神辺城と藤井皓玄 (史料)
fm 元福山市長「立石定夫」氏著
| 下図は神辺城と藤井能登守皓玄 fm 立石氏著書より |
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「藤井能登守皓玄」略伝: ⇒ 神辺城 ClickHere
藤井皓玄は備中芳井の出身である。芳井町大字吉井城ケ端の正(聖)霊山城を居城とし、井原市高屋町石谷に在った高屋城に嫡子の新介広告を居城させた武将である。つとに備後守護家の神辺城主山名氏政(氏勝)に仕え、氏政が大内氏に城を追われてからは次ぎの城主となった杉原理興(ただおき)の下で次席家老職を勤めた。このときの筆頭家老は杉原左衛門大夫興勝で、三番家老が大江田隼人祐(はやとのすけ)、四番家老に後に毛利勢(吉川元春)に神辺城主に推挙された杉原盛重であった。
神辺城主杉原理興は弘治3年(1557年)に死去、子孫なきため自分より後位の杉原盛重が城主理興を継承すると、直ちに致仕(ちし)して野に下った。皓玄は自分の城も捨てて嫡子広告らを連れて京都にのぼり、清水寺の傍に寓居を構えた。このとき、おなじく神辺城から退去した大江田隼人祐も京都に潜伏した。雌伏すること十年、永禄11年(1568)になってやっとその機会が訪れた。
毛利軍は九州に出陣し豊後の大友義鎮(よししげ)と交戦ちゅうで神辺城主杉原盛重も将卒を率いてこれに従軍していた。この機に尼子氏には遺児孫四郎勝久を盟主に再興の動きがあり、尼子・大友軍と申し合わせて挙兵すべく備中に下った。永禄十二年(1569)六月十八日未明、皓玄は藤井六郎左衛門・佐藤庄三郎・寺地又兵衛・藤代五郎入道ら郷党・旧臣たち五百騎を率いて神辺城を攻めた。
このとき城には盛重の嫡男元盛・景盛を擁した城代の所原肥後守と家老鱠江備前守ら三十名が留守居をしているに過ぎなかった。急を聞いた馬屋原中務(なかつかさ)入道・高橋大三郎が外部から駆けつけ防戦に努めたが、神辺城は落城した。
九州の毛利元就は備後残留の武将、楢崎三河守豊景(芦品郡久佐村・久佐楢崎城主)・村上佐衛門大夫祐康(鞆の大可島おおがしま城主)・三吉大炊介隆亮(三次畠敷村の比叡尾山城主)らに神辺城奪還を命じた。この攻撃は永禄十二年八月三日に始まった。この奪回戦では鉄砲が使われ八月七日まで五日間続き、皓玄は神辺城を脱出し権現山の尾根伝いに高屋の方向へ逃れようとしたが、既に追っ手が行く手を阻み、やむなく南進して備中浅口郡に逃れた。
西大島の石砂まで落ちたとき、備中守護家の後裔細川下野守道薫(みちしげ)の手に襲われて自刃した。御嶽山の山麓にある石砂の小池の傍である。村人たちは死骸を埋めた場所に小祠を置いて「藤井さま」と称した。皓玄の首級は楢崎三河守の手で長府の毛利本陣に送られて元就の首実験に供された。このとき皓玄の二男市之丞は逃げ延びた。皓玄には四人の男子があり、末子好恒は当時10才にも満たない少年であった。
備中成羽の三村親成を頼り、成人後に美作国久米郡神月村の郷士小坂氏の養子となり小坂信濃守利直と名乗った。号を道齊という。福山藩主となった水野勝成は青年時代の放浪ちゅうにこの道齊の娘お登久と結婚し男子を産む。この男子が福山二代城主水野勝俊である。
(森本繁著「備後史夜話」)
立石史観の「皓玄像」
皓玄が居館としたのは、芳井町吉井字坂本の中の田中と呼ぶ処である。田中の地は藤井一族の根源地であった。ここは北、南、西の三方は山嶺に囲まれ、東方だけが開かれた平地である。
