里庄町(里見村と新庄村が合併し里庄村より)
大原古墳群から南のJR山陽線には海が押し寄せていた
明治22年(1889)6月1日 町村制施行により浅口郡里見村と新庄村が発足。
明治38年(1905)にこの両村が合併し里庄村となり、さらに昭和25年(1950)、里庄町になった。また新庄村はそれ以前には新庄村と浜中村
に分かれており、江戸時代には、どちらも摂津(現在の大阪府)麻田藩の飛び地となっていた。
摂津麻田藩は、現在では豊中市中にあり、陣屋跡は伊丹空港の目の前、阪急宝塚線の蛍池の駅前、コンビニの並びの蛍池公民館がその
跡地。ちょっと離れた報恩寺には、移築された陣屋門と藩主屋敷表玄関が残る。
摂津麻田藩の初代藩主青木一重は大坂の陣において豊臣方に付いた。冬の陣の際、和議の使者として駿府に下向した帰途、徳川方の捕虜と
なった。虜囚の身で大坂城落城の報に接し、剃髪した。元和元年(1615年)徳川家康に召し出され、摂津国・備中国・伊予国において1万2千石を
拝領して立藩した。
その後、加増、分地、替地等により摂津国豊嶋郡豊嶋郷・川辺郡高平郷他および備中国小田郡・後月郡・浅口郡内十一ヶ村を領有した。
三代重正の時代の寛文年間(1661年-1673年)、黄檗宗仏日寺の伽藍建築に莫大な経費をつぎ込んだため、藩財政は窮乏した。酒や油などの
必需品の領内生産の奨励、藩札の発行等の策を講じたが効果がなく、のち藩札の管理は領民に委ねられた。
一方里見村は明治八年に口林村と池口村が合併したもので、口林村の前身は備前岡山池田氏32万石の領地であった。その後、寛文12年6月
に領主池田光政は次男政言(まさこと)に分封し支藩とした。この岡山支藩が後に鴨方藩となり、口林村はこの支藩の領分であった。
里庄は奈良・平安から鎌倉にかけては浅口郡大島新庄に属していたとされる(大島は他に徳大寺領大島本庄と六條院領大島保があった)。
明治4年(1871年)廃藩置県を迎え、麻田県となる。その後、大阪府、兵庫県などに編入された。
藩主家は明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられた。
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【「井原市史」より引用】後月郡内の麻田藩領 ⇒ ⇒ ⇒ ⇒ 小田郡川面村(現矢掛町東川面)代官陣屋跡
「後月郡誌」によると後月郡内の麻田藩支配は寛永十九年(1642)より明治維新まで続いた。井原市域では唯一稗原村、その他北種村・南種村・
井出村・中種村・佐屋村の六ケ村であった。麻田藩の備中領分は「奥組」と称する後月六村に加え小田郡川面(かわも)村の七ケ村と「口組」
と称する浅口郡上・下新庄村・浜中村・小田郡関戸村の四ケ村(市史には三ケ村)であり、代官所を川面村と浜中村に置いた。
☆里庄町 町制施行60周年記年 歴史講座
2010/07/11 第一回 「古墳時代-里庄の先祖の暮らし」 by 講師:小野俊朗氏(岡山大学自然生命科学研究支援センター)
2010/08/08 第二回 「浅口の地質時代を考える」 by 講 師:定金司郎氏 テーマ:有史以前の時代-郷土の地形の成り立ち
2010/09/12 第三回 「大島郷土史研究クラブの歩み」 by 講師:大島郷土史研究クラブより3名、テーマ:大島名勝と人物史考察
2010/10/10 第四回 「備中守護細川氏について」 by 講師:玉島観光ガイド教会員 赤澤正三氏 テーマ:家系・守護職・合戦・道董・城址
2010/11/14 第五回 「赤松月船の人となりとその鴻業」by 講師:倉敷芸術科学大学講師 定金恒次氏 岡山県教職員時中国ハルピン勤務あり
2010/12/12 第六回 「郷土の先覚者たち」by 講師:元里庄町教育長 勝田精氏 テーマ:平井祐仙・岡道夫・村上森造・小川郷太郎・仁科芳雄
2011/05/21 第11回 「鴨方往来の先人たち」 by 講師:水田貴士氏(浅口市教育委員会国際文化交流課 埋蔵文化財専門員)
2011/06/24 第12回 「故郷の干拓について」 by 講師:森下隆志氏(「吉備国の干拓の歴史」)藤井茂氏(「ふるさとの干拓と新田ウォーキング」)
2011/07/25 第13回 「鴨方往来の近辺史跡について」 座学およびフィールド・ウォーキング by 講師:小野和光氏(里庄町文化財保護委員長)
サイト内リンク:(里庄町HPより引用他)
虚空蔵山(△270m)は町の西北部に聳える町最高峰で笠岡市との分水嶺をなす。
山頂付近には池があり、その周辺の森林を整備した約17haもの広大な公園「里庄美しい森」が広がっている。 ⇒ ClickHere
高野山真言宗霊山寺、奥の院
