夕日で紅く染まった沖の弁天さま。
本島側に恵比寿神社が鎮座する。


海水浴場を目指して、ぞろぞろと歩く。右手には福山港が夕日と共に広がって見える。


桟橋をあがって目に入る白石の碑
燈台のある島が沖ノ白石。岩礁が
あり潮流が速く、海の難所だ。
近代装備の現役の船舶がこの燈漂
に座礁する。ClickHere


白石島(笠岡諸島)


花崗岩の地肌が遠くから白い雪をかぶったように見えることから、白石島と呼ばれる

地名考

 笠岡港より南約12kmの瀬戸内海国立公園笠岡諸島にあり、北木島の北、高島の南に位置している面積2.86km²、最高点169m(立石山)、人口750人(2001年)の島で全島が国指定の名勝に指定されている。
この島はお隣の真鍋島とちがって水軍を擁する武家下克上の覇権争奪の中世文献へ登場は少ないものの、平安時代に弘法大師空海がこの島内に逗留したと
伝えられ、神島八十八箇所の奥の院として今なお信仰の対象となっているそうだ。

 時代は下って江戸初期の水野藩統治となった頃、領内の第四番目の湊としての役割を担った。島内に番所が設置され、航行する船の安全を守ると同時に、諸大名の上下刻、御公儀御荷物才料、馳走進物などの役割があった。
江戸時代には寛永十二年(1635)に参勤交代の制度が定められ、西国各藩の往来が頻繁にあり、当時の大名たちは西より大阪までは船で、大阪より陸路江戸に上るのが主流だった。白石は瀬戸内海の中央部に位置し、古代より鞆津と同じく潮待ちの良港として知られており、入江には潮と風の変わりを待つ仮泊船がいた。

17世紀中期、長崎出島に二年間オランダの医師として逗留したドイツ人エンゲルベルト・ケンペルEngelbert Kaempfer, ドイツ語読みではケンプファー、
1651年-1716年)の「日本誌」からの記述引用が笠岡市史にあるので、以下転記する。
『博多の殿様は約五十隻の大船・小船に分乗して、雑然と櫂音も騒々しく(白石港の仮泊地から)漕ぎ出していくのを見た。と記している。
 このことから博多の松平美濃守五十二万石の城主の格式も想像できるのである。。。。備後岡山の殿様を例にとると、江戸への参勤交代の旅行規模は600~700人、岡山と江戸間175里(約700Km)を約20日で移動した。』

景色考

 白石踊り:(笠岡市HPより引用)

 源平水島合戦で戦死した人々の霊を慰めるために始まったと伝えられる踊りで、もとは回向踊りと呼ばれていた。
盆踊りは一般的には単純素朴なものであるが、白石踊は一つの音頭と大太鼓で男踊・女踊・娘踊・奴踊など十数種類の異なる踊りが一つの輪になり混然一体となって雄壮活発・豪華絢爛に踊られる全国でも他に比を見ないもので、高く評価されている。
毎年8月14日から16日にかけて夜を徹して踊られる。また、7月20日から8月13日までの間の土曜日には午後8時から観光用に海水浴場砂浜で踊られる(雨天中止)。 岡山県下三大踊りのひとつで、国指定重要無形民俗文化財としての指定も受けている。

 保存団体は「白石踊会」そのパンフには、、
「踊りの最大特徴は、ひとつの口説き(音頭)にあわせて何種類もの踊りを踊る点である。
 現在では、男踊・女踊・娘踊(月見踊)・奴踊・扇踊・二つ拍子・大師踊・阿亀踊(おかめおどり)・梵天踊(ぼんてんおどり)・ブラブラ踊・鉄砲踊・真影踊(まか
 げおどり)と、都合13種類の踊りが伝わっている。
 また、白石踊は先祖供養の年中行事として踊る以外に、旱魃の年におこなう雨乞い・雨喜びの感謝踊りとしての役目をもつ。
 当初の音頭は多数あり、最盛時には60余種の唄があったとも言うが、今日では20余種の唄が伝わっている。代表的なものとして、「那須与一」「石童丸」
 「丹波与作」「賽の河原」「山田の露」などがある。
 これらは特に白石島にちなんで作られたものではなく、上方方面からの影響を受けて成立したものではないかといわれ、讃岐の金比羅参りの際に、浄瑠璃
 本を購入してきては音頭本に改作したという話も伝わっている。

No. 表題 Title   内容 Contents
001 2008/07/19(Saturday) 白石踊り観賞サンセット・ツアー で白石島上陸  画像みる    ↓
    