山麓一帯には田畑があって農家が衆落している。皓玄は此の地に館を設け、それを有井城と呼んだらしい。
田中は、正霊山城と高屋城との丁度中間にあって、両城の連絡の要衝であり、兵糧を補給する穀倉地の適地でもある。 田中の南側の山麓に古い廟所がある。中に陪玄の菩提墓というのがあって、里人が時折香花を典じている。皓玄の四男藤井利直が、後に神辺合戟の余波を受けて備中に脱出し、後、小坂道斉となって帰ってきて医業を営み、住居を構えたのもこの田中であった。
正霊山城は一名鍋蓋山とも云い、山上の正霊神社(祭神吉備津彦命)を置き、芳井村大字吉井城ケ端にあり、孤峯悄然として聳え、頂上東西三十間、南北八十問、囘字形同じ、聖壕と要害の旧態を依然として留めている (『後月郡誌』)。大手門は南面にあった
が、今は雑木が繁って跡を認め得ない。小田川右岸の小高い丘上にある城は、雲州街道の要衝でもあった。
この城は、備中権介次郎右衛門好重が築城し、皓玄がこれを受け継いだと見てよい。恐らく時期は天文の始めであったろう。この城址については、昭和五十三年八月と昭和六十二年十一月とに調査された。
高屋城は、吉井村から山越えをして神辺に行く中途、高屋町にある西谷の山頂で、平坦地。
周辺に濠の跡を残し、又井戸も残存するという。この城の築城者は誰なのか明らかではないが、天文の始め正霊山城と共に藤井好重がここに在城し、皓玄の代になって長子新介広吉が居た。
広吉は暗玄の長男で勇武の聞こえ高く、雄偉であって、嘗て備中吉備津宮へ柄五尺八寸、長さ七尺の野大刀を奉納し、これが現存していたと云われる。
高屋は、山陽街道が高屋川と交差する後月橋から北に高屋川(石谷川)に沿って上れば、中条、三谷を経て島根県へ石州街道が通じており、後月橋から南に下れば、大江から笠岡市陶山に出る要衝である。嘗て、この後月谷こそ上代の後月郷であるとも云われ、古代から交通の要地として早く開けていたのであろう。
後月橋から北に千メートルで石谷部落に着く。この部落の裏が高屋城址で、標高260メートルとなっている。南の谷間から急傾斜の登り道を辿っていくと二之丸に通じる間道があり、直上すると鞍部に出て尾根つたいに行くと平坦な城址がある。この道が大手である。濠を越えて本丸と見られるところは、東西27メートル、南北17メートルの長方形をなしている。眺望は極めていい。本丸と濠を隔てて西に二之丸、又井戸の跡、二之丸から一段低く三之丸、四之丸、五之丸まである。いずれにしても、 右州街道と山陽街道との交差点にあったこの要衝は、その戦略的な価値もあったのであろう。
上記資料出処:「井原市文化財センター 古代まほろば館」 ☆訪問記2009/03/29 → ClickHere
備後国人衆の反撃
神辺城主杉原盛重の家老所原肥後守(『備後太平記』では盛久、『備後史談』では実里、又は武政)は芦田郡久佐の楢崎三河守豊景を頼っていたが、三次郡畠敷の三吉大炊介隆亮や因島の村上左衛門太夫康亮ら備後の国人達が神辺城の奪回の為に兵を寄せて来たので、杉原弥八郎(元盛)、又次郎(景盛)兄弟を総大将として、八月三日、神辺城の奪回に取りかかった。当時、杉原盛重は毛利に従って九州に遠征中であったが、備後勢の楢崎筑後守信景(豊景嫡男)、有地元盛、木梨元経、鼓らの諸将は皆、盛重の麾下にあって立花の陣に随っていた。
