西大島瀬溝に注ぐ大島川


 東西に貫流し水源は大島二階、流長4,250m

地名考

☆2010/06/02 Tuesday 大島郷土史クラブで散策(LinkHere)より大島川を抜粋、一部加筆

  「大島村略誌」(s12年刊行 by住吉巴氏)
    源を大島中二階に発し大島平地の稍南部を西流して瀬溝海峡に注いでいる。流程4,250mで灌漑川として郡中稀なものである。
  海に注ぐ所金崎橋附近は風光が良い。
  大島村内にある貯水池の数は109で是等の水面反別は15.5町歩に達する。またその灌漑段別は153.1町歩である。その最も大きい
  池は阿正谷上池(水面1.6町歩)、同下池(水面1.0町歩)である。

 
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瀬戸




いう



位置図⇒
 上の写真で大島川は写真の左端、御嶽山の北西山麓から瀬溝の瀬戸に注ぎ込んでいる。瀬溝瀬戸という命名は潮流の速い海域
なので操船者が絶えず汐と水深を見ながら舟を進めたた名残りであろう。また、夏目地区には岡山藩の港があり北前船が着いた
という。

瀬溝の港
 昔、岡山藩の御典醫竹井養貞の門に貞齊と云う宗國の人があった。貞齊は備前藩に港がない事を遺憾に思って養貞を介して瀬溝
の浜へ港を築く事を願い出た。奉行は大勢の役人と共に瀬溝の地形を視察して後、夏目の里民を集めて、「若し数多の船舶が寄港し
て飲用水を求めた時、この地の共同井戸を汲み取るとも異議はないか」と糺して異議のない事を認め、誓書を作らせて茲に開港を決
定した。貞齊は藩から無利息十五年賦の金子を借り、地を撰んで無料拝借を請けて事を始めた。

その後漸くに瀬溝の港は豊後の佐伯の船を始め北前船等淀泊し帆檣(ほしょう)林立して殷盛を極めるやうになった。これが岡山藩と
しての開港許可の嚆矢であったそうである。その後寄島が開港せられたので瀬溝の港は日に衰えて昔の俤(おもかげ)さえなくなった
が、今も当時の荷役場であった所を「御用ガ浜」と呼んでいるという。


金崎


記念碑


旧「金崎橋」竣工記念碑  
 西大島側に建つ。「大島のガイドブック」(大島公民館郷土史研究クラブ刊)によると『明治24年に鳥ノ江の植田利喜三郎が発起人となり大島を含め近隣の有志147人の寄附と6人の勤労奉仕によって橋長32.0m橋巾約2.0mの「金崎橋」を完成させた。』その記念碑がいまでも大島川河口右岸に残っている。写真右は河口から東方、青佐山を望む。写真右は河口から南方、瀬溝を望む。位置図⇒


舟入の井戸


「舟入の井戸」へ続く古道  
 大島川の河口から東へ向かって堤防沿いにおそよ400mほど遡及すると右手に長い建屋がみえる。この橋を渡って御嶽山北麓の古道が往時の往来である。元禄二年完成の大島古新田の水際線であり、この場所に舟入の井戸がある。川の反対側には土手尻の防風林が今でも残っている。
池田藩支配の元禄年間に造成された古新田の地先が西大島新田である。
位置図⇒


舟入の井戸


「舟入の井戸」土手尻(写真右)  
 大島川の河口のこの井戸から舟が給水をしていたところからの命名。享保十六年(1731)西大島新田の完成後は土手尻に入植した三十一戸の家がこの井戸を使用、昭和初期頃まで殆どの家が利用していた。一方、井戸から恩德~竹田~五明へと続く御嶽山北嶺古道は部分的に途切れてはいるが、祖間道として続いていた。川の北側は右の写真のとおり土手に沿った直線道が津雲貝塚の前を通る県道に続いている。









「青地蔵」 右後方は石砂集会所  
 「大島川に沿った土手尻と川尻の中間にある。青色の自然石(黒岩の閃緑岩ママ)で作られ、南無大師遍照金剛、宝暦十一年(1761)十月と彫り込まれている。隣の道しるべの石が立っているが、道路改修でその大部分が埋もれている。」
(公民館資料より)
左の写真の道標は近年の再建であろう。右入江新田・横島 左大島中・寄島
位置図⇒

 

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