| 入江新田竹カ端の「鳥越新兵衛成寿之墓」 昭和33年4月25日、笠岡市文化財に指定された墳暮である。 |
訪問DATE: 2010 05 14 ![]() |
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| 「史跡 鳥越新兵衛成寿の墓」 上の写真は神島大橋に向かう手前、道通神社辺りから 笠岡湾を望む位置で、いわば笠岡海の玄関口風景だ。 写真中央の山が御嶽山、竹ガ端の墓所はその御嶽山の 中腹あたりに集積して写っているがお解りであろうか。 立地的には御嶽山とは1Km以上手前にある小丘である。 干拓地となる前は大・子・孫殿洲などと同じく島であったと 思われる。現在は頂上部全体が墓所となり入江観音堂が 造営されていた。さて、説明板の内容は、重複するが。。。 『鳥越新兵衛成寿は、小田郡本堀村(矢掛町大字本堀) の人である。正徳三年(1713)、笠岡市横島と西大島間の 入り海120町歩の干拓工事を出願した。同志の大商人らの 援助を受けて、苦労の末、享保十年(1725)笠岡代官竹田 喜左衛門の斡旋によって幕府の許可を得る。そして工事に 着工して六年後の享保十六年、新兵衛のねばり強い努力 と優れた土木技術が実り、ついに西大島新田・入江新田・ 浜中(里庄町)の干拓をなしとげ(合計五二町三反一畝六 歩)、西大島新田と入江新田の二ケ村が誕生した。 新兵衛はその功により入江新田の庄屋にとりたてられ、後 には近郷五カ村の庄屋を兼ね、宝暦十一年(1761)九月 二九日、九一才で他界した。彼の墓は居宅の背後の台地 に自らが造成した干拓地を見渡すように建っている。法名 を「見廣院精光浄進居士」という。笠岡教育委員会』 |
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2010/05/14 Created 入江新田竹ガ端の「鳥越家墓所」 この竹カ端には史跡「鳥越新兵衛」と「鳥越家」墓所と二箇所に分散しているので最初の訪問では新兵衛の墓には気づかな かった。鳥越新兵衛の家系は新兵衛から数えて七代目の鳥越道夫氏(昭和28年歿)で途絶えているようだ。そのため庶流もし くは同門の鳥越一族を祭った墓所が「鳥越家之墓」ということなのであろうか。 「笠岡市史・地名編」を紐解くと、入江新田村の地誌としての興味深い特記事項がいくつか書かれている。 1-小字の数が最も少ない村 ⇒(北から)将棋角・孫治端・成ケ端・五郎三郎・道通下・山下・竹山・竹カ端のわずか8つ 2-笠岡諸島五ケ島への拠点として竹カ端に湊があった。伊能忠敬測量隊はこの入江新田村に七日のうち三泊した。 3-煎海鼠(いりこ:ナマコの腸を抜き干したもの、中華料理の食材)の集積地として機能。長崎を経て中国への輸出など、 4-民間商人の資力による干拓地であったため、この地が海運交易所として活発であった。 120町歩の埋立申請に対して完成した面積は52町3反に半減している。その差となった地域はどの面積なのであろうか。 なお大阪商人として干拓工事計画に新兵衛と出願時から名を連ねているのは大阪在住の西川屋源右衛門である。 この他、関係書に書かれた出資商人の名前は名田屋太兵衛、油屋太良右衛門、天王寺屋新右衛門、川崎屋儀兵衛の4人 |
位置図: 笠岡市入江新田竹ガ端 <鳥越新兵衛関係 サイト内・リンク> 竹山の稲荷社 → ClickHere 今立川河口両郡境界碑→ ClickHere 新兵衛墓石拡大 ⇒ Photo 墓所から南方遠望(笠岡湾口、瀬見戸という)Photo 今立川の河口から干拓展望 Photo 大島側から見た竹ケ端墓所 Photo |
