅口市鴨方町鴨方

 <浅口市内サイト内・リンク>

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  清瀧山長川寺     →  ClickHere
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池田藩寄宮施策    ⇒ ClickHere
  
☆池田綱政の事蹟について ⇒ ClickHere


池田綱政人物伝『Webページからのツギハギ』より

 池田綱政 寛永15年(1638)~正徳4年(1714)、藩主期:寛文12年(1672)~正徳4年(1714)光政長子 母・勝子(本多忠刻娘)、別称 興輝、太郎、三左衛門、従四位下左近少将
岡山藩主・池田光政の嫡男として江戸藩邸で生まれる。20歳から岡山にあり、父から執政を学ぶ。寛文12年(1672)、父の隠居に伴い岡山藩主となるが、翌年には領内が大洪水に
見舞われ年貢収入が激減、さらにその翌々年の延宝3年(1675)には御所造営の課役により莫大な出費が生じ、藩は深刻な財政危機に陥った。このため綱政は藩政改革を断行、
父に引き続いて津田永忠を重用するとともに服部図書ら有能な人材を登用、財政再建と農村整備に取り組んだ。沖新田・幸島新田等の開発(児島湾の大型干拓)を行い、また
水利のため倉安川を、城下の洪水対策のため百間川を開削して、生産力増大と治水事業に顕著な業績を残した。

<主な事業>
父とは対照的に儒学を好まず、和歌・能楽・書画・蹴鞠などを好んだ文化人。
延宝元年(1673年)講堂完成。翌年に聖廟が完成光政が着手した藩立教育機関の閑谷学校を発展完成させた。
元禄13年(1700)に大名庭園・後楽園を造営。神仏への信仰が厚く、備前吉備津宮(現在の吉備津彦神社)を再建して池田家の氏神とした。元禄11年(1698)に池田家の菩提寺と
して曹源寺を創建した。
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土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)
元禄3年(1690年)から4年にかけて脱稿に書かれたと思われる、当時の各藩の藩主や政治状況を解説した本。和綴本全43冊、首巻に総目録、第一巻が将軍家の初代家康から
の略伝、第二巻~第42巻に支藩を含めた諸大名242人について各藩の「紳士録」。
書名の出典は『孟子』巻八「離婁章句下」第二段の「君の臣を視ること土芥の如ければ則ち臣の君を視ること寇讎の如し。」(土芥はゴミ、寇讎は仇敵、見る視点で変る意)
「生れつき馬鹿で、父は文武両道の達人なのに、子は、不学文盲である。儒・軍書は山のように積んでいるが 一度も見た事は無い。理に暗く行跡が正しく無い。政道に心を
寄せない。昼は蹴鞠の会、夜は、河原者を集めて 酒宴・舞曲に現を抜かす。主将の行跡は無い。」
叔父 恒元の評価、「家中の者、女まで軽んじている。女にだらしない。他には無いであろう。」子供の数が70人、希代の精力藩主であったとか。
(その原文)
 綱政、生得魯ニシテ、不能分別。親父光政ハ、天下二沙汰セシ文武両道之達人也。其ノ子トシテ不学文盲也。儒書・軍書等ハ 如山積重テ雖有之、一偏モ見タル事ナシ。
 故二理二暗ク、行跡不正。昼夜 酒宴・遊覧ヲ心トシテ、政道二不綺、御旗本二波沙羅動楽之悪名ヲ取リテ、万人指頭之誹ヲ受ル。
 坂部三十郎如キト無二之中能ニテ、昼ハ蹴鞠之会、夜ハ河原者等ヲ集メテ、酒宴舞曲ヲ心トス。更二主 将之行跡二非ズ。剰、女色ヲ好ム事超倫タリ。学者之子ニ、
 如斯不学文盲短才モ又珍シト、風聞アリ。
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 『池田家履歴略記』にも
 「世に伝て曹源公(綱政)の御子七十人おわせしと云、今ここに載る所男子二十一人、女三十一人、また保国公(継政)ともに合せは男女の御子五十三人也、此外十六、
 七人の御子、或は襁褓(むつき)の中にてうせ給ふも有りて世に知る事なく、又は御養女なとをあほせ記さば、殆七十人には及はせ給ふへし」と
 「曹源公」の子づくりへの執念のすざましさを書き綴っている。

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 津田永忠(寛永17年~宝永4年 1640-1707 68歿)参照:黒木町日記より http://kurogi.jugem.jp/?eid=838036
 岡山藩の番頭(家老に次ぐ役職)、岡山藩 侍大将「熊沢蕃山」が藩内派閥争いによって、藩を追われた後に岡山藩主「池田光政」によって、その才を認められて
「閑谷学校」「後楽園」「児島湾の干拓」「藩内各地に学問所設置」など多くの事業を中心となって進めた人物。「池田光政」の身の回りの世話をする役目を仰せつかり、
当時の有識者層の中心学問「儒学」を熊沢蕃山や池田光政から学び取り、民衆を豊かにすることが藩政を安定させることを唱えた。
 光政に取り立てられ、さまざまな藩の事業に関わると共に、25歳で藩の重役になるも藩主の隠居にともない、同時に34歳で藩主と共に隠居生活に入る。
その後、綱政時代の藩財政の逼迫時には、再び永忠の助言を求め、新田開発・干拓事業・支出削減・用水路建設・統治機構改革を行い藩財政の建て直しを行った。
元禄期、様々な文化事業が国中で進められた時期に後楽園の建設に尽力、最後は生涯をかけて築造した藩校「閑谷」の地でその生涯を終えた。
(劇画・郷土の歴史 「岡山藩郡代津田永忠物語」タケバヤシ 哲郎著)