前中期縄文遺跡・大門貝塚の出土した地
中世までは瀬戸内の海が湾入、大門之湊
通史:「大門町誌 大津野のあゆみ」より
現在の大門町はその昔、天武天皇11年(683)に吉備国が前・中・後と分かれてから備後国深津郡大野(おおつの)郷に属していた。
8世紀頃からは「三世一身法」・「墾田永世私有令」など、律令貴族たちの荘園制度が広がってゆく。現存する資料では久安年中(1145-1151)には
坪生荘が九條家の荘園となっており、大門一帯もこの坪生荘に属していた。その内訳は備後8ケ村:坪生・大門・野々浜・津之下・引野・能島・浦上
東・宇山、備中4ケ村:篠坂・押撫・有田・用之江、合計13ケ村。その後、南北朝時代には坪生荘は備後と備中に二分され、備後五箇村と云われる
地域は坪生荘園から分裂した。その五箇村とは、大門・野々浜・津之下・引野・野島で、大門町烏帽子山にある八幡神社は別名「五箇八幡社」と呼
ばれる。
鎌倉時代になると御家人たちの台頭により荘園制度が崩壊をはじめ、秀吉の太閤検地によって全国の荘園制度は完全に解体された。
この間、大門には山城が築かれ戦国の守護大名たちの覇権争いの中、時流に乗った武士団たちが居城し領地・領民を支配した。
(私見:確かな史料は残っていないが、明知城・枝広城・眞明寺・上之坊・五箇八幡神社などの中世遺構が豊富に継承された地域である。)
関ヶ原合戦後は徳川幕藩体制となり福島49.5万石の支配地となった。が福島正則は広島城改築を咎められ津軽へ転封させられた。元和5年(
1619)福山藩は十万石の水野勝成が藩主として入封した。元和六年(1620)水野検地の石高をみると、津之下245石・野々浜431石・大門316石・
三か村合計で992石となっている。
当時、この地域には寺が七宇あり千石も満たない生産で賄うだけの余録もなく、塩田・海上交易などの海に関わる財源があったのでは、との郷土史
研究者たちの意見があるようだ。
水野5代80年間の後水野家は断絶し、その後松平家10年間、阿部9代160年間の福山藩の領国管理となった。
徳川幕府の大政奉還の後、天領倉敷県となる。明治4年(1871)廃藩置県の布告で福山県となり、同年11月に深津県が設置、翌年に小田県と改称
され明治8年に岡山県に統合、明治9年には備後地区が岡山県より分離となり深安郡となる。同年、大門・津之下・野々浜の三村が合併して大津野村
が誕生、村役場を設置した。昭和30年、大津野・春日・坪生が合併し深安郡深安町となる。昭和37年、深安町は福山市都合併し大門町となった。
縄文遺跡・大門貝塚
JR大門駅から国道2号線を1.5Km西方へ進むと大門貝塚がある。現在では遺構は国道工事で撤去されその位置を示す標識もなくなっている。
貝塚の存在はこの地に古より人々が定住し生活の場として良好な環境にあったこと、海が深く湾入して貝塚のあった丘稜に迫っていたことを物語っ
いる。大門・津之下・野々浜の三村が合併して大津野村となり、この地域の総称は大津野か大門かと迷うけど、今回の呼称は大門に統一しよう。
【大門貝塚の出土品】
福山の古代遺跡では洗谷貝塚(縄文早期から後期)が最も古い。つづいて縄文前期末から晩期まで、ざっと4千年にわたる長い期間の遺構がこの
大門貝塚である。 水呑の浜貝塚は中期から後期、木之庄にある木之庄貝塚は縄文後期の貝塚だ。大門貝塚以外は後期になると消滅しているが、
ここは晩期まで人々の定住が見られるのが大きな特徴。
具体的な出土品は石鏃・刃器・敲石・石錘などの石製品のほかに、骨角製の耳飾・釣鉤・貝輪なのが出土し当時の漁撈生活がうかがえる。
| 坪生庄のルーツは大門貝塚だった!? |
大門之湊(大津野湾)の生い立ち |
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大門は北に坪生、東は備中(笠岡)用之江・押撫・篠坂、西は引野・
春日に接している。一方南は瀬戸内海が湾入し一見、港町の地勢
である。この大門之湊へ船で入港する様を想像してみよう。瀬戸内
往来から北上船の進路標識は西が津之下・牛の首と東は野々濱・
