唐井から原・矢部・砂・茅原を経て小黒崎へ歩く
 唐井から「法界」に入り、薬師堂を通り嚴島神社、昔の海岸線が体感できるコースと云える。
訪問DATE: 2010 04 08 

 縄文時代の土器が出土した原貝塚は現在は「つばくろ
保育園」と、隣合ってゲート・ボール場になっている。
名切と云えば津雲が有名ではあるが、時代はこちらの原
貝塚の方が遙かに古いという。笠岡には島しょう部には無
土器時代の遺跡があるが本土ではここが最古である。

茅原の谷は広くて深い。この谷にも馬貸の馬の放牧が?。

2010/04/11 Created (2011/05/31修正)
 
 「西大島古道を歩く」の散策景観とその紀行文 → 事前の下見2011/04/04歩き記 HitHere
 
  当日新たに聞いた地元情報。藤井皓玄の小祠のある附近を「コマル」と云った。「困る」の意味だろうと思っていたが、その理
 由は不明だったとか。コマルは「小丸」(低い小さい山の意)、ではないだろうか。茅原の谷を小黒崎へ越える附近の峠を「ヨロ
 イダワ」という。藤井皓玄の一党が神辺城から落ち延びてこの地に辿り着き、ここで鎧を脱いだという伝承である。とすれば、
 皓玄たちの逃亡経路は神辺~坪生~有田~大戸~広浜~浜中~小黒崎~鎧峠(ココ)~石砂(赤澤修理之介に討たれる)
 であろうか。永禄十二年(1569)八月のことである。皓玄の首級は楢崎三河守の手に依って緑井の毛利元就の本営に運ばれ
 て一見に供されたという。なお、皓玄の死亡時期は諸説あって、(八月七日に神辺城が落城し)『川相誌』は永禄十二年八月
 十六日と断じ、浜本憲章は同年八月十八日(又は廿一日)としている(『備後史談』第十二巻)。
 また皓玄研究家の藤井茂氏はその著『小説乱世の舞 藤井皓玄』では永禄十二年十二月三日、とされている。
   藤井さまという小祠が400年を超えて今だに口碑として語り継がれているには驚かされる。小黒崎には藤井姓が数十軒の
 皓玄子孫たちが住んでおり、「若宮さま」として小黒崎に藤井神社を祀っている。わたしには舟型に見える自然石の台座の上
 に鎮座する本宮の脇に小さい「クドバカ」が並んでいる。その屋根に当たる箇所に「藤井神社」、天保十三年(1845)の銘あり
 当然ながら西大島新田が出来たのが享保十六年(1731)なので当時は龍王山の西側は海なので藤井神社は海岸線に当る。
 二号線バイバス道は名切から龍王山を遂道で貫き里庄へ抜ける、目下測量点設置段階であろう幅員マークが点在していた。


位置図: 笠岡市西大島唐井

 2011/05/25
  この日の参加者は大島郷土史研究クラブ員20名。
 大島公民館からざっと4Kmか、唐井から龍王山の麓を
 迂回しながら茅原谷を越えて小黒崎の荒神社までを
 歩く。左地図に案内のポイントは、①唐井の薬
 師堂、②原貝塚、③砂の59番札所、「国分寺」④嚴島
 神社(別名「妙見宮」摂社として金刀比羅宮)、荒神社
 一宮神社、⑦茅原(玉島・笠岡道路建設予定地)。
 ⑧茅原の56番札所「泰山寺」、⑨大元教(だいげんきょ
う)本部、⑩笠岡温泉、⑪塞の神、⑫小黒崎南の藤井神
社、⑬荒神社(摂社に木野山神社)、⑭名切八幡神社

過去の大島Walking, 第1回(2010/04/08乗時・十字)
第2回(2010/06/02石砂・川手)第3回(2010/12/
02土生峠越え)
,よって今回は第四回目となる。