 
 当日のツアーは当初募集員数が150人のところ、応募したのが130人だったとか。
笠岡市内の在住よりは、市街地からの参加が多く、見学・観賞というよりは踊りの輪に参加するという趣旨での応募者が多いように見受けられた。

笠岡の桟橋を17:30時に出て約30分あまりで白石島に到着、踊りの会場は海水浴場の砂浜だとかで、徒歩にて移動した。
帰路は20:40時、踊りの浜辺を港に向けて出発、徒歩移動し臨時の渡船に乗船後21:00時に島を出発。
笠岡港は21:30時着、ひと気のない浮桟橋は真っ暗だった。

002  白石踊りという島の固有無形文化を今に伝え、次世代への継承を支える先生方のご紹介  画像みる    ↓

保存会
が踊る
 白石踊



同上動画


 マイクをもった左端の人が今回のツアー仕掛人、「NPO法人笠岡づくり海社」の方。
あと、その右側にずら~っと並んだ方々がこの文化財を継承し発展させご活躍の中核となっておられるインストラクターのみなさまだ。

 踊りは基本的には6拍子の繰り返し。足の運びと手の振りにあわせ身体の重心を音頭にあわせて移動していけば、「はい」の掛け声
で左足の踏み出しができるようになれば一人前です、との踊りの説明があった。
身体の前で合わせる掌は、拍手ではなく鎮魂の踊りなので、パシッと音がでないように祈りの真心となるよう気をつけて。。。

 一般からの参加ウェルカムで、老若男女元気のある方は輪に入って、踊りを習い身体を汗をかいておられた。
此の後、30人弱の子供たちの踊りが披露された。
三歳の幼児から中学生まで、全島員が集合して今はこの人数だそうで、反面70才以上の島民の数が230人。
島民全体で750人ほどなので3割が70年代、しかもこの伝統的な地域民芸を担って活動されてる方の高齢化の問題は聞かずもがな、
どの年層が継承していくのか、白石島だけの対応ができなくなるのでは、と誰しもが思うことだ。

子供踊りのあと、いよいよ大人踊りの披露があった。
砂浜で踊るのは足が深く沈むので負担が多く、長い時間は踊れないとも。
踊り手はいずれもプロだ。
動きのひとつひとつにメリハリが利いているし、目線の動き、と身体の重心の移動など子供時代から培われた地域の伝統がなせる業だと
思えるような全体的な伝承の優雅な踊りであった。

003
 この時、踊りのビーチを夕日が直撃、まさに水平線に沈む直前、厚い雲の切れ目から陽光が溢れた瞬間 画像みる    ↓

ビーチに
寛ぐ
島泊の
面々


 土曜日の太陽が水平線にまさに沈もうとしたときに、空を覆っていた厚い雲が突然、切れた。

わずかな雲の隙間から陽光がどっと海にこぼれ、海面に反射し、夕暮れの汚れた空気の塵埃に乱反射して真っ赤に染まった瞬間だ。
カメラで踊りを撮っていた人々は、驚きの声をあげながら浜辺に繰り出した。
わたしも釣られて、バカチョン機のシャッターを押した。 光源にむかった時のシャッターの切り方に何の配慮も知識もなきまま、いつもと変わらず
撮った絵がこのショット。

ところで、このビーチには外国からのツーリストやテント持込のキャンピングファミリーなども散見。
本土への最終船便が5時すぎなので、この浜に残留してる人々の足はすでにないはずだ。
三々五々と水際の浪打際に腰をおろし、夕日をながめ、涼を取り、歓談しながら静かな島の時間が流れていた。

砂浜での踊りは再度、一般参加の賑わいで夜更けて暗くなるまで提灯に灯がともっていた。

004
2009/09/02 13:30~16:00 「県西部の文化」学習初日、白石島を訪問 ⇒ 再訪問2010/11/18 with OshimaClubMemberts