攻撃軍には杉原兄弟を大将として、渡辺三河守、同杢頭、馬屋原中務入道、所原肥後守、三吉大炊介隆亮、村上左衛門大夫康亮らが神辺城の坂を駈け登った。城方は、大手には大木、大石を積み上げてこれを投げ降し、搦手には弓、鉄砲を並べて急射し、攻撃軍もこの日は攻めあぐんだ。翌日又、大手へ五百人、搦手へ千人僅りが攻め登っては激しく突掛け、数度の決戦の末、漸く詰之丸まで攻め登ったと云われる。
この戦いで楢崎三河守は末子少輔三郎と共に、城上から見降す弓・鉄砲をものともせず、一気に攻め登り、少輔三郎は皓玄の嫡男新介広吉と巡り合って決戦、遂に新介を倒した。新介広吉は「大勇力にて大太刀を遣ふ」 『西備名区』)と云われた勇者である。彼が奉納した太刀は吉備津宮にあって、柄は五尺八寸、刃の長さ七尺であったと云い、「野太刀は帯刀にあらず、古へは今の鎚のことく下人に持せしなり」と云われている。これを見て陪玄は、鉄砲を以ってこの楢崎少輔三郎を射てこれを倒した。
永禄十二年(1569)八月三日に取り掛かった戦いは八月七日頃まで激戦を続けていたと思われる。
また皓玄の盟友だった大江田隼人介は、渡辺源三高に討たれたという。この時の渡辺源三高の奮戦について『沼隈郡史』に奮戦記が載せられている。
皓玄の死と一族のその後 ⇒ 備中大島石砂 ClickHere
皓玄は備中浅口郡に入り、西大島の石砂(いしさご)で鴨方の細川下野守適量の勢に襲われて自刃した。
「夜に入て備中の浅口へ落行き、両高山にて討死」 (『谷以燕所示書』)と云う。現地は西大島村の両高寺山、本名御嶽山である。かつて山上に両高寺という寺があったのでこの寺名をとって山を呼んだという。この石砂に小池があり、その塘が自刃の場所である。今、田の間に篠叢があり、そこに里人が石を置き、その上に瓦の小祠を安置して藤井様と唱え、これを祀ったという。「備中誌』は谷以燕所示書を引用し、その後へ、
「小寺云、本州淺口郡大島村に古墳有赤澤修理亮といふ人、藤井廣玄、同市之丞を討取て埋めし墳也と、彼村人の言伝えたるを書たるものを先に見し也、今其書物を己がもとに蔵む、事の始末よくあへり、此の書物空言ならざるを相めでざらめや。」
としている。即ち、小寺清之が云うには、「赤沢修理亮(細川家臣)が、藤井陪玄を討ち取って埋めた墓所であると村人が言い伝えたとする書を読んだことがあるが、今その書物を自分の手許に持っている。事の始末はよく合致しており、その書が虚言でない事を質さずにおれない。」というものである。
その日時については、『川相誌』は永禄十二年八月十六日と断じ、浜本憲章は同年八月十八日(又は廿一日)としている(『備後史談』第十二巻)。
その後、皓玄の首級は楢崎三河守の手に依って緑井の毛利元就の本営に運ばれて一見に供された。
元就は大いに喜んで、直ちに庄原兵部少輔と渡辺新右衛門尉を楢崎方に遣わしその軍功を賞でている。
庄原兵部少輔は元親といい、渡辺新右衛門尉は沼隈郡山田の人である。
親族消息:
長男 新助廣吉 永禄12年(1569)8月、神辺城にて討死。
二男 市之丞広貞 皓玄の落城に同行し死後、吉井に帰る。再度おなじ場所にて自刃(?)
三男 喜三郎好友 永禄12年(1569)8月21日、重玄寺過去帳。
四男 好恒 神辺合戦当時、好恒は10歳に満たない少年だった。
皓玄により藤井一族の血脈を絶えることを憂い成羽の三村親成を頼った。
好恒は成羽城主三村親成の庇護の下で成長し、小坂信濃守利直と名乗った。
後に水野勝成が備中を放浪中、成羽の三村親成方へ寄宿した。そこで小坂利直の娘・
於登久と懇ろになり、勝俊を生んだ。
好恒は後に、吉井村田中に閑居して藤井道齊と名乗り、医業を営んだ。
<注> 谷以燕は江戸時代後期、備中大江村(岡山県井原市)の数学者。