防路の鼻の張り出しだ。この原風景が大門という地名かも知れない。
湾内に入れば鶴と亀との島が浮かびそれぞれに春日神社と金毘
羅神社の鳥居が建っている。船上から進行方向を見ると烏帽子山
が聳え、そこには八幡神社の祠が見える。三方の神社に拝礼し、枝
廣城と明知山城を見ながら更に奥にすすむと大門貝塚への上陸だ。
神社や古城の創建年度と湾入した海の水深と航行する船の大き
さなどを無視すれば、大門之湊は良港である。しかもその最深部に
貝塚があった。
大門の海が耕地として干拓工事が始まるのは江戸時代である。
郷頭山の麓にある茂平地蔵から惣堂神社を結んだ線の北側海域
を対象として水野藩普請奉行神谷治部が施行した新田開墾、正保
四年(1647)が第一期工事とされる。
逆な言い方をすれば江戸時代以前の大門一帯は大門貝塚の近く
まで海に洗われていた。
戦国時代の天文年中(1532-55)枝廣城主岡志摩守景勝を攻め
落として城主となった河野刑部左衛門光重は笠岡城主陶山弾正
忠国時に攻められる。天正年中(1573-1592)、国時は策略を巡ら
し、光重の城を攻めた。光重は城を逃れ伊豫へ逃れようと烏帽子
山の麓の「帆出の渡し」までたどり着いてその場所で討たれたと
いう。この「帆出の渡し」のすぐ隣が初代枝廣城主岡志摩守景勝
を祀る惣堂社である。この小丘には松が茂り、この松に船の舫綱
を取ったという言い伝えが残っているそうだ。歴代城主が同じ場所
で最後を遂げたという伝説はこの場所に船着き場があったという
伝承ではないだろうか。烏帽子と鶴と亀を地名に残した取り合わせ
も興味深々、時代考証のヒントになるかもしれない。
|
大門貝塚を中心にみて、大門之湊の南部(下)にある陸地が海に張出し地形だから「津之下」、皿山は土器を焼く粘土の産地からの命名と想
像できる。また中世の武将たちが築いた砦の位置を見て欲しい。眼下に大津野湾を見下ろし遠く燧灘まで眺望のきく絶好の地形上に在る。上図
に描かれた城は西から烏帽子山城・枝廣城(城の段)・明知山城の3城である。
野々浜は野と浜が入り在ってる(交互に変化する)地形で干潟であろう。幕山は町誌に「蒔」の転嫁化だとか。土器の生産には薪は欠かせない。
その他、上図にはない地名では、舟かくし、浜、浜のお堂、帆出の渡し、月の浜、横津、南浜、北浜、沖、浜などが残っているようだ。
まず海のイメージとそして湊・干潟・焼き物が大門の原風景である。
☆2009/07/下旬 野々浜公民館・大門公民館を訪ねた機会に『大門町誌 大津野のあゆみ』を紹介され、特に大門公民館では貸し出し
の便宜をはかってだきました。吉田さんに感謝です。
**** 大門町誌編集委員会 ******
平成15年11月発刊 発行編集 大門町誌編集委員会 編集委員長 藤井忠夫氏 他委員26名の方々
| No |
表題 |
事 跡 |
時期 |
| 12 |
仲富池 |
五箇八幡神社の御神体を坪生新中八幡神社より持ち帰り隠したとされる伝承が残る池。桜の名所(2010/04/04訪問) |
天文7 |
| 11 |
谷尾神社 |
伝明知大明神、藤井能登守皓玄を祭った社だという伝承が残る社。(2010/02/12訪問) |
永禄か |
| 10 |
大悲山
真明寺 |
天文年中(1532-1555)に岡志摩守景勝が建立。本尊仏は十一面観世音菩薩。笠岡大冝村大橋山城主高田河内守則
義は陶山氏と交戦し敗れ、落城後この寺の境内で自刃したというが時期不詳。一族の墓は境内の東に祀られている。 |
天文年
中創建 |
| 09 |
紫雲山
光円寺 |
枝廣城主河野行部左衛門光重の嫡子立円の開基(俗称:満之丞光円)。弘治2年(1556)光重は笠岡城主陶山国時に
西浜で弟幾三郎光明と共に討たれ戦死す。立円は出家し本願寺で修行、信長と交戦あり。天台宗より浄土真宗とした。 |
元亀年
間か |
| 08 |
惣堂神社 |
天文年間(1532-1555)に伊豫国より攻め上がった河野刑部左衛門光重に討たれた枝廣城主岡志摩守景勝を祀った社
