鴟尾の展示は「笠岡史料館」です。→ClickHere


関戸廃寺跡


「白鳳」の空気をとどめて眠る場所

地名考

関戸廃寺跡笠岡市HP 笠岡市内にある資料館の展示物紹介として掲示されている。

 『関戸には、県の指定重文として笠岡で最初に建てられた大きな寺院の跡がある。
この寺は飛鳥時代(7世紀後半)にはじまり、平安時代(11世紀)に焼失したらしい。

今では大部分が水田となっているが、発掘調査の結果、お堂や塔の跡などが確認され、
おおよそ伽藍配置が明らかになった。
また、土器や鉄釘のほか、おびただしい量の瓦が出土している。
現在廃寺跡を訪れると、露出している巨大な礎石が目に付くが、これは塔の中央にある
柱の礎石である。寺院であった頃の敷地の区画が、今でも水田の畦の形に反映されて
いるところが興味深い。』 (写真説明:左 白鳳時代の鬼瓦 右: 鴟尾(しび)

☆2008/08/24 郷土史研究家小見山熊夫氏説では、関戸寺の成立は695年~715年

関戸村の地形:笠岡市史「資料 地名編」より
 
 関戸村を南方から眺めれば、東方の妙見(▲261m)・竜王(▲281m)丘陵と西方の向原(▲81.2m)丘陵の間の幅約1,000メートルの低地が西南から
東北に通っている。
この低地の地形を見ると、両丘陵の山裾には崖錐(扇状地形)がみられ、東側の丘陵の裾に広く展開している。
竜王山丘陵の地名: 観音、平井、山津良(山面であろう尾根の意)、大谷、岩角、与地呂 
妙見山丘陵の地名: 青平、赤山(アカは水のこと、水の湧き出るの意)、与地呂河内、岩崎、竹藤林裾、北花操峠(牛の鼻剥はなぐり)、北花操峠
       小字岩崎には岩崎上池と下池があった(岩崎上池は元禄期1688-の造成、下池は天保1830-年間)、昭和42年統合し尾坂池となった。
裾野に下って、上河内(尾坂川の水を引いて戦前までは庄屋に水車があり、岩崎にも2基あり)、下河内=龍王山の裾野部で人家と水田が広がる。
崖錐地形(扇状地) 清水(しゅず=湧き水)、無尊堂、山の河内、金丸、中宇根、杉之花、曾根田
       そして、関戸廃寺が発掘された字 ⇒ 唐臼・前田・下前田
  唐臼の地名説話:
    前田・唐臼のあたりは、昔から古瓦が多く出土していた。江戸時代後期、巨大な瓦製の鴟尾(しび)が付近の水田から出土し、時の庄屋戸川家
    の庭に置かれていた。巨大寺院があったことが言い伝えられ、後世調査によって白鳳時代に建立された大伽藍が十一世紀になって火災により
    一夜のうちに炎上、崩壊したまま再建されることなく風雨にさらされ、いつしか水田に没してしまったことが判った。
    当時の人々やその近い年代の人は、巨大な石に丸く削られた柱座とその中央に掘られた柄穴の様子から、これは碾き臼の一部にみたてて、
    この地を唐臼と呼び習わしてきたと思われる。
    これは祖父(昭和20年他界)からの伝承で、祖父は心礎の現物を見ていないし、1960年から始まった発掘調査も知りえなかった。
    世紀~13世紀にかけて鉄鉱石による