山頂には、高野山真言宗霊山寺の奥の院境内には、「虚空蔵岩」と呼ばれる、高さ8.7m、東西の巾8m、南北の奥行き8.1mもの花崗岩の大
塊があり、 知恵と慈悲の 菩薩「虚空蔵菩薩」が祀られ、大祭には多くの参拝者が訪れます。 ⇒ ClickHere
(里庄町の真言宗三部山霊山寺は鎌倉時代の開基、「浅口郡俚諺抄』によると弘安九年(1286)と記されている。)
鳶尾山城址
虚空蔵山東南の支脈にある戦国時代の古城址。備中府誌によれば、当城の開基は大内左京大夫義隆、城代として井上伯耆守春忠在城す、
と記されている。 ⇒ ClickHere
大原焼
大原焼は土師器の系統をひく素焼きで、熱や水に強く、火鉢、こたつ、焙烙やタコ壷、ハゼ壷といった漁具などの生活用品として利用され、
盛時は10数ケ所の窯元に、350人の陶工がいたが生活様式の変化から実用品としての需要が減り、現在、窯は1つになっている。
<外部リンク> 大原焼殿山窯 ⇒ LinkTo
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表題 Title 「鳶尾山 銀寿観音寺」 |
内容 Contents |
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銀寿観世音菩薩像建立碑文
『建立の由来 平成3年10月の林道鳶尾線整備計画の樹立に呼応して、「心豊かな人生」を望むものが相い計り、高齢化の進む中で心のより
どころとして銀寿観世音菩薩(ボケ封じ観音)の建立を計画、広く賛同者に呼びかけ1,098名の方々のご協力により、41,594,500円の浄財
を戴くことができました。
これにより観音菩薩は京都市の(株)善豊堂、また拝殿、台座等の工事は笠岡市の(株)吉本組によって平成5年1月完成したものです。
平成5年1月吉日 銀寿観世音菩薩建立委員会』
銀寿観世音菩薩礼拝所(ぼけ封じ観音)
月例祭 毎月十八日午前九時三十分 大祭 四月第三日曜日午前九時三十分
十二支念持仏(生まれ年のご本尊です)
ね(子)千手観世音菩薩 うしとら(丑寅)虚空蔵菩薩 う(卯)文殊菩薩 たつみ(辰巳)普賢菩薩
うま(午)勢至観音 ひつじさる(未申)大日如来 とり(酉)不動明王 いぬい(戌亥)阿弥陀如来
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2009/09/02 09:30~12:00 「県西部の文化」学習初日、里庄総合文化ホールにて講演
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講座名:里庄町の文化について『大原古墳群を巡る』 講師:岡山大学自然生命科学研究支援センター 小野俊朗氏
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里庄町役場前庭の風景 ⇒ 写真の説明です
講義の要旨
古墳時代とは紀元3世紀~7世紀に弥生時代につづく古代時代区分呼称である。
この期間をさらに前期・中期・後期・終末期と四区分とされる。前期古墳時代に属す
るのは卑弥呼の古墳に比定される奈良「箸塚古墳」・岡山「備前車塚古墳」がある。
車塚古墳からは卑弥呼に送られたといわれる三角縁神獣鏡が11面出土している。
4世紀後半から5世紀にかけて中期古墳時代に入ると古墳の規模が巨大化してくる。
目下発掘された古墳の最大規模をほこる大仙古墳(伝仁徳天皇陵)、前方後円墳と
云われる全長486m、周囲は二重の水濠で囲まれている。第2位は誉田御廟山古
墳(伝応神天皇陵)425m、第3位はミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)360mである。
そして第4位が備中造山古墳(360m)、第9位に作山古墳(286m)と続いている。
円墳や前方後円墳以外にも方墳(総社市・角力取山古墳)、帆立貝式古墳(岡山:
森山古墳)などがある。(事項は講義とは無関係のサイト内リンクです↓)
吉備の中山散策(中山茶臼山・尾上車山・矢籐治山古墳) ⇒ClickHere |
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里庄町役場前庭の風景(2)
講義のつづき
古墳時代も6世紀になると小型化します。5世紀の終わりから6世紀を後期古墳
時代に分類します。浅口市の四条原古墳群(16基)などと共に、ここ大原地区に残
る群集墳(横穴式石室)はこの時代のものと考えられています。
大原古墳群の説明の前に終末期の7世紀初頭の古墳にはかの有名な壁画が描か
れた高松塚古墳・キトラ古墳があり、これらは横口式石槨古墳と呼ばれています。
