篠坂・入田・押撫・有田の郷(旧陶山村)


『陶山氏顕彰会』発刊資料より歩く 2009/010/19

地名考
陶山村について>
 明治22年4月1日施行の法律第1号市制町村制
   当時、有田村・押撫村・篠坂村・入田村の四村長が協議の末に撰んだ新しい村の名前は「陶山村」だった。
  明治22年の町村制施行時の小田郡長髙戸源二郎は、陶山四村の新組織を決するためにそれぞれの村から各代表議員の有田村
 手島菊治郎・押撫村西江民三郎・篠坂村西江久治郎・入田村関藤嘉三郎を郡役所へ召集した。諮問案は式内社が鎮座することから
 在田村を提示したが代表者たちは即決を避けて一旦は帰村した。後日、篠坂村常光院に全議員が集まり、協議の結果、常光院什物
 「永禄年間製涅槃像画幅箱記」に陶山庄と庄名を記していることから新村名を陶山と決定した。(この項「笠岡市史」地名編より)
  陶山村の初代村長は 内山直三郎氏、447戸で村民数は2,324人、面積672.75町となっていた。 この四村は天領となるまでの統治経過
 は笠岡・西浜のおなじく平安後期より陶山氏から村上、毛利、小堀、水野。また天領統治は天明 8年(1788)までは同一歩調だったが、
 倉敷代官兼務~一橋家支配に分割されて明治維新を迎えた。
 とはいっても天仁2年(1109)陶山和泉守盛高が源義親を討ち取り、恩賞として備中国小田郡の内魚緒・西濱・甲弩・および三千貫の
 恩賞を得て以来毛利勢の先鋒として笠岡攻略に功があった水軍村上隆重が吸江山に築城したのが天文年間(1534年ごろ)であった。
 
 中世の笠岡は備中國の西のはずれに位置し大きな河がないために町の人口が増えることなく推移したため、中央の史誌に登場するだけの
 活躍と個性に乏しく、文書史料に掬われる機会がなかった。笠岡市の教育委員会編纂の「笠岡市史」の内容をみても江戸時代以前の笠岡
 はなかなかイメージの描き難い内容となっているのが残念である。
 
 そうはいっても郷土史を愛する人々がいる限りは今後、埋もれた資料が発掘され、あるいは旧家の蔵から貴重な古文書が出てくるかもし
 れない。笠岡の中世は陶山一族の歴史から見えてくるとおもう。彼らは平安時代に武家社会から生まれ、それまでの貴族社会を変えるこ
 とができないままに表舞台から消えていった。この地に蟠踞した陶山一族もまた同じである。陶山一族の場合には平家衰退後は鎌倉の武家
 勢力の一派に与し、弘安の役の活躍で恩賞として再び笠岡の領地をもらって里帰りを果たした。その後、鎌倉から室町の戦乱では武士の
 義を貫くあまり勝ち組とはなれなかった。
 この間、ざっと三百年、当然ながら徳川幕府天領統治期間よりも長いし、笠岡城を築城した村上二代統治期間は問題にはならない。
 この事実が陶山一族へのこだわりの理由だし、また陶山氏という武将の魅力であろう。
☆2008/08/18 神之峰のぼる Click Here
  神之峰頂上には弘法大師、虚空蔵菩薩、観音菩薩の三体が祀られており、毎年八月二十、二十一の両日、教海住職が導師となって法要
  を厳修されるそうだ。

備後国深安郡坪生に、陶山氏の一族坪生氏がいた。
「坪生村誌」には、備後の国坪生に寺を建立した陶山勘兵衛がいる。弘安四年(1281)に備中高松より移住してきたという。
また、同地の寒森神社に「天文六年(1537)丁酉霜月 陶山又次郎武高」とある古棟札が残されていることから陶山氏一族であることは疑い
ないが、その系譜は不明である。

☆2008/11/30 坪生村「寒森神社」訪問 Click Here

☆2009/07/09 大島字二階「陶山家累代墓」所 訪問 Click Here

 

