里庄町下新庄『沖の明神社』こと「艮神社」
 
里庄町と笠岡市広浜の境界に建つ。中世干拓の堤防の名残りあるとの説あり。
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2011/06/03 鳥居から階段を上る。社殿は南面す。  広浜から里庄域に入った県道。左手には石垣の遺構が残る
   
 明神社の周りは水田地区、その前は海であった景色。  『里庄村誌』(s2年刊行)の著者岡道夫氏の名を刻む玉垣
  鳥居の扁額には「明神社」と書かれていた。「里庄町誌」によると、里庄町の下新庄からは「沖の明神」、広浜側からは「浜の明神」とそれぞれ別の名称でよばれていた。
更に、それぞれの村では別々に自村の宮司を招き祭礼を行っていた。この祭礼の規律もなかなか厳しい戒律の如くであった。
このことは何を意味するのか?
境界に在る山を両側から別々の名前で呼んだ。しかも双方からの交流はまったくなかった。そんな時代が長く続いた、ということが判る。
 
 笠岡側から新庄を望む。右手前の山に「広浜城」(別名「新庄城」)があった。
 
  笠岡の干拓史を紐解くと、絵師~横島間が陸繋となったのは延宝二年(1674)のことである。これによって今立川の河口が
南に延びたのであろう。里庄町側では元禄年間(1688-1703)に麻田藩の藩医を致仕(辞任)後に平井祐仙なる人物が私費を
投じて浜中側に土手を築き浜中新田23町歩の新田を開墾した。その後、享保15~16年(1731~32)に鳥越新兵衛が入江新
田・西大島新田の干拓をおこなった。この時、麻田藩側にも祐仙土手の南側に二町足らずの新田が生まれた。
江戸時代の新田開墾は以上の如くであるが、写真みえる今立川上流方向の水田地帯は更に古い時代の干拓ではないか、と
いう説がある。大原地区には古墳群が多数存在すること、天文二十一年(1552)九月八日 小寺十郎左衛門尉が小早川隆景
より広浜の田畠二町七反余を褒賞されている事、沖の明神の東には「新庄城」(または「広浜城」)があったこと、などからこの
地域は早い時期から拓かれていたのだろう。
「定本笠岡干拓史」(笠岡市企画部刊)によると鎌倉時代あたりから行われた干拓の跡だという可能性を示唆している。
確証は無いが、写真に見える今立川流域が水田を作ってきたであろうことは十分伺える眺望と云える。



2011/05/22 訪問 「歴史民俗資料館」(洒落た洋館は緑の芝生に囲まれています)
  『里庄村誌』(昭和2年刊by 岡道夫氏)より引用

  「大明神社」 艮神社 祭神吉備津彦命
 
 創立年暦不詳 所在は広浜地内にて浜の明神と稱(とな)ふ。新庄には沖の明神と稱へり。 絶えて何等の証憑なし。
 附記
 祭典当番濫(みだり)りに他人の加入を許さず。屹然として永代相承け互いに箝制峻厳なり、 当番において春季組員
を招て饗応する献立膳羞に至るまで一定あり。もし違背する時は、当主 に対し厚き陳謝を為さしむ。局外の人々は彼ら
神物を私にし恣(ほしいまま)に侈靡(しび:ぜいたく)ると為し大いに疾視せらる。同二十五年に至り当例変革の議決起こり、
結局同九月改廃するに決したり。即ち氏子総代を三組とし(一組四人)西の平より始め八つ的川南に廻る輪番とす。。
                                                          (2011/06/11 追記)
 

位置図:浅口郡里庄町下新庄

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