境内には古松繁茂し、その松に船の舫綱を繋いだという伝承が残る。当初の祭礼日は景勝の戦死の日9月1日だった。 |
天文年
中創建 |
| 07 |
五箇八幡
神社 |
天文7年(1538)坪生庄にある新住八幡神社より分社しここ烏帽子山に祀られたという。祭神は仲哀天皇・応神天皇・武
内宿禰の三神。往時は大門・野々浜・津之下・引野・能島の五箇村で祀った。 |
天文年
中創建 |
| 06 |
賀茂神社 |
明知山城主河野万之丞光圓が守護神としたいう伝承が残る。祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)・神倭磐余彦命(かん
やまといわれひこのみこと)・阿比良比売命(あひらひめのみこと)。永享11年(1439)記年の牛王版木で有名。 |
創建年は
不詳 |
| 05 |
枝廣城跡
へ登る |
大永年間(1521-28)小早川の家臣岡志摩守景勝が築城。その後、天文年間(1532-1555)に伊豫国河野一族・河野刑部
左衛門光重(一名藤間太郎左衛門光重)が入城。その後天正年中(1573-1592)、笠岡城主陶山弾正忠国時に討たれる |
城跡
大永年間 |
| 04 |
明地城跡
へ登る |
用之江~福山の県境・標高140m、元徳二年(1330)頃飽浦(あくら)四郎左衛門が築城。貞和5年(1349)に森山城と共に
陶山義高が直冬軍と交戦した。その後、天文年間に伊豫国より河野光重が進攻して居城す |
城跡
元徳二年 |
| 03 |
知原池
古戦場
|
2009/07/04 年代も登場人物も不明。明知山城と高丸城の武士たちが合戦をし、血糊を洗ったという知原池。その池から
坂里の丘から高丸城跡を見た。交戦の相手は6Km離れた明知山城。大門の旧神原酒造から明知山城が見える。 |
年代
不詳 |
| 02 |
野々浜散
策(2) |
2008/12/18 JR大門駅から伊勢丘へ歩く。 烏帽子山八幡社~西の谷石仏~石樋の燈籠~沖の地蔵堂 |
| 01 |
野々浜散
策(1) |
2008/10/28 城見台から西に向かって歩く。 知原池~石鎚三仏~林地蔵堂~鎮守神社~沖の堂・牛供養塔・太子堂~池の平池 |
| 00 |
上之坊 |
草戸明王院末寺、別名瑠璃堂。天文3(1534)年3月、岡志摩守が建立。別説に坪生正学院末寺城主神原氏慶長2(1597)年建立。
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| 00 |
神原一族 |
上之坊中庭の神原一族供養塔を訪ねる。坪生正学院末寺城主神原氏の勢力が及んだ証しがこの広い墓所であろう。
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| 00 |
真明寺 |
城山の南麗に在り。大悲山真明寺は、真言宗明王院の末寺なり。明応九年(1500)岡志摩守、又は松田次郎元真の建立ともいう。
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| 00 |
塩崎神社 |
海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命を祀る。創建不詳なるも水野新田干拓期の祭神だろう。 |
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
東谷から郷頭山(正面の山)眺望、右手に大門駅、この町の中枢ゾーン |
画像みる ↓ |
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1-鶴島
(厳島神社)
2-亀島
(春日神社)
3-上之坊
(神原酒造)
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大門は古くから開けた土地であることは大門貝塚の出土がそれを証明している。遙か縄文前期の昔、紀元前4~5千年前の古代エジプト・
メソポタミア文明が花開くと同時代にこの地に人々は定住をはじめた。