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三宝院

篠坂・三宝院縁起 by 陶山公民館郷土史研究会

真言宗高野山派 篠坂山大坊泉福寺三宝院
本尊 聖観音菩薩二体、愛染明王一体
当地には、平安から鎌倉末期(780-1330)まで篠坂泉福寺大坊を中心とした十二坊(圓蔵坊・星蔵坊・善知坊・山手坊・慶蔵坊・法泉坊・北之坊・藤臨坊・中光坊・花関坊中之坊)が栄えていた。現在では地名と屋号にのみ往時の名残を留めている。その後、室町時代末期に永禄年中(1558-1569)に、常関山仮名沢城主・橋佐城主・小見山備中守三郎兼道の三人により、大坊を泉福寺教蔵院、圓蔵坊を亀福寺常行院、星蔵坊を善門寺観音院として、各々一寺を寄進し再興した。
時流れ、荒廃した三寺を再度統合し、昭和十四年(1939)に三宝院として再興し今日に至る。寺宝として、永禄十一年(1568)に笠岡城主陶山刑部高雅が先祖供養として常行院に奉納した絹本着色涅槃図一幅(笠岡市指定文化財)が残されている。
門前には泉福寺草創時代のものと考えられる仁王像が保管され、その規模と力強さは鎌倉時代の特徴をよく残しており、往昔の寺院規模を偲ぶことができる。


☆2009/01/19 参拝 → Click Here
 





熊野
神社

熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。

有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。

こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。

☆2009/01/19 参拝 → Click Here  




常関山
仮名沢城



掛谷姓のルーツから仮名沢城を調査された方がいる。以下、掛谷碑文より http://homepage3.nifty.com/kakeya/k_family/roots/_k_my_gosenzosama.html
「掛谷氏の祖先は清和源氏足利氏の流れで、源義氏の子孫の勝信は、武田信玄に仕えた。勝信は井原から世に出た早雲と地縁のある伊豆国韮山城主だった。信玄が勝信に、橋悪五郎の名前を授けた。勝信の孫・信道は朝鮮出兵で、兵糧奉行に任命されれ活躍した褒美として、懸谷の苗字を授かった。信道の子孫が代々この地に住み留まった。」
橋悪五郎勝信 (1521-15??) 伊豆韮山城主だった勝信は、天文5年(1536)、15才で武田晴信(後の信玄)に従い信濃国へ出陣し、平賀源心を討ち取った。恩賞に悪の一字をもらい悪五郎というようになった。父の勝元死後、武蔵国より備中国へ引退し仮名沢城主となる。
橋市右衛門信元 (15??-1580)勝信の子。永禄12年(1569)、藤井晧玄の神辺城一揆鎮圧に功を挙げ、毛利元就 より3,000貫の褒賞を受けた。
橋(懸谷)信道 (15??-????)勝信の孫で信元の子。朝鮮出兵において兵糧奉行として活躍し、懸谷の苗字を授かる。子孫は篠坂に住む。
垣屋(掛谷)太郎左衛門 (15??-????)神辺城主杉原盛重に仕える。朝鮮出兵のとき加藤清正の家臣として活躍、帰国後 坪生に帰り、掛谷を名乗る。
太郎左衛門より約160年間のデータが、掛谷家の菩提寺・西楽寺の火事により、焼失したため不明となっている。 


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諏訪神社



諏訪大社     http://park14.wakwak.com/~systemheart/suwataisya/
  当大社は諏訪湖の南北に二社ずつ、四ケ所に鎮座する変わった形の神社で、関係の摂末社は六十有余社を数え郡内全域に分散している。
祭神は建御名方神 (たけみなかたのかみ) 、八坂刀売神 (やさかとめのかみ)で建御名方神は大国主神と高志河比売神の御子神、八坂刀売神は妃神です。上社に男神、下社には御二柱に併せて御兄神八重事代主神を祀ります。
御鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもありませんが、我国最古の神社の一つに数えられます。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていたことがわかります。
  古くからある信仰には雨や風を司る竜神の信仰や、水や風に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされております。
神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。精進潔齋を形だけする者より、肉を食べても真心込めて祈る者を救おうという諏訪大明神御神託や、浄瑠璃や歌舞伎の本朝二十四孝が世上に広まるにつれ、日本の屋根信州諏訪の地へとの参拝者も日と共に繁く、諏訪大明神の御神徳の厚きことが伺われます。


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掛谷氏累世居住之址


「掛谷氏累世居住之址」碑

仮名沢城跡のある城関山の西側に諏訪大明神がある(笠岡市篠坂松葉左地区)。
その東隣に稲荷社があり、脇道を下っていくと、「掛谷氏累世居住之址」と書かれた石碑を見つけることができる。石碑に書かれていた文字は、次の通り。