消渇神社(しょうかつじんじゃ) 井原市観光協会
消渇神社の主神である一豊姫は、戦国時代末の天文永録年間、この備中国後月郡(現在の岡山県井原市高屋町)で活躍した豪族・藤井能登守皓玄の姫でした。社家の伝承によれば、姫は日頃身体病弱で天照大神少彦名命大国主命を厚く信仰していたのですが、年壮にして激甚な消渇(婦人病)に悩まされ、遂に立つことができず、死に臨んで「私は今消渇で死ぬが、叶えられるなら霊神となって私と同じ様な種々な病に悩む婦人を守護しよう。どうかこの地に神と祀ってもらいたい。」と言い残したので、人々はこれを消渇様としてあがめ祀ったのがそもそもの始まりとされています。 天和3年(1683)頃から信仰が起こり、近年では中国地方はもとより、九州方面からも御利益を求めて多くの人が訪れます。大祭日は12月の第2日曜日となっており多くの人で賑わいます。
☆2009/05/05 行ってみました消渇神社 → ClickHere
☆2009/08/25 藤井皓玄の歴史的痕跡
①大友宗麟から藤井皓玄への使者が備中田島で捕縛される(「内海町誌」より引用)
村上家に伝わる文書。「萩藩閥閲録」より
永禄13年(1570)8/03 毛利輝元謹言 南方宮寿殿 南方宮内少輔殿 己斐豊後守殿
本文「従豊州廻文之者両人 至田嶋罷渡候興 則被搦取之由尤肝要候
右両人ニ宿借候者之儀 是又小野与次郎ニ申理搦置之由 誠各無油断拵祝着候
證跡無紛儀候条 可加誅伐之候 猶従各所可申聞候 謹言
(永禄13年)八月三日 輝元御判 南方宮寿殿 南方宮内小輔殿 己斐豊後守殿」
」
村上就常が没した永禄十二年に、田島で事件が発生している。それは豊後大友宗麟の使者が田島に潜入、捕縛されるというものである。 この使者は、藤井陪玄に連絡を取ろうとしたもので、神辺城を巡り、城将杉原盛重の留守に藤井皓玄が村上就常が没した永禄十二年に、田島で事件が発生している。それは豊後大友宗麟の使者が田島に潜入、捕縛されるというものである。 この使者は、藤井陪玄に連絡を取ろうとしたもので、神辺城を巡り、城将杉原盛重の留守に藤井皓玄が蜂起し、神辺城を奪取したものであるが、藤井氏は大友宗麟に援軍を乞うていたものと思われる。この事件で大友方の密使に宿を提供した田島の者も召し捕えられている。
②備中大津野村に残る藤井皓玄伝説(「大津野町誌」より引用)
1-JR大門駅の真北に聳える標高△141mの頂上にTV塔が見える山を明知山という。
この山頂にかって中世山城があった。明知山城という。城郭跡にこんな説明板がある。
『元徳二年(1330)頃飽浦(あくうら)四郎左衛門が初めて城を築いた。享禄三年(1530)~天文十六年
(1547)尼子方の武将岡氏が大門に進出し、城山に拠(こも)った(枝廣城えだひろじょう)が、このと
き明智山と連携してこの地を守った。
さらに永禄十二年(1569)には藤井皓玄(山名の家臣)が一時ここに籠もった伝えられる等、戦術上
の要地としての物語が残る。』
2-同上の根拠として「備後三誌」と呼ばれる歴史古書に藤井皓玄が名を連ねている。
「備陽六郡志」⇒ 宝暦8(1759)年、宮原直伽著 ……大門村に古城2カ所、城山と明知山城、城主
は城山が(小早川家臣)岡志摩守景勝、明知山城が藤井暗玄。
「西備名区」 ⇒ 文化元(1804)年、馬屋原昌平著……大門村に明知山城、当城は大永年間
(1521~27)開築して住みしという。城主岡志摩守安氏、岡志摩守安清、岡志摩守
