| 里庄町浜中 平井祐仙の新田干拓土手跡 麻田藩医師、元禄年間(1688-1704)に私財を投じ23haを造成 |
| Back ⇒ |
|

| 2011/01/09 訪問 「平井祐仙」(?~宝永四年九月廿五日歿1707年) |
|---|
| 昭和五十一年浜中団地造成を記念し、浜中団地公園の上水道高層貯水槽わきに「平井祐仙顕彰碑」が建立された。 写真の道路は国道二号線浜中交差点を南進し、浜中団地から北をみた風景。この道路を直進すると右上の高層貯水漕 が立つ公園に当たる。 昭和三十六年の国道二号線建設とその後の団地造成によって祐仙土手は消滅したということだが、右側の土手跡はその 痕跡なのであろうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 平井祐仙(?~宝永四年九月廿五日歿1707年) 以下、当日配布された資料を引用 顕彰碑の碑文によると祐仙は「摂州麻田藩の藩医、退役の後、浜中村に住す」と紹介されている。 さらに、「浜中村は土地が狭小で田畑に乏しく住民の生活は楽でなかった。 祐仙はこれを深く憂い、元禄年間(1688-1704)私財を投じて長さ419m、幅11mの土手を築き 海を干拓して二十三ヘクタールの新田を拓いた。」 「里庄町誌」によると、号は善庵、領主は祐仙の新田干拓の功を賞し免税地四反余と富士形定紋入りの礼服を賜った。 宝永四年(1707)九月廿五日歿、その墓は浜中の友里にある。 また同誌には平井祐仙は浜中村の庄屋として書かれている。同書に見える浜中村庄屋変遷は以下のとおり。 平井祐仙 庄屋 宝永四年九月二十五日歿、 その後 平井三郎右エ門 庄屋 延享四年(1747)「庄屋襲役願」文面記載、仁科義明氏蔵 平井藤三郎 庄屋 が併記されているという意味か? この三名の平井姓の後、享保七年(1722)十一月に庄屋は平井姓ではなく、単に「和平太」となり、天保五年(1834)三月 には仁科小平、万延元年(1860)十二月庄屋から代官になって仁科匡平(きょうへい)の名前が古文書に書かれているようだ。 なお里庄町浜中の海月庵には高さ4.75mの花崗岩製寶篋院塔があるそうだ(現在、未確認)。 塔銘には「曽祖有心・高祖友心・祖父祐仙・宗順俗名三郎右衛門・妙胱菩提の為。享保二集丁酉竜(1717)仲秋下旬、浜中村 平井温仙。願主、平井氏藤三郎・平井氏清右衛門。石大工半七郎」と刻まれており、享保二年(1717)は祐仙の死後十年後の 建立である。建立者は平井家の末裔が祐仙を含めての累代先祖の供養のために建立したようだ。 里庄には祐仙にかかる文書は焼失したとのこと、ある時期までは現存していたであろうが残念。 |
|
『天保五年(1834)三月には仁科小平、 万延元年(1860)十二月庄屋から代官になって仁科匡平(きょうへい)の名前が古文書に書かれているようだ。』 この記事の関連をネットで発見! 備中国浅口郡浜中村の代官の娘として生まれたナカの自伝 より引用 「元禄の頃、平井祐仙と申す当領の藩医によって、新庄村に浜中新田が開墾されました。その後、浜中新田は新庄村から 分かれ、浜中村となり、代々平井家が当村の庄屋を務めておりました。享保年間の末頃(~1735)になりまして、父の祖父で ある仁科小次郎秀高の兄の和平太秀勝が、平井家に代わって庄屋職に任じられました。和平太秀勝には子がなく、跡は弟 の小次郎秀高が継ぎ、さらに寛政十年(1798)、その嫡男の小兵衛光春が庄屋職を継いだのでございます。父の在本も代官 に任じられる40才過ぎまで、当村の庄屋をして居りました。祖父の小兵衛光春は、今を去る二十五年前の文化十二年(1815)、 享年50で他界し、父の在本が21才で家督を継ぎました。当時まで、仁科家は浜中村の庄屋職を務める百姓でございましたが、 天保の大飢饉の最中、代々当領の代官を務めていた上新庄村の阿部家に代わって、父の在本が武士に取り立てられ、 代官になったのでございます。」 浜中新田の完成後に浜中村が新庄村から分かれたこと、代々庄屋は平井家から仁科家に変わったこと。 また天保年間には仁科在本が庄屋兼代官となったこと、が記されている。 (2011/06/11 追記) |
| 位置図: |