| 知原池の合戦 明知山城VS高丸城 備後〜備中の国境、大津野村(現在JR大門駅南東部) |
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| 2009/07/04(土) 知原池で傷兵たちが血を洗い流したという伝承、別名血洗池と云う |
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| この池の伝承は大門東谷の集会所で道を尋ねた折、集会所に居た地元の年配の方々から聞いた。 池はシャープ福山工場の西側斜面の谷に在る(写真1)。現在の町名だと福山市大門町野々浜、この池は農業用灌漑用水で貯水堤 は野々浜側にあって備後側に水は落ちている(写真2)。野々浜には農水池が数多くあって古い池には夜燈と社稷婢がセットで建てら れるようだ(写真3)。この池のある山を昔から高丸と呼んでおり、近くに高丸公園もある。目を転じて高丸からの南東側の眺望(坂里 付近より)は神島の栂ノ丸山の手前に茂平の「いわぐろ山城跡」が見える(写真4)。その右手、西側に小高い丘があって、ここに高丸 城があった。現在では土砂の採取のため削崩ちゅう(写真5・6)。合戦をおこなった片方の軍がこの高丸城だという。で、相手勢の城 はというと、JR大門駅の北方に高い煙突の旧造酒屋がある(写真7)。その北方の山、標高△141mの明知山に山城があった(写真8) 明知山城という。 詳細も出典古書の書名も不明だが、聞き取り情報だとこの明知山城の城主の名前は河野刑部左衛門光重。 伊予国が本拠地だというから伊予水軍の出自であろうとのこと。この大門地区には明知山城にかんする伝承がほかにも残る。 明知山は揚知山と発音時に「げ」が濁る。当時は海が迫り、この付近に荷揚げ場があったともいう。神原酒造の建屋の辺りか。 この付近の土木工事で昭和の時代にも土砂の中から人骨や鉄製武具が出てきたという。 野々浜石川にある「賀茂大明神」は揚知城主河野萬之丞の守護神として祀られた神社。この社には備中坪生村と書かれた木版が あるという。(牛王版木の裏に刻されている銘文で、永享十一年(1439)巳正月五日の記年あり)。 大門津之下の「紫雲山光円寺」は明知城城主河野刑部左衛門光重の子立円の開祖によるもの。 父が討たれ夢枕に立って復讐を止めろと諭したという。この言に従い立円は出家し天台宗で修行する。笠岡街道の引野村との境に 「海雲寺池」があるがこの池の西麓に備中六條院に在る明王院の隠居寺である紫雲山海雲寺があった。この寺を津之下に移し、天台 宗を真宗に改宗し寺号も「海雲山光円寺」と改めた(光円寺の由緒を尋ねれば合戦の時期が判明するかもしれない)。 一方の高丸城は笠岡市史等で当時小平井城主であった渡辺杢之丞正の支城であったとされる。 渡辺一族の本地は沼隈郡一乗山城である。芦田川の河口から船で漕ぎ出し高丸城のある阿浜〜茂平まで10Kmほどの距離である。 高丸城〜小平井城は直線で6Kmほどか、渡辺氏が備中に進出してきたのは天文年間で天文五年(1536年)領主渡辺杢之允正の寄進 が扁束裏面に刻まれいる鳥居で有名。また、「備中小田物語」には天正年中(1573-1592)には杢之丞、同頼母領。笠岡宮地に移住すと 申し伝えり、とあるらしい。渡辺氏は尼子〜大内〜毛利と守護者を替えながら戦国を生き延びた一族である。河野一族は村上水軍を 世に出した大三島大山祇神社の祭司の名門、備中笠岡は平安末期から16世紀初頭にかけては陶山氏がその後には毛利が進攻して 村上氏が笠岡城に入った。 高丸城と明知山城と、誰が大将でどこの場所で戦ったのか、何時の時代に何が原因で矛を交えたのか、特定する情報はない。 ただ知原池の位置は高丸城に近く、血を洗った傷兵がどちらの軍兵かも判らないが両軍が城を出てこの辺りで交戦したと云えば、そ の両軍の進路上にある場所と云える(両城の直線上の距離は5Km弱、道沿い距離だと2-3割はUPだろう)。 傷兵たちが傷口を洗ったという伝承からその戦場はこの池からさほど遠い場所ではない処だろうということと、両軍が城に引き上げを おこなう場合、徒歩で帰城とすればそれぞれ似たような時間がかかったであろうと推測できる。 (参考図書: 「写真で綴る 大門再発見」) |