表面: 掛谷氏累世居住之址
裏面:
掛谷氏者出自 清和源氏足利判官源義康子孫義兼義氏等當時
伍羣雄間互競雄義氏末裔勝信仕武田信玄信玄授稱橋悪五郎焉
孫信道當朝鮮之役任兵糧奉行以功姓稱懸谷其子孫奕世留住此
地或有造営社寺者又有善詩文並和歌者食禄五千数百俵後漸家
道落無蹤可覓茲建碑以弔矣          昭和三十三年五月

 ☆この碑の裏山に墓所があった
  橋一族の供養塔だという(陶山氏顕彰会) → Click Here


 

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001 陶山公民館前に立つ案内板  画像みる    ↓
     
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 仮名沢城の地政学

   中世ニッポンが公家社会から武家社会へと大きく変わろうとする激動の14~16世紀の「陶山村」はいったいどんな状態だったのだろう。
 当時陸上の「山陽備中道」は吉備の中山から板倉宿~河辺宿~矢掛町に来て小田から後月(井原)~七日市~神辺だった。この基幹道路
 からは若干外れてはいるが、篠坂は笠岡へ抜ける石州道と福山へ続く坪生の入り口に立地する交差部にあたる。
 
 仮名沢城を基点にわずか西方800mには坪生庄の「仁井山城」があり、さらに西方9Kmさきには「神辺城」がある。
 北方へは2.8Km離れて下稲木の「匠ケ城」がある。
 南東方向へ5Kmは陶山氏の本拠地である竜王山「笠岡城」、南方は4Kmで大冝の「大橋山」に至る。
 
 仮名沢城の築城も定かではないが、三宝院縁起に「永禄年中(1558-70)に仮名沢城主橋悪五郎勝信が教蔵院と常行院を再興した」と記され
 ている橋悪五郎勝信は大永元年(1521)生まれ、伊豆韮山城主で父勝元と共に武田信玄に仕え、武功を挙げて信玄より悪五郎の名を賜った
 という。その後、引退して篠坂に帰り仮名沢城主となった。
 陶山公民館のパンフによると、仮名沢城主はこの橋悪五郎勝信で、「陶山一族と婚姻関係にあった」と書かれている。
 陶山一族は永正3年(1506)7月、笠岡城主陶山高雅は讃岐から攻め上ってきた村上氏に城を明け渡して自生院に逃走し、その後は歴史から
 姿を消したと言われている。この後は大内幕下となり、(笠岡城)は井上伯耆守春忠城主なり、「備中府志」にある。

 このことから、勝信が城主で仮名沢城にいた時期と陶山一族の笠岡城統治の時期は一致せず、微妙にズレているわけで、勝信は大内の家臣
 井上春忠やその後、吸江山に「笠岡城」を築城(天文年間(1534頃か?))した村上隆重との友好関係を保っていたと推測される。
 また三宝院の由緒書きに勝信が教蔵院と常行院を再興した後に、「観音院は天正年中(1573-92)に小見山三郎兼道が再興する。」とあるので
 勝信はこの小見山三郎兼道とも共同の寺院再興者であるという行動から二人は友好関係にあったと伺える。
 
 勝信の子、橋市右衛門信元 (15??-1580)は永禄12年(1569)、藤井晧玄の神辺城反乱の鎮圧に功を挙げ、毛利元就より3,000貫の褒賞を受け
 た、という。藤井皓玄は天文年間(1532~55)、神辺城主山名理興の二番家老を勤め、正霊山城主として高屋城主も兼ねた戦国武将藤井
 能登守皓玄という。余談ではあるが、父親は藤井好重、永禄12年(1569)本拠地は芳井町吉井字坂本のなかの田中と呼ばれる処三方が山に
 囲まれて、東が開けている。皓玄はここに居城を構え「有井城」と呼んだ。「西備名区」にはこの有井城主は藤井六郎左衛門好久(巻33)
 とある。 この場所は正霊山城と高屋城との中間にあり、兵糧の補給基地でもあった。後に藤井皓玄の四男藤井利直が神辺合戦の余波をうけ、
 小坂道齊となって医業を始めこの地に住んだ。
 