社(やしろ) 八幡神社:字は八幡山根・八幡 社挌は旧村社

 拝社境内地は368坪で、主要建物は本殿、幣殿、拝殿からなる。平成11年には幣殿・拝殿屋根の大改築を行い、瓦から銅板に葺き替えた。
 御祭神は 応神天皇と素戔嗚尊
 仁治3年(1242)8月の創建で明治5年1月1日村社に列格。境内摂社:稲荷神社・天神社・荒神社・金刀比羅宮
 明治23年10月10日現在地に移築。明治40年5月神饌幣帛料供進神社に指定せられた。 当時の崇敬者は小田郡とその周辺に及んだ。
~~~~~~~~~~~
 関戸村領主変遷(笠岡市史第二巻より)
  
関ヶ原合戦後の慶長五年十二月に、家康全国統治のため幕領に置かれた十一の国奉行のうち備中奉行に任ぜられたのは小堀正次(後子の
 政一が継承す)である。高梁の松山城に一万石大名として居し元和五年(1619)に水野勝成の入封まで領内十五万石を治した。
 小田物語によると関戸村は慶長七年(1602)に小堀支配を離れて旗本糟谷内膳領となる。同九年(1604)に御息糟谷八兵衛、代官大田源兵衛
 とある。ただしこの糟谷父子に関する詳細は不明。この後元和元年(1615)より明治維新まで麻田藩領となった。麻田支配は實に253年間となる。

景色考

関戸廃寺発掘調査記録: → 笠岡市教育委員会 埋蔵文化財発掘調査報告3

(発掘調査の経緯と経過)
 近隣からの布目瓦の出土は地元では古くから知られていた。最初に着目したのは市内尾坂出身の郷土史家高田馬治氏である。
出土する古瓦と礎石とおもわれる大きな石を、世に知らしめ昭和33年笠岡市指定史跡となった。

昭和36年、奈良国立博物館長・倉敷考古館長らが現地調査を実施、地元の庄屋宅の鴟尾の破片も確認し、発掘調査の必要性が認識された。
昭和37年12/10-12/15 の6日間 倉敷考古館員による調査
 塔基壇が確認された、またその周辺部を笠岡市が所有者から買収、保全措置をとった。
昭和38年8月1日 塔基壇周辺が岡山県指定遺跡となった。
これを機に地元でも史跡保護の機運がたかまり、昭和40年5月18日、関戸廃寺跡保存会が発足。

昭和51年 塔南のJA吉田支所が建築許可を得る。 瓦5箱を出土。
昭和54年 塔東側に宅地造成、県教育委員会調査、結果溝・壇状遺構・柱穴を検出。
平成4年  塔西側が宅地造成、瓦の出土が多かったことから市が買収す。
山陽道建設の波及で、今後保存の必要性から国の補助をうけ、平成6年から8年の3ケ年で寺域確認調査が決定された。

(第1次調査)H6.11/7-H7.3/29
塔心礎のほぞ穴を基点にトレンチを設票。
(第2次調査)H7.11/13-H8.3/29
(第3次調査)H8.10/24-H8.11/26f

(発掘調査の成果)
 1-関戸廃寺の創建は白鳳時代後半におこなわれた。
 ↑ここからスタートとなってる。誰が何を根拠に白鳳時代後半だと特定したのか?この報告書では詳しい内容が読みとれないが残念。
 (おそらく出土した瓦の分類による特定であろうが、様式ごとの分類はあってもどこで製造されていた品物だという調査がない。
  発掘された分布図からの分類なので、瓦工房がどこにあったのか?どこから搬入されたのか?当時では大工事だったにちがいない
  また、瓦の文様に関する報告もなし、下絵の瓦紋は何の花なのか?外側の18個の丸(星)は何なのか?=18個はよくみかける形
  花弁の数は14枚、これらの数の持つ意味は?などなど、詳細を知りたいこと多々あるも、詳細なし。)

 白鳳時代とは、
 「白鳳時代は、歴史の時代区分ではなく、美術史のみで扱う時代区分である。白鳳は、元来私年号であり、孝徳朝の白雉の別称であるとされている。
白鳳時代という言葉自体は明治時代から使われているが、その時代区分、および時代区分としての存在自体についても、多くの議論がなされてきた。
その定義については、白鳳時代の存在を認める専門家の間でも意見が異なるが、一般的には、孝徳朝の大化元年(645)から都が奈良に移った
和銅三年(710)までを白鳳時代と呼ぶ。

 2-金堂と塔が廃絶したのは火災によるもので、瓦溜から発掘した土器から11世紀前半とうかがえる。
 3-東方建物は瓦の出土から4期にわたって建て替がおこなわれた。第一期は奈良朝前、第4期は11世紀前半を下限とする。
 4-誰が関戸寺を建立したのか?
   5世紀半ば長福寺裏山古墳群、矢掛町東川面古墳・西岡谷2号墳など、井原市木之子村古墳、芳井町梶江古墳など。
   6世紀になっては矢掛町の南山田の小迫大塚古墳、笠岡走出の小池古墳、井原市の宮端上古墳など。
  矢掛町東部の白江遺跡を中心とした小田郡衙候補地の勢力とは別に小田郡西部の豪族、長福寺~走出小池遺跡~製鉄遺跡を形成した勢力だった。
 笠臣、小田臣などと直接結びつけつ根拠が薄いため、特定するには今後の研究成果待ち。


☆2010/04/25 (日曜日) 遍照寺のルーツをさがす