文明は大河の流域、三角州に出現するというのが定石のようだが、この大門には残念ながら山が低いせいだろう、河川がなかった。
しかしその代用として海があった。大津野湾が深く湾入している上の図のように、縄文時代と比べると水際線は若干退化の傾向があるだろうが
江戸時代の水野藩による干拓工事が始まる前まではこの地形を保っていたと思われる。
上図で大門という地名は牛ノ首~防路ノ鼻、鶴島~亀島の間を通過し城砦へと舟を進める側からの景色ではなかろうか。
鶴と亀とは蓬莱山とセットになった鶴亀蓬莱様式と呼ばれる庭園の増築パターンの一つだという。中国の神仙思想によるこの様式は桃山時代
に流行したという。津之下の光円寺の庭園は往時の様式のまま改築されて今も鶴と亀と蓬莱山が配置されている。
大津野湾に浮かぶ二つの島を鶴島と亀島と命名した人物も桃山時代に生きた人物ではなかったのか。
大門には上図に描かれている場所に古城跡が三箇所残っている。
鶴島亀島の命名者と城主との関係上から考えると歴代城主たちの顔ぶれがその人物であろう。最も古い時代の城主からあげると、まず明知山
城主元徳二年(1330)頃飽浦(あくうら)四郎左衛門、彼は源平合戦藤戸の戦い(寿永元年1184)で名を馳せた佐々木盛綱の末裔で児島半島の
武将である。その後に城に入ったのが尼子方に属する武将、岡志摩守景勝は享禄三年(1530)~天文十六年(1547)頃に居城したという。
この岡志摩守を追い落としたのが河野刑部左衛門光重。攻撃をしかけたは天文年中(1532-1555)とされる。
以上が大門城主たちの顔ぶれだが、鶴島と亀島に祭祀された神社も考慮しなければならないだろう。鶴島の神は「春日大明神」、亀島の神は
「厳島神社」。ただ両社の由緒書きをみる江戸になっての水野藩新田開墾以降の色合いが強いので神社創建とのつながりははっきりとしない。
大門地域内では鶴亀島の両社より顕かに古いことがわかっている神社が「八幡神社」と「賀茂神社」だ。八幡宮・賀茂神社・春日神社・厳島神社
とならべると全国的に知名度の高い社ばかりだが、「惣堂神社」のみが地元色がひときわ輝いている。
以上、中世の大門が水野藩の新田開墾により変貌する。正保四年(1647)の第一期工事を皮きりに人々は海を沖に追いやって新田を広げてきた。
当初の水野検地では千石(人口も千人に満たないであろう)以下だった地域が、海を埋立て山を崩して団地を造った。昭和35年の広島県と製鉄
所との誘致協定が成立し、建設ブームが湧き上がって昭和41年以降に造成した周辺団地が12地域、面積326.4ha人口は大門町全体で
12,000人を超えた。
この写真は城の段と呼ばれる大門城跡から南の展望である。
中央の茂みが郷頭山でここに村役場が建設され、町の中心部だ。その上の削土されている山にも高丸城があり大門城との間で合戦の記憶が
残る。その西側(右手)のアーチ橋の中央が広島と岡山の県境になっている。地図では「防路ノ鼻」を県境が通る。
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| 002 |
烏帽子山に鎮座する八幡神社(五箇八幡社) |
画像みる ↓ |
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鳥居
拝殿
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茅の輪くぐりの大祓祭礼は今年・2009年は7月4日(土)だった
八幡神社の鎮座する山を烏帽子山という。昭和54年の女学校の誘致に伴い現在の場所に本殿を遷し拝殿・社務所は新設となった。
口碑(こうひ:伝承)によると天文7年(1538)8月15日、坪生庄の40村の産社である新住八幡神社の祭礼で信者たちが喧嘩となった。
その時、大門村に三郎左衛門と他二名の剛の者たちが社殿からご神体三体を担いで帰った。(津之下の池に隠したとの説あり)後に
烏帽子山山頂に社殿を設け、大門・津之下・野々浜・能島・引野の五箇村の産土神として祀った。