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| ☆鳥越新兵衛の家系について 新兵衛の直系は七代目道夫には子がなく、八代目以降は新兵衛の弟の係累から続いているようだ。 ネット情報等から集めた系図はおよそ次ぎのとおり。 (初代) (2代) (3代) (4代) (5代) (6代) (7代) 新兵衛成寿――+――新兵衛芳恭 ――新兵衛成直――+――新兵衛成碧 ――+――代右衛門成用 ――+――新策成紀 ―― +――道夫 第三子(昭和28歿) (宝暦11歿) | (宝暦4歿) (寛政3歿) (文化11歿) (安政2歿) (大正4歿) | +――七良兵衛喜貞(分家) 長女しげ、次女「縫」⇒陶山彦一郎に嫁ぐ(明治25) 注)陶山彦一郎とは中世笠岡山城主として領有した陶山一族の末裔で、永正三年(1506)落城後は帰農し大島在住した一族である。 |
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☆鳥越新兵衛の干拓関係資料について 新兵衛新田の関係資料が「陶山家に保存されている」 という記事をどこかで読んだ。 その本あるいは文書がどこのどんな文書であったか?、記憶が欠落したために図書館に出向き、「岡山県人物事典」を紐解いたが、ヒットしなかった。 折角だから、読み込んだ事典の内容を下欄に書き留める。 【鳥越新兵衛(寛文11~宝暦11年 1671-1761) 笠岡湾干拓の功労者。名は成寿。小田郡本堀村の庄屋四郎右衛門の子に生まれる。 幼年から才覚に富み辛抱強かった。成長して大阪に出、苦学の後に土木業を経営して尼崎屋を興す。笠岡湾干拓を志したが資金は乏しかった。しかし、 永代十人両替の一人となった天王寺屋新右衛門をはじめとする大阪の両替商ら四人の信任を得て約3000両の資金調達に成功、正徳3年(1713)幕府に 開発許可を出願した。しかし、開発予定地に隣接する西大島村(鴨方藩領)、浜中村(摂津麻田藩領)、横島村(幕領)の支配関係が入り組み、完成後の 帰属問題、周辺村々との海域の協定、用悪水問題の解決に手間取りその上度重なる笠岡代官の更迭などもあって、開発が許可されたのは出願から12 年後の享保10年(1725)新兵衛55歳の時であった。工事は翌月ただちに着工、7ケ月後には潮止工事に成功し、その後五年後には全ての干拓工事が 完了した。干拓の内訳は、今立川の左岸が鴨方藩池田家領西大島新田として36町歩弱、浜中沖新田として1町9反弱、右岸は笠岡代官領横島入江新 田として16町歩弱の新田合計53町6反弱、干拓総面積は約123町歩であった(新田面積は「笠岡湾干拓史」より計数)。人々はこれらの新田を総称 して新兵衛新田と呼んだ。新兵衛の子孫は、新兵衛を含めて以後明治維新まで、代々入江新田村(現笠岡市入江)庄屋を務めた。 笠岡湾の干拓は藩営干拓が主で、町人請負新田としては新兵衛が干拓創始者である。(矢掛町史本編、笠岡湾干拓史)/鳥越義親】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 建設資金の3千両を@5万円で現代相場に置き換えると1億5千万円。 生み出された新田面積53町歩弱の土地を坪換算すると、15万690坪、道路・水路・緑地などを30%として除き、@10万円で売り出すとざっと110億円 となる。記録によると埋立用資材はすべて無償調達のようであるから、運搬と施工にかかる人件費とあとは管理費。後者の方が大きかったかもしれない。 申請から12年、ころころと笠岡代官が替わるたびに付け届けを要求されたことであろう。 新田完成後も鳥越新兵衛は入江新田に定住しているところをみると、出資者との決済も上手く収まったようである。出資者たちは貸金業者のようだが、彼等 もまた、辛抱強く新兵衛を支えたものだと感心する。初期投資がいかほどあって、最終的な帳尻がどうかったかは伺い知れないが、この時代のハイリスク ハイリターン投資であったことには間違いないであろう。 (2011/06/18 追記す) |
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