| 備中国大津野村東谷「枝廣城」△89.2m 別名「城の段」or「揚地城」、築城は岡志摩守道景勝 |
訪問DATE: 2009 07 24 ![]() |
![]() |
| 「枝廣城」 (「大門町史」の記述より抜粋) 大永年間(1521-28)小早川の家臣岡志摩守景勝が築 城。その後、天文年間(1532-1555)に伊豫国河野一族・ 河野刑部左衛門光重(一名藤間太郎左衛門光重)が明 知山城を攻めた。景勝の父安氏は討死、景勝は上方へ 落ち延びた。地元民は景勝一族を悼み祠を建てた。「惣 堂社」という。 河野刑部左衛門光重は2人の息子光明・光圓と共に在 城したようだが明確な資料はない。(大門町史では30-40 年間) この光重は備中陶山一族との交戦で討死する。 「西備名区」につぎの記述があるという(要約)。 天正年中(1573-1592)、笠岡城主陶山弾正忠国時は500 余騎で七隠山に陣を張る。両軍臨戦態勢下、国時は詭計 を用いて光重軍と和平を締結し、兵士を天神祭礼の芝居 に招き、その隙に乗じて城に攻め込んだ。 光重が討たれたのは「備後太平記」では大門から伊豫へ 渡る船着場の「帆出の渡り」で矢に射られ落命したという。 光重を射落した武将は国時の弟陶山国定の部下、時友 という。光重の嫡子光圓は尾道に落ち延びており、この光 圓が後に出家し光圓寺を開基した(「光圓寺縁起巻物」)。 賀茂神社を河野万之丞光圓が守護神として祀ったとある。 |
|
|
2009/07/24 Created 郷土史情報の柔軟性 「大門町誌」は素晴らしい資料である。説明文も最新学説の掲載と地元郷土史探求の方々の主張もとりあげながら既存の情報 を網羅している。専門の先生方にお願いして3年の年月をかけ編集の後、出版された町史の集大成と聞く(2003/11委員会刊)。 冒頭に大門の山城を論ずるにあたりまず引用資料の「備後三誌」をあげている。それは「備陽六郡志」(宝暦8年(1759)宮原直伽 著・「西備名区」(文化元年(1804)馬屋原呂平著・「福山思料」(文化6年(1809)菅茶山他著である。いずれも二百年前の出来事 を綴った書であり、同時代的に記録された書ではない。従ってその記述内容にも違いがあるという。ごく当たり前の話であろう。 「備陽六郡志」の古城の記述:大門村に古城2ヶ所、城山(岡志摩守景勝)・明知山城(藤井皓玄)、野々浜村に1古城(塩飽太刀 助、藤井太郎左衛門光重)、津之下にはなし。 「西備名区」の記述:大門村に明知山城(大永年間より城主岡志摩守安氏・岡志摩守安清・岡志摩守景勝、河野(藤間)光重、 藤井皓玄)。野々浜村に明知山城(城主飽浦四郎左衛門尉、塩飽太刀之丞、藤間太郎左衛門光重、藤井太郎左右衛門好長、 藤井三郎左衛門(光圓)、藤間十郎(光明)、津之下村なし。 「福山思料」の古城の記述:野々浜村に明知山城(城主塩飽太刀助、藤井太郎左衛門光重、藤井能登守入道皓玄)、大門村に 城山城、津之下村はなし。 「備後太平記」と「備後郷土史談」はこの三誌をもとに書かれてきたと思われる。 明知山城は枝廣城の支城だとの説もあるようだが、天正年中に笠岡城主陶山弾正忠国時が突然出てくるのも面白い。陶山一族 は永正3年(1506)に笠岡山城を村上隆重に明け渡して神島へ落ち延びたというのが笠岡側の歴史である。(w) さて、真相は? 同じ「大門町誌」光円寺の項には次ぎの如く明あり。 『海雲山浄土真宗大谷派末寺。大門城主河野行部左衛門光量の子立円の開基。弘治2(1556)年河野家、平家万の国時と戦う。 (国時とは陶山一族のこと)笠岡城主として代々忠を尽くしていたが両家は兄弟、親子のようであったがいささかのことで闘争に なった。 そして光量と弟幾三郎光明は、備中西沙(西浜)で討死した。立円俗称満之丞光円は、この戦で揚知城を守っていて 死を供に出来なかったことを味気なく思い、せめて後世を弔いたいと出家をする。』 河野光重が陶山国時と交戦した年代がここでも27年間の差違が出ている(w)。 |
位置図: 福山市大門町東谷 <周辺史跡 サイト内・リンク> 明知山城 → ClickHere 高丸城 → ClickHere(茂平村) 知原池合戦 → ClickHere(知原池) <周辺ふぉっと> 2009/07/24 Rain Day 枝廣城概観 → 東方より神原酒造の煙突越しです 々上明知城との位置関係 → 直線距離で約600 m、明知山が東寄り 枝廣城のぼり道 → 途中で間道を右折、直進す るとテニスコートへでます。 間道の石造物 → 地神(?)・不空羂索観音(ふく うけんじゃくかんのん) 本郭の三社 → 山上神社・石鎚神社・稲荷神社と 聞いていたがすべて荒廃。参道の 注連柱と石灯籠一基、ありました |