景勝、河野(藤間)光重、藤井浩玄とある。
「福山志料」⇒ 文化6(1809)年、菅茶山ほか……野々浜村に明知山城、城主は塩飽太刀助、
藤井太郎左衛門光重、藤井能登入道略玄とある。
3-大津野には藤井皓玄が豊州大友宗麟の手配で「松浦党」が運ぶ鉄砲の到着を三日間待ったという。
しかし鉄砲なる積荷の船はついに姿を見せなかった。皓玄が致仕(失脚)した直後の弘治3年(1557)
頃か。(現地聞き取り情報)
③井原大江滝山城を藤井皓玄が占拠(「史談いばら」会報より引用)
天文21年(1552)の志川滝山合戦で宮一族と毛利軍が激突する。この時この大江滝山城も落城し城主宮入道光音・常陸守光寄は討死。攻方の毛利の家臣宍戸孫六家安が入城した。その16年後の永禄11年(1568)7月3
日、朝靄をついて藤井皓玄と大江田隼人祐広則が攻め落城させた。皓玄は翌年に有名な神辺城占拠に成功するものの2ヶ月後に敗送、その後は後、毛利に服属した宮下総入道応政が天正年間(1573-91)奪還し居城した。秀吉の朝鮮出兵の頃、文禄元年(1592)九州下向のさいこの辺りの城は廃城となる。
④「笠岡史談会・古文書にみる笠岡の武士」 住友巴氏著
(田島金蓮寺文書)田島村上へ毛利家より通達書
今度神辺不慮出来候処、別シテ御馳走之故ヲ以テ、則チ切返サレ候、御入魂之通り盛重弥八郎又次郎所ヨリ申越サレ、御祝着此事ニ候、委細ニ付
盛重申サル可ク候。恐々謹言。永禄12年(1569)八月廿五日 輝元花押、元就花押 村上左エ門大夫殿
(重玄寺文書)皓玄子孫六郎右エ門の嘆願書
藤井六郎右エ門口上書控、「恐レ乍ラ願イ奉ル口上書」
拙者先祖藤井能登守入道好元ハ山名宮内少輔ノ幕下、永禄之頃(1558-1570)備後安那郡神辺之城主也。
毛利元就ノ為落城、備中浅口郡大嶋ノ浦ニ於テ戦死、右好元子孫当村ニ罷在リ。其後曾祖父藤井□負、水野日向守方ニ相勤メ申候。伜先ノ藤井六郎右エ門病気ニ付、断り申達シ暇ヲ取当村ニ居住仕候。親類書差上申候、右ニ依テ前々御代官様亦ハ御地頭領之節、帯刀之儀願イ奉リ候処、枢気御尋ネ遊バサレ相違御座無キニ付、古郡文右エ門様迄御代々願上候通リ仰セ付ラレ刀帯来リ候。(中略)
前々之通リ仰セ付ケ下サセラレ候ハバ、有難ク存ジ奉ル可ク候。以上。
享保7年(1722)寅八月 備中後月郡吉井村ニ移住仕候 藤井六郎右エ門 平岡彦兵衛様 岩出彦兵衛様御役人中様
⑤「第二集穴の海探訪の記録」 鎌田一氏著
(楢崎城史話)関係記事よりpage311
大友宗麟より皓玄への書状
「去十八日備後神辺城乗取、達本懐之由祝着此事候、弥々堅固尤以肝要候、仍煙硝事承候条、
三壺進之候、委細以使者可申候、委細以使者可申候、恐恐謹言 七月五日 宗麟花押
藤井能登守入道殿」永禄12年(1569)
尼子勝久より皓玄への書状
「今度一八日備後国神辺敵城被乗取候条、注進被見仕候、家臣一同驚耳目候、誠名誉之儀無比類候、
此相達本望、家再興儀、大喜悦候、就而依約束、備中国旧本領安堵、備後外郡山名方旧領一円
宛行候、並代官職一ケ所申シ付ケ候、弥々忠義奉公肝要候、恐恐謹言、永禄一二年六月二九日
勝久 花押 藤井能登入道殿」(1569)
毛利元就より楢崎三河守宛て書状
「今度於備後謀反人悉討果、剩神辺之要害無異儀取返一国及平均事貴殿之働無比類段忠節感悦候
元亀元年11月16日 元就 花押」(1570)
⑥「井原史談会報 古記録からの郷土史探査」 下出部 藤井敬一氏著
(吉井天神山城主光田氏消息)