【 坪生荘の新中八幡神社から御神体を担いで帰ったのは天文7年、津之下の仲富池に隠したとある。
その後、彼らが烏帽子山に祀ったのは実に15年後の天文22年(1553)年のことだった。その理由は次ぎのとおり。
(平井隆夫氏著「おもしろふくやま史」引用)
天文二十年(1551年)、大内義隆は家臣陶晴賢のため殺され、天文二十二年、小早川隆景は五ケ荘を安芸賀茂郡西條高屋白山
城主・平賀新九郎廣相に与える。これは、父毛利元就と陶晴賢との対立が深まったため、平賀氏をして毛利氏に誠忠を誓わすため
であった。この事態にいたり、最早、坪生荘旧支配者より追求を受ける心配がなくなったとして、池の中より三体佛を引き出し、これ
を烏帽子山に祀ったのである。】
祭神は仲哀天皇・応神天皇・武内宿禰だとか。(通常の八幡神社では武内宿禰ではなく神功皇后皇后であるが、、、、、、、)
例祭は毎年10月1日、他に特殊神事として「湯立神事」が同時におこなわれる。 【大門町誌より引用】
坪生庄のシンチュウ八幡神社は鎌倉時代、笠岡有田に陶山藤三義高が新中八幡神社より笠岡13郷を分離し、有田八幡神社に遷し
ている。その13郷とは、有田、押撫、篠坂(備中坪生を除く)、入田、用之江、茂平、大冝、吉浜、生之浜、西浜、大河、木之目、西大
戸の各村だ。この時有田八幡神社に持ち帰った太鼓を火災騒動で一旦坪生に戻した。そして江戸時代に有田側が再度返還を求め
たところ紛糾し、時の領主水野勝成が仲裁して太鼓を二分したという。 ⇒ Click Here
さらに時代がくだって天文7年(1538)8月、五箇村がこの地に祀られたという伝承は他にも似た伝承が残っている。
天文7年(1538)秋、坪生鎮守八幡社に荘園内の各村が参集し協議した。御神体(阿弥陀仏三尊像と鬼鳩・鬼瓦のこと)を持ち帰えり
自村に祀った。この社を春日町にある「浦上八幡社」だという。
<サイト内リンク>
新中八幡神社 → 坪生庄 ClickHere
浦上八幡神社 → 春日町浦上 ClickHere
在田八幡宮 → 笠岡市有田 ClickHere
仲富池 ⇒ ClickHere
茅五ヶ八幡神社の小早川支配下での祭祀
五カ村での祭祀は毎年旧暦八月十五日におこなわれた。そして祭典当番の順序は、当時の村高によって決まっていた。
野々浜村 614石6升9合、引野村 496石2斗6升4合、大門村 431石1斗2升6合、津之下村 430石1斗3升2合、能島村 221石7斗
7升7合の石高が基準となったが、その後の生産高の変化が五ケ村間での神社運営の問題となってくる。
その後引野は水野藩推進の佃沖新田と沼田新田開拓により生産高が大幅に増え、水野藩断絶後の元禄期の生産高は引野村が
429石、引野沼田が1181石となっていた。このため引野地区に入植した多くの移住者たちは引野沼田に天道神社を勧請し、新涯
地農民はその氏子となった。
明治五年(1872)七月二十一日、小田県庁に引野村が五ケ八幡氏子から離脱の申し出を行ったが、氏子離脱の不可となった。
下って大正三年~五年にかけて神社合併(寄せ宮)によって天神社に合祀された。(『福山市引野町誌』より要約)
坪生荘で祀られていた新中八幡神社の分裂が500年の歴史のなかで、やっと地域住民との収まりをみせた事例である。
時代の為政者たちの思惑と、地域の住民たちとの意識の葛藤、神社を維持・管理する経済的な諸事情などで、祭礼対象の八幡神
がたどってきた経緯である。
八幡神社境内の祭祀遺跡
烏帽子山々頂(現在の八幡神社境内)から平安時代末期から初期鎌倉時代にかけ(1100~1200年頃)の土師質土器が多量に
発掘されている。高坏式の皿や杯は坪生荘との関係を持つ九條家との関係など荘園領主とのつながりがある祭祀跡だとと見ら
れている。
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2010/05/18 更新 |
2009/08/20 |

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