 戦乱の世の武将たちは時局を見る目が肝要であった。
 一族郎党、親から子、孫まで全員の盛衰が当主独りの戦局判断に委ねられた。誰しもが天下人ならんと志を貫く戦雲の時代に、どちらの軍勢
 に駒を連ねるか、勝敗のみならず己の人生観や価値観との総合判断に身を削ったであろうことは容易に想像可能である。
 幾多の名門の武家たちが興亡を繰り返しながら駆け抜けた戦国時代の遺跡として今に残るものは、山城の址のみ。
 連郭と呼ばれる土豪の連なりと僅かばかりの城壁の址、記録も住居も遺品も、まったく何も残っていないことはニッポン的な美である「潔さ」な
 のであろうか。
 この橋一族についても例外ではなく太郎左衛門より約160年間のデータが、掛谷家の菩提寺・西楽寺の火事により、焼失したため不明だという。

  
002  篠坂山大坊泉福密寺三寶院  画像みる    ↓

寺院境内

三宝院の沿革
( 写真の銘板より)
  記録によれば、篠坂・押撫には曽(かつ)て十二ケ寺の寺坊があった。十二坊形式は平安朝のものと聞く。
弘法大師が九州より御帰朝の途次、白石島に立ち寄られた史実もあり、弘法大師が修行道場の適地を求めて、当地に足を運ばれたことが伺える。十二ケ寺のうち、鎌倉時代に亡失した寺もある。従って、十二ケ寺の開基に弘法大師が関与されたと推測する。
その十二ケ寺に多数の僧が集い、一大修行道場として繁栄し、この地域一帯に信仰勢力を誇っていたことが想像できる。十二ケ寺は室町時代までに亡失したが、教蔵院と常行院は永禄年中(1558-70)に仮名沢城主橋悪五郎勝信が、観音院は天正年中(1573-92)に小見山三郎兼道が再興する。
その後、幾度か盛衰を繰り返し、昭和十四年先住俊朝上人の代に、教蔵院・常行院・観音院の三カ寺を合併して三宝院と改称し聖観音二体、愛染明王一体の本尊を安置する。
寺宝の室町時代作、釈迦涅槃図や仁王像が往古を偲ばせる。現在の本堂・庫裏は昭和四十一年現在俊昭代に建立したものである。
 昭和59年水子地蔵ならびに仁王堂建立
 平成4年位牌堂建立
 平成7年修行大師像建立
平成7年4月吉日 篠坂山大坊泉福寺三宝院住職 教海俊昭記

以上は教海住職が寺院正面に掲げた三宝院の沿革碑文である。
まず、平安~鎌倉にかけてこの地に真言宗の修行道場が十二坊もあったことは驚きである。
(大坊、仲之坊、善知坊、北之坊、藤臨坊、花開坊、円蔵坊、慶蔵坊、星蔵坊、忠光坊 、北之坊、山手坊
 これらのうち9つの寺は鎌倉~室町時代になくなってしまったが、大坊は教蔵院、円蔵坊は常行院、星蔵坊は観音院として再興された。)

弘法大師が遣唐使として唐に渡り、帰朝したのが大同元年(806年)、この時に白石島の青龍寺に立ち寄ったという伝承がありこの時期に十二坊ができたとすれば関戸・甲弩・神島についで古くから開けていた地域だと言える。
もっとも、お隣の有田には在田神社があって851年(嘉祥4年)に正六位上に叙せられるという史実があり、後に陶山荘と呼ばれるこの地域は先進文化の当たる地域だったし、特にこの篠坂近隣は当時から霊山として開発されていたのであろう。
また、坊というだけで規模も伽藍も何もわかっていないものの、修行僧が坊当たり10人居たとしても100人を越えるわけで、この山間の肥沃とは縁の遠い場所での生活を想像することは容易ではない。確かに笠岡という場所は現在でも寺院の数を比べると真言宗が他宗よりもはるかに多い(井原では曹洞宗、鴨方では天台宗、まだ詳細は未調査です)。それらの寺へ僧侶たちを送り込むための教習センターの役目だったのか。