「光田二郎兵衛尉 正慶二年(1333)後醍醐天皇隠岐島還御之砌属成合氏馳参テ船上山奉警護テ光田依賜 性光田且賜後月郡之内千貫住天神山城
応永元年(1394)為先祖菩提建立一箇寺於城畔号本光院奉安置観世仏矣
天文丙申(5年1536)藤井広玄与平川久親矛盾興テ藤井氏防戦
天正二年(1574)与毛利戦 十二月十九日国吉城陥 吾居城天神山城亦陥暫蟄居テ中之邑
後移住後月郡簗瀬邑
天正七年(1579)七ツ塚之役 出戦同五年奉勧請鎮守八幡宮棟。
⑦ 明知大明こと谷尾神社伝承
福山市大門町野々浜に谷尾神社がある。祭神は素盞嗚命で創建などの詳細は不明なるも、大門地区内では古くから藤井皓玄を祀った社であると伝えられている。
「大門町誌」には明智山城内にあったが、現地へ移されたと書かれている。 ⇒ ClickHere
⑧「小田郡誌」の藤井皓玄
永禄十二年に神辺城を占拠した藤井皓玄は、杉原播磨守重盛が九州より帰城する前に守備軍である所原肥後守・楢崎三河守などの軍の反撃によって神辺城は奪還された。
これにより、「皓玄破れて浅口郡大島村に逃れて討死す。同地に其墳墓と傳ふるものあり。或いは曰く、皓玄は降りて深安郡大門の揚知山城に居り、民を恤むこと深かりしにより、其死後明知明神と祀れりと。皓玄の頸は楢崎三河守豊景の手により元就の本陣に送れり。(萩藩閥閲録)。」
⑨「萩藩閥閲録」の藤井皓玄、「井原市史」史料編より
藤井氏が高屋要害を攻めるという
「小早川隆景書状(永禄12年10月15日)乃美文書正写 態申下し候、一藤井事、山野・吉井の間一城を取り付け候か、二~三日以前より 高屋要害に至り打ち出でられ、云々(以下略)。」
巻53楢崎与兵衛 (永禄12年)「同年10月、
楢崎三河守豊景備後神辺の城を取り返し、藤井入道首を 使者を以て元就公御陣所へ送り候のところ御感遊され、庄原兵部丞(元親)・渡邊 新右衛門(就国)両人備後へ遣わされ、豊景老身の軍功は比類なくとの儀(後略)」
⑧「芳井町史」の藤井皓玄
ご当地井原『芳井町史』の皓玄
引用文献が明確表示になっているし、流石調査は多彩であるし広範である。
1-藤井姓の苗字は諸国に分布している(「姓氏家系大辞典」5,212頁)
2-当地でも芳井町・井原~神辺にかけて頗る多い。諸誌を参照
藤井六郎 「太平記」巻七、船上合戦の事。巻十四、諸国朝敵蜂起の事。 「和気絹」(高木太亮著、1709)備前 国邑久郡藤井村の武士とする。
「古戦場備中府誌」浅口郡柏島村畑山城主藤井六郎忠広とする。
3-同誌では皓玄を山名氏の一族とす。(後月郡高屋城&正霊山城)
「井原市史・資料Ⅲ」212頁、藤井六郎衛門嘆願書に山名幕下と記述。
4-備中藤井氏といえば、他にも吉備津神社社家の賀陽姓藤井氏あり。
5-「井原市史」Ⅲ(資料編206頁)井原奥里地域の下級荘官だった。
6-「神石郡誌」421頁
神石高原町近田の正光寺伝承に「永世(正か?)二年(1505)備中大滝城(所在地不明)藤井蔵人が襲来し寺領掠奪と伽藍焼失があった」
7-「水野記」十四、(広島県史近世資料編Ⅰ1,161頁)
神石高原町時安の光福寺に「中古藤井某の兵火で炎焼した」と伝る。
8-「古戦場備中府誌」川上郡中山城、川上郡の平川久親と楯鉾に及ぶ。
9-「陰徳記」天文22年(1553)毛利・三村が庄猿掛合戦時に防戦した藤井 四郎三郎が活躍(巻23、三村毛利家に属す事付備中猿掛城合戦の事)
(同書巻19、久村玄蕃允誅さるる事)に反大内の安芸の久村玄蕃允が 藤井某と共に尼子を備中へ手引きに失敗した、とあり。これ皓玄か?
