| 笠岡市広浜村城山(△97.4m)の「広浜城」址 & 「山王宮」 築城年代は不明、伊予国河野一族が居城(伝)、後に毛利麾下の武将「小寺十郎左衛門尉」 |
訪問DATE: 2009 05 19![]() |
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| 「広浜城」址(ひろはまじょう) 写真左、民家の右上の丘を城山(しろやま)という。国土 地理院の2・5万分1でみると標高80mレベルである。 近くで畠仕事をされていた方に話を伺った。 まず城山の頂上までの道ゆきは使われていないから、登 っていけるかどうか定かではない。登っても遺構はなし。 頂上には祠があって以前は祀られていた。城主は四国 伊予の豪族河野一族の勢力だっと伝え聞いている。 毛利配下の小寺氏が居城したというのはもっと時代が下 ってから。この広浜の近くには小寺姓は一軒もない。 左の写真の手前左端に神社が見えている。 これは「荒神社」で隣り合って手前に「山王宮」があり、 祭神は「大山咋神(おほやまくひのかみ) 」伊予国河野 一族との接点は見あたらないが、説明をされた方は村上 水軍ではなく、河野水軍だと念をおした。 写真上、正面にみえる山が絵師側からの應神山。 手前右側の池が「鯨池」。その昔、大海から鯨がここまで 入り込んで、村の住人たちを潤したという伝説が残ってい るのは笠岡では有名な話である。その左、池畔に立つ 碑は明治の初期に広浜村に桃栽培を根付かせた先人、「 渡辺惇一郎」の頌徳である。明治六年、傾斜不毛の地を 活用云々とあるので、稲作は芳しくない土地だったかも。 |
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2009/05/19 Created 「笠岡市史」から引用 → 「萩藩閥閲禄」に次ぎの文書が残っている。 『(備中)笠岡の儀について、最前いらい別して辛労候の条、広浜の田畠二町七反余の事、之を進め候。弥(いよいよ)馳走祝着申す べく候。恐ゝ謹言。 天文二十一年(1552)九月八日 小寺十郎左衛門尉 殿 隆景御判』 一説に城主を高田河内守正重と伝えるものがあるが(「備後古城記」)、疑問が多く信じがたい。 ------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 頂上からの眺望は隣の応神山とほぼ同じであろう。大島に聳える御嶽山と神島の栂の丸山から湾入する瀬戸の海が眼下を満たし、 横島干拓以前なので当然、まだ横島が島のまま浮かんでいたはず。 四国伊予は天気の良い日であれば見通したであろう。 城山の近くには弥生時代の石斧出土の「宮畑遺跡」、中世遺跡の「えんどうだわ古墳群」などがあり、笠岡市内では古くから開けた 土地柄であるだけにこの城山に築城した人物は村上水軍よりもっと早い時代の武将だと想像できそうだ。 岡山県の埋蔵文化財GISによれば築城年代は鎌倉~室町、城山頂上で確認された遺構は城・館・屋敷となっている。 |
位置図:笠岡市広浜(城山) <陶山一族関連サイト内・リンク> 笠岡市 有田 → ClickHere |