大原にも前期古墳時代に作られたと思われる古墳、本村古墳(円墳)があります
が多くの古墳は後期群集墳に属します。
大原古墳の多くは横穴式石室を持ち、古墳入り口から玄室までのアプローチを羨道
と呼びます。羨道の幅よりも玄室の幅が広いタイプと同一タイプに分類し両袖・片袖
袖なしに分類します。東西600mの範囲に海抜50~60mの位置に築かれた古墳は古
記録では20基という数字がありますが、現在の確認できる墳は17基、もとの型をと
どめている墳墓はわずか8基となっています。 |
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大原古墳群(後期群集墳) 古墳分布図
古墳の位置をプロットした概観図。東より鳶ノ尾山、虚空蔵山の南斜面、海抜50~60
mの位置に並んでいる。発掘は東の奥迫地区で2基、上川(うえがわ)地区で7基、
古屋堂(ふるやどう)地区で8基、西へゆくほど新しくなる傾向があり東の奥迫地区
が石室の石材の加工具合から、いちばん古いと思われます。
石室の開口部は場所によって地形の差があり、南東~南西に向いており一定の規
則性は見られないという。
なお前述の前期に属する発掘とされるこの地区の本村古墳だけは最西端にあって、
構造も横穴式ではなく円墳で頂上付近に石棺を置く竪穴式構造となっている。
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大原地区には田となる土地がないために、稲作には不向きであった。
当時、塩田から塩を生産する人々であったなら塩の土器などの出土があるだろうが
この地域では出土していない。当時の人々がどんな生業をもって生計を建てていた
のか?と先生は釈然としないご様子だった。 ⇒ 高柳池 ClickHere |
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観音塚古墳
先生が指を差しているのが奥壁(おくへき)。
遺体を納める空間である奥側の壁に埋め込まれた石を鏡石という。
古代人たちは死者を祀るとき、入り口を塞いだ石(閉塞石)を取り壊して羨道を開き、
奥側の玄室に死者を置いた。
死者たちは石棺であれ木棺であれ何代にもわたって、おなじ墳墓に同族が埋葬され
ていたと想像されている。また、石室を形成する石材の切り出しはおそらく裏山(虚
空蔵山)から搬入されたものであり、開口部には閉塞石を置き、墓全体は円形に土
が盛られていたと思われる。
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命名は後世だろうが、墳墓地区と生活地区と同居の関係にあったのだろうか?
古代エジプトでも死者の谷と生者の居住区はナイル川によって隔てられていた。
この地区ではこの古墳を農作物の保管庫とか、自分用の祭祀婢を作って祀ったり、
生活空間の一部に入りこんでいるようだ。築造時代はどうであったのか? |
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金比羅塚古墳
入り口にある説明文。
『里庄駅北の虚空蔵山は里見大原地区に多くの扇状地を形作っているが、この山麓、
大原西地区を中心として大原古墳群が発見されています。
代表的なものが、この金毘羅古墳で、南西に開口する無袖の横穴式石室を持ち、石
室長9.1m、羨道の幅1.4m、高さ1.95mとなっています。里庄町教育委員会』
全古墳からの出土品の記録では、鉄製剣・金メッキの耳飾り・鉄製鏃・勾玉・須恵
器など、人骨の発掘もあったようだが大半の古墳が個人住宅の敷地内に存在し、保
存・展示状況は整備されていなのが実情のようだ。
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この地区および井笠地区最大級の横穴を持つ古墳で上川4号墳、通称金毘羅塚
古墳と呼ばれている。石室長9.1m 高さ1.92m、この石室の上に金毘羅宮が祀られて
いるのがその命名理由のようだ。この開口部は南西方向、この延長線上が子孫たち
の居住区であったのではないだろうか。 |
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<里庄関係サイト内リンク> 2011/06/13 |
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2011/11/30更新 |
08/07/22 |

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