明治22年4月1日施行の法律第1号市制町村制 当時、有田村・押撫村・篠坂村・入田村の四村長が協議の末に撰んだ新しい村の名前は「陶山村」だった。 明治22年の町村制施行時の小田郡長髙戸源二郎は、陶山四村の新組織を決するためにそれぞれの村から各代表議員の有田村 手島菊治郎・押撫村西江民三郎・篠坂村西江久治郎・入田村関藤嘉三郎を郡役所へ召集した。諮問案は式内社が鎮座することから 在田村を提示したが代表者たちは即決を避けて一旦は帰村した。後日、篠坂村常光院に全議員が集まり、協議の結果、常光院什物 「永禄年間製涅槃像画幅箱記」に陶山庄と庄名を記していることから新村名を陶山と決定した。(この項「笠岡市史」地名編より) 陶山村の初代村長は 内山直三郎氏、447戸で村民数は2,324人、面積672.75町となっていた。 この四村は天領となるまでの統治経過 は笠岡・西浜のおなじく平安後期より陶山氏から村上、毛利、小堀、水野。また天領統治は天明 8年(1788)までは同一歩調だったが、 倉敷代官兼務~一橋家支配に分割されて明治維新を迎えた。 とはいっても天仁2年(1109)陶山和泉守盛高が源義親を討ち取り、恩賞として備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫の 恩賞を得て以来毛利勢の先鋒として笠岡攻略に功があった水軍村上隆重が吸江山に築城したのが天文年間(1534年ごろ)であった。 中世の笠岡は備中國の西のはずれに位置し大きな河がないために町の人口が増えることなく推移したため、中央の史誌に登場するだけの 活躍と個性に乏しく、文書史料に掬われる機会がなかった。笠岡市の教育委員会編纂の「笠岡市史」の内容をみても江戸時代以前の笠岡 はなかなかイメージの描き難い内容となっているのが残念である。 そうはいっても郷土史を愛する人々がいる限りは今後、埋もれた資料が発掘され、あるいは旧家の蔵から貴重な古文書が出てくるかもし れない。笠岡の中世は陶山一族の歴史から見えてくるとおもう。彼らは平安時代に武家社会から生まれ、それまでの貴族社会を変えるこ とができないままに表舞台から消えていった。この地に蟠踞した陶山一族もまた同じである。陶山一族の場合には平家衰退後は鎌倉の武家 勢力の一派に与し、弘安の役の活躍で恩賞として再び笠岡の領地をもらって里帰りを果たした。その後、鎌倉から室町の戦乱では武士の 義を貫くあまり勝ち組とはなれなかった。 この間、ざっと三百年、当然ながら徳川幕府天領統治期間よりも長いし、笠岡城を築城した村上二代統治期間は問題にはならない。 この事実が陶山一族へのこだわりの理由だし、また陶山氏という武将の魅力であろう。 ☆2008/08/18 神之峰のぼる Click Here 神之峰頂上には弘法大師、虚空蔵菩薩、観音菩薩の三体が祀られており、毎年八月二十、二十一の両日、教海住職が導師となって法要 を厳修されるそうだ。 備後国深安郡坪生に、陶山氏の一族坪生氏がいた。 「坪生村誌」には、備後の国坪生に寺を建立した陶山勘兵衛がいる。弘安四年(1281)に備中高松より移住してきたという。 また、同地の寒森神社に「天文六年(1537)丁酉霜月 陶山又次郎武高」とある古棟札が残されていることから陶山氏一族であることは疑い ないが、その系譜は不明である。 ☆2008/11/30 坪生村「寒森神社」訪問 Click Here ☆2009/07/09 大島字二階「陶山家累代墓」所 訪問 Click Here
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