10-「系図」川合文書
永禄2年(1559)2月、皓玄は叔父河井高列と語らい神辺城奪取と画策するが露見し、皓玄は京都へ逃れ、高列は戸木荒神山城(井原下出部)吉岡 政栄に討たれた。この敗因が九州松浦からの援軍が来なかったこと。
二百年後の宝暦6年(1756)に吉岡家が河井高列供養塔を建立した。
11-浜本憲章著「藤井皓玄と神辺城奇襲」&「備後史談」1936刊ほか、後世の軍記本「後太平記」(1677)「谷以蒸所示書」「藤井系譜」など
永禄12年6月18日未明、藤井皓玄が城主杉原盛重が筑前立花城(福岡市東区・糟屋郡新宮町・久山町)攻めで留守城を攻撃の顛末の記述あり。皓玄と子息市之丞広貞は大島で討死。
12-「萩藩閥閲書」53、楢崎与兵衛書
皓玄の首級は楢崎豊景によって元就陣所(佐東郡緑井・現広島安佐南区)に届けられた。
同書33巻・粟谷勘兵衛家54号に8月1日付の毛利輝元書状に
「神辺へ国右(国司元武)・兼弥(兼重元宣)・児小二(児玉元良)を遣わし候」援軍を送った記述。
同書56巻・三戸平左衛門家五号に福原貞俊より三戸元貞宛て書状 「去七日神辺陣表に敵罷り出る時(中略)鉄砲をもって敵数人を討ち伏せられ候」皓玄軍の鉄砲使用の記述
13-「備後太平記」(著者不詳、宝永7年1710以降の成立軍記書)備後叢書6蔵
皓玄が鉄砲を使用し子息広吉を討ち取った楢崎少輔三郎を撃つ。
14-「広島県史」古代中世資料Ⅳ・乃美文書29号
永禄12年10月15日、隆景からの援軍要請文
「(藤井が)山野と吉井の間に一城を取付候か、二三日以前より高屋要害に打出られ(中略)、追い散らし候事成らず候」敗戦後のゲリラ戰だと云う。
15-「萩藩閥閲書」53、楢崎筑後守御断書写、楢崎与兵衛書23号
楢崎自身は皓玄蜂起の背後に三好氏を推測している。 また備南有力国人たち有地氏(宮一族)・木梨氏(杉原一族)の城に兵投入
16-「萩藩閥閲書」47、南方九佐衛門家文書18号
毛利輝元が豊後からの廻文をもった使者が田島で捕らわれたことに8月3日付け文書で賞している。(大友宗麟からの密使)
17-「西備名区」(巻31、深津郡大門村)
皓玄は郷里の長元寺(重玄寺)に葬られた。
18-「福山志料」菅茶山著1809年刊(巻8、人物)
皓玄は討死した西大島村御嶽山の麓に葬られた。
19-「藤井皓玄と神辺城の奇襲4」「備後史談」
元禄年間(1689-1704)ごろまで子供たちが五節句に「こうげん、いちのじょう」と口々に名乗り戦いの真似をして遊び戯れたという。その場所には「藤井皓玄様」という小祀があったが、大正時代初頭に東京市長阪谷芳郎の撰になる碑建立
20-明知大明神について「福山志料」(巻13、深津郡野々浜村)
皓玄は討死した西大島村御嶽山の麓に葬られた。
「藤井能登守入道皓玄は平生憫農の心深かりし故、家亡びたれども所の人旧徳を慕いて神に祭る」
21-「大津野村誌」神原健之助著1940年、1988年野々浜公民館復刻19-20頁
「元明知山城にありしが、笠岡湾を航行する船舶に度々害を及ぼせしにより、
何時の頃か河口境谷尾に移し祀る。よって谷尾明神という。その後害を及ぼさず」
22-「井原市史Ⅳ」753-755頁
井原市高屋の山間に皓玄のムスメ「一豊姫」を祀った消渇神社がある。
この近隣は永禄12年の戦乱の場となった。
⑨「岡山県古文書集3巻」の重玄寺文書より
皓玄の子孫藤井六郎右衛門の『帯刀の願口上書』案
『乍恐奉願口上書
一、拙者の先租は藤井能登入道好元、山名宮内少輔の幕下、永録の頃、備後安那郡神邊之城主也、
毛利元就に落城、備中浅口郡大嶋浦に戦死、右の好元子孫が当村に罷り在り、其後私の曾祖父
藤井靱負、水野日向守方二相勤め申し候、忰は先の藤井六郎右衛門病気に付き、申達を断ち暇
を取り、当村に居住つかまつり候。
親類ども今もって御大名さま方に数多あい勉め罷りあり候、すなはち親類は書を差し上げ申し候。
右により前々御代官さま、または御地頭領の節、帯刀の儀を願い奉り候の処、枢機おん尋ねあそ
ばされ、相違なく御座につき、古都文右衛門様まで御代々願いあげ候の通り仰せ付けられ、帯刀
来申し候。もっとも御人御用の節は呼び召され、拙者相應の御用仰せ付けられ、相勉め候の儀も
度々御座候。恐れながら右の段聞し召めなされ届け、前々のとおり仰せ付けくだされ候は有り難く、
奉るべく存じ候。以上。
享保七年寅(1722)八月
備中後月郡吉井村に居住つかまつり候 藤井六郎右衛門
平岡彦兵衛様・岩出彦兵衛様・御役人中様
(重玄寺住職藤井宗昌氏所蔵) 』
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更新2010/04/20 |
2009/03/31 |

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