003  伝、橋一族の墓石群  画像みる    ↓

坪生
 西楽寺
 
 古い墓石の時代考証

、鎌倉時代から室町戦国を経て江戸時代までの武家社会のニッポンにおける墓所には考古学者たちは興味を持たないのだろうか。
 ネットで考古学を引くと、「考古学は古代の遺物・遺跡を調査・研究し、それによって得られた成果を歴史学に提供する方法学」だ
 そうだ。つまり時代的に中世は古代とはならず、せいぜい無土器~縄文~古墳時代までがその研究対象と勝手に線引きをしてい
 る。

 また「歴史学」なる学問もあって、歴史学は史料を語る学問らしい。厳密には史料に語らせる学問らしい。
 史料とはおおむね「文書」のたぐいで、紙以外の石にせよ木にせよとにかく「文字」にこだわる傾向がある。
 考古学でも歴史学でもその区分にはまったくこだわらず、時代考証学的な学問はないのであろうか。
 
 そこに時代を経て存在するモノがある以上、そのモノがこの世に生まれて風化に耐えて存続してきたその時間の長さを測る学問
 という定義づけである。
 素材の酸化・劣化・から使用されてきた時間をさかのぼり、その材質から産地を割り出し運ばれてきたルートを割り出し、形状・様式
 から分布チャートで広がりを特定する。
 そんな思いを誘発させる墓碑銘も時代も埋葬者も建立者も読めない墓石群である。
 
 ☆2009/01/19 散策 → Click Here


陶山氏にかんするリンクサイト
 
  武家家伝 陶山氏    桓武平氏平貞盛の分かれと伝える。 2008/10/25
  笠岡市HP 陶山氏   おなじく平貞盛からの系譜説に拠る  2008/10/25
  戦国武将系図       桓武天皇からの平氏までの系図 2008/10/25
 仁井山城(坪生)     仁井惟清(だたきよ)陶山氏の80石取り家来、4代つづき文明年間(1469-1487)に落城す 2009/02/15
 備中在田八幡神社    式内社・備中郷社18番 2008/10/25
 備中・備後の延喜式掲載の古社 by Mr.永山卯三郎 2008/10/25
 歴史ハンター篠坂編   陶山公民館長の指導下で陶山小学校の子供たちが現地調査をおこなったレポート 2009/01/15
 福山市坪生町 寒森神社 → 天文六年(1537)陶山氏と坪生氏で香椎宮から坪生村に勧請し創建す
 笠岡市大島中二階 → ここに陶山一族の墓所があります。詳細は不詳ですが陶山墓碑が30基ほど祀られています。


陶山氏にかんする城址一覧リスト

名   称  場  所  詳              細 
陶山城(西浜城址)   金浦の行者山  大治4年(1129)泰高~元享元年(1320)義高により完成。代々陶山氏の居城となる。
笠岡山城址   笠岡龍王山山麓  笠岡の町づくり着手時に西浜より移り、現在の威徳寺辺りに居館を置き城郭を置いた。
在田城跡   笠岡市有田  標高24mの台地に築城。城主は文応年間(1260)小見山備中守で陶山と姻戚あり。
大橋城址   大冝・通称五軒屋  標高57mの丘陵、城主は高田河内守則義で陶山氏に敗れて大門真明寺で自刃す。
森山城と明地城址  用之江  標高114mの丘陵、城主陶山義高が貞和5年(1349)足利直冬の先鋒と交戦した城。
仮名沢城址 篠坂の北西 標高150mの城関山、城主は橋佐渡守悪五郎勝信で、陶山氏の姻戚先。
仁井山城址 坪生町仁井の北東 陶山氏家臣・仁井四郎惟清が知行80石の城主、吉近・吉清・惟清・惟信で文明年間没。
工ケ城址 井原市上稲木 城主は陶山八郎吉次。元弘の乱(1331)で六波羅勢に加担、番場で割腹自決す。
鳶の子城址 追分東部の山上 標高145m。城主は陶山氏、小見山氏、北条早雲との説あり。
高山城址 井原市高屋 城主小見山次郎元忠は陶山義高の末の妹を妻とし代々の姻戚。笠置城夜討に参戦す
板倉城址 岡山市板倉 水野記に「天平二年陶山某備中高松に移住」寿永2年(1183)陶山左衛頭道勝記載有
大渡城址 総社市美袋 備中府誌に「永正年中(1504-21)城主田辺出雲守高倫、陶山の嫡家、笠岡城より移城

Rrefreshed2009/04/16 2009/07/14