 この日、地元のMさんに関戸の花繰峠を案内していただいた。遍照寺があったとされる目印は、布目瓦が出土したと伝えられる一本松のあった場所。
『ひらけゆく笠岡』(昭和35年笠岡教育委員会刊)に「遍照寺のあった場所」の掲載を発見し、その場所を探しにいったが、、、、⇒ ClickHere



☆2008/05/2 (金曜日) 関戸寺を見て八幡神社に参拝
 

関戸寺跡の印象 ⇒ View Click Here
  旧道の誘導案内標識から車を進めて入ってきても、まずは何処に何があるんだ!?
  という平常風景に驚かされる。
  遺跡らしいモノ、建屋・展示はいっさい目につかない。かろうじて、注意して探せば目につくものは教育委員会の建て看板を敷地を囲った柵だけだ。
  
  発掘した遺壙をそのままにすれば雨水等の管理ができず元の姿に埋め戻しをしたのであろうが、国の助成金で調査したほどの規模ならばもう少し
  調査の成果をPRする努力があったほうがいいのかも。
  遺跡はすべからく廃墟となったものである。こと更に「廃」という文字を冠して呼ぶのはどうであろうか? 個人的には「関戸寺」のほうが語呂がいい♪
  すぐ隣の八幡神社が仁治3年(1242)8月の創建なので関戸寺よりは100年ばかし新しいのが残念。八幡山古墳に埋葬された君なればご存知か
  もね  遍照寺が笠岡へ移転する前、13世紀以前には吉田に在ったという。  この辺りとの関係も、可能性としては絡めて考えたく思うねぇ。
  遺跡が絶滅の運命を辿るのは、敵から攻撃を受けたとき、あるいは著しい気候の変動に見舞われたとき。
  関戸寺の場合だと後者のケースは当てはまらないから、前者のケースと思われる。
  単なる失火の火災であったなら、再建されるのが歴史の慣しであろう。法隆寺もそうだし、笠岡では有田にある教積院は二度の被災をくぐり抜けた。
  
八幡神社のぼる ⇒ Vie Click Here
  この社の在る山の中腹あたりに八幡山古墳という墳丘があるらしい。
  また関戸経塚なる遺跡も近いとか。今は暑くていけそうにないが、時期をみて尋ねてみよう。


No. 表題 Title   内容 Contents
001 関戸廃寺付近略 笠岡美星線から一本西側の旧道沿いに案内板あり  画像みる    ↓
     

周辺View
 
 目印は、八幡神社が丘の中腹jに見えて、遠くからの目標物をしてよくわかる。
 現地にある教育委員会の案内文
 「笠岡市関戸にある古代の寺院跡。
 笠岡し教育委員会が平成6年から8年にかけておこなった発掘調査によって、伽藍配置が明らかになった。
 巨大な心礎が露出しているのは塔の跡である。塔の北側には金堂があり、東側の一番高いところには別の大きな建物があったことが
 判明している。 寺院の西側には当時の南北往来が通っており、道との境界には築地塀があった。
 この築地の跡は現在も畔道に反映されている。
 この南北約130m、東西最大約130mの大寺院は、白鳳時代の七世紀後半に建立され、およそ四百年の間繁栄を誇っていたが、
 平安時代の11世紀に主要な建物が焼失し、やがて絶滅した。」
 
002  小平井駅で停車の 井笠鉄道の軌道跡  画像みる    ↓


伽藍配置

  遺構調査結果
 関戸寺の敷地は南北130m、東西は北端で130m、南端では70mの五角形であった。
寺の正面は南面で、西側は南北方向の道路に面して築地によって区切られており、西側からの景観が重視されていたと推定される。
敷地中央を横断する現在の道路は、金堂北側を巡る回廊の名残。また、西門の所在は東西道路との交点あたりと思われる。

 地点A:現在は畑として使用地、丸瓦の破片3個を出土。
 地点B:古道の東にあたる場所で、この田はかってツイジと呼ばれていた。多量の瓦が出たといわれる。
 地点C:傾斜地、軒丸瓦1点を採集。この外にも八幡神社境内からも出土したといわれている。
 地点D:寺域西側の南北に走る築地の内側に井戸があったという。水田耕作の障碍となったため、埋めなおした。
 地点E:関戸八幡山古墳
    廃寺周辺で見つかっている唯一の古墳、北西方向に向けて舌状に張出した丘陵の西側斜面にあって、石室の前端は破壊。
    径10m程度の墳丘と推定(横穴式石室残存)、後世に削平を受けているので明瞭ではなく、採集遺物なし。


003
小平井の立石 立石神社 画像みる    ↓


鴟尾の
大きさ


 出土品は笠岡資料館に展示:(この写真は鬼瓦Ⅰ類)

主な遺構: 塔基壇、金堂基壇、東方建物基壇、築地基底部、掘立柱建物溝、土壙、柱穴群。

主な遺物: 瓦(鬼瓦・鴟尾)、土師質土器、須恵器
        
        風招、 瓦塔、 釘、 鎹、 鉄滓、 炉壁、 墨書礫(小石に「土中」と墨で書かれたもの)。

2014/03/12更新 2008/08/5



 







































Ads by TOK2