 午前中は里庄大原古墳群を訪ね、食休はバス移動、神島外浦から高速艇で白石島へ渡った(総勢40名のParty)。
  白石島公民館長天野正氏より島の説明を聞く。
白石島の面積は2.86Km2、周囲は10.1Km、島の人口は349世帯で665人。
そのうち、高齢者が多く65才以上が58%を占める。子供の数は小学生が18人と中学
生は8人で、きたるべきニッポンの高齢化社会を先取りしている感があります。
かっては漁業や花崗岩の採掘などが盛んで島にも人が溢れ、劇場などもありました。
ところが近年では漁業が衰退し、石の切り出しも2丁場だけが営業をつづけています
が、お隣の北木島と同様に輸入石材に押されて厳しい状況です。
 白石踊りは、大阪万博の頃から全国的にも注目を浴びるようになり、昭和51年5
月4日に国の重要無形民族文化財に指定されました。源平水島合戦(寿永2-3年:
1183-4にかけての水島・藤戸合戦)で戦死した平家方の霊を弔いがその起こりとか
云われていますが、当初の衣装は今ほどきらびやかなものではありませんでした。
TVなどで放映される演出用に派手な意匠がとりいれられた傾向があります。
現在でも島の南端の乳石付近には矢守・舟かくしなどの源平合戦を彷彿とさせる地
名が残ります。(公民館長天野氏HP(外部リンク) ⇒ClickHere 
 島の渡船場を上がると「名勝白石島」と婢と白石踊りの写真婢が出迎えてくれる。
この婢のすぐ左手の岩壁には不動明王の仏像が陰刻されている。地元の人は「波
切不動明王」と呼ぶそうだ。いかにも船の航行安全の祈りからの呼称である。軽快
な波切り航行をこの島を訪れる船人たちが祈願したのだろう。
 その隣の家が「泊まり屋」という屋号をもつ庄屋小見山嘉惣次邸である。文化3年
(1806)伊能忠敬の測量隊がこの庄屋宅に宿をとったという記録が「伊能忠敬測量
日記」に記されている。
 白石島は花崗岩の島であり、山の頂・中腹などに露出した巨岩が目立つ。古来は
漁撈に従事する舟や航行船などの山だて・目標物に利用されていたのだろう。
ババ石・明石・亀石・烏帽子岩・比丘尼岩などと命名されている。
変わったところでは開龍寺境内にある「市郎兵衛の力石」(二百貫・200Kg)がある。
周防国(徳山市)の市郎兵衛という男が21日間の弘法大師への願かけで強力を授
かり、お礼参りに杉百本を植えたと伝わる。彼の甥は寛政11年(1799)に長崎で沈
没したオランダ船の引き上げに成功し名を残した著名人。徳山市の櫛浜郷土史会と
白石島との交流が芽生えたという(外部リンク)。⇒ClickHere
 弘法山開龍寺 高野山真言宗 本尊観世音菩薩
大同元年(806)弘法大師空海上人が唐の国より御帰朝の際御留錫になり御開山さ
れる。元暦元年(1184)源平水島合戦の両氏戦没者の菩提を弔う為に一寺を建立
し弘法山慈眼寺と称す。
その後、寛永2年(1625)に至り備後(広島県東部)の福山城主・水野勝成公が堂宇
を再建し祈願所として「教海山開龍寺」と寺号を改めた。大師堂の前にある常夜灯
の燈篭は笠岡市指定美術品であるが、寛文十二年(1672)、福山四代城主水野勝
慶公(後に勝種、通称民部、従五位下・美作守)が寄進したもので、藩主をはじめ大衆の尊信を一堂に集めていたことを窺わせる。
境内には大師ゆかりの「衣掛けの木」や大師の霊力によって動かしたという「市郎
兵衛の力石」、「大師の水」、漁師が奉納した巨大な伊勢エビ額などがある。
 また寛保3年(1746)笠岡の人今田慧弦が当山に参籠の際弘法大師の夢告を受
け神島の地に八十八ヶ所の霊場を開創し当山を以て奥之院根本道場となす。
 巨岩を抱く大師堂、本尊は大師の杖で彫った身代わり尊像 ⇒ ClickHere
 ☆舟入番所
   寛永17年(1640)に設置。公用船の入出の記録
  ・寄航見張りと同時に風待ち・潮待ちの便宜をは
  かった。⇒ PhotoClickHere
 ☆四社神社
  開龍寺鎮守として勧請 ⇒ ClickHere
水野藩の水主浦(かこうら)指定
 
幕府の物資輸送・西国大名の参勤交代・長崎奉行や朝鮮信使の往来など公用
船の継船(つぎふね)・曳船・船頭・水夫などの常備にそなえて領内20村を指定し
水主役高合4,671石余を年貢控除とす。笠岡領内では、次ぎの村々。
 生江浜・西濱・笠岡・横島・神島内浦・神島外浦・白石島・北木島・真鍋島の9村
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水野勝種寄贈の石灯籠 ⇒ 開龍寺奥之院境内 2010/11/18訪問 ClickHere

 
2010/11/18更新 08/07/22