| 大嶌中邑長濱御臺塲繪図 「住吉家文書」で発見 2012/01/20 |
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| ☆文久三年八月(1863)青佐山とここ大島中長濱の海岸に砲台が完成した 攘夷に備えての岡山藩の対応で、時の藩主たちも巡検に長濱を訪ねた記録が残っている。 |
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| 国道486の南側、井原線湯田駅から南東 |
「大島備忘録」に鴨方藩主池田政詮の御台場巡検の記録あり |
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『住吉家文書』より 大島中邑長濱御台場、文久亥(3年1863)八月出来。 他に書かれている文字は、 内外惣長拾三間(23.53m) 内面長七間半(13.6m) 炮門 寅夘(東北東)、己午(南南東)、未申(南西)の三門あり。 ~~~~~~~~~~~ 池田政詮公海岸御巡視 文久三亥十一月十日昼過ぎ、大島村長濱上陸(舟にて寄島より)、臺塲御検分。后、西大島名主 (服部)善平宅にて小休、原田三郎右衛門宅一泊。 十一月十一日切子池奥にて兎狩、野山にて昼食。蜜柑投げ大平の谷兎狩。天神池通り原田三郎右衛門宅へ帰り再宿。十一月十二日正六ツ御供揃青佐山登山、青佐臺塲見分。八幡宮、竜城院前通り柴木へ出、菅野越し原田三郎右衛門宅へ参宿す。 <つづきは下段へ> |
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『浅口郡誌』に掲載の 長濱御台場絵図 この図面は元治元年八月という年号あり(1864)。文久三年(1863)8月完成なので完工後の絵図であろうか。 上図と同じ図面だが、縦横の比率が上図に劣る。 また肝心の炮門の開口部の方角が上図と異なっている。更には細かい点ではあるが内壁に建てられた柵の位置と本数などが違っている。 南北方向(長辺)八間半で東西(短辺)は八~七間二尺、堀廣げと書かれているので削平したのであろう。メートル換算では15.4x14.5~13.4mとなる。 絵の右下に通路があり砲門は三方に開かれている。城壁は高さ一間一尺(2.1m)である。 ~~~~~~ <上からのつづき> 渡邊太惣治彦訓(くにorのり)著 殿様御廻在日記 文久三亥年 十一月八日より 御供 三百七拾五人 一、大島中村字奥 老女孫市後家 年百三ツ 一、同村半蔵親 寅松年九十八 右両人共拝見に出で長寿之由、上川手御内砂召し出だされて、御菓子御扇子頂戴仰せ付けられる。 取次役は安井杢二郎 この殿様とは鴨方藩主池田政詮のこと。西大島備忘録に十一月十日昼過ぎ、寄島より舟で長濱へ上陸している。 よって、政詮公は八日から九日にかけ、正頭~寄島で二泊し、舟で長濱に上がり砲台の巡検の後、兎狩の行程となる。 |
| 渡邊太惣治 (「浅口郡誌」より) ⇒ そのルーツ「竹田稲荷社」由緒 ClickHere 大島中、竹田の人なり。字は彦訓、通称は太惣治、峒翁と號す。人となり聡慧にして磊落、和漢の学に通じ特に算数に 長ぜり。父良蔵の後を継ぎ、天保十四年[1843]鴨方藩へ仕え営繕方及び御林山御用を勤む。就中普請奉行常手代として 土木事業に最も功績を残せり。嘉永三年[1850]東高梁川に大洪水あり。四十瀬新田村の堤防決潰するや築堤起工の事に 当たり、半年を費やし工漸く成り住民と其堵に安んず。 文久三年、藩命を以て大島中、長濱に砲臺を建設し(今、長濱に臺塲阪)、同年更に青佐山の南麓にも砲臺を建設せり。 (其の遺構現存す)降りて明治元年に至り早崎の海面を埋立てて築港街路を通ずるや、奉行水田市右衛門・筒井宣太の 下役として、実際の任に当れるのみならず、治水事業には用水池(慶応池、里町村字池口にあり)、新池(津雲にあり、 明治初年成る)を鑿てり。斯くの如く土木作業に従事するもの二十八年。明治二年藩制改革あり。御郷小頭仰せ付けられ、 六年士族に列す。晩年家居して風月を友とし和歌俳句等に妙を得たり。明治三十年一月歿す。年八十。三男二女あり。 長を譲平と呼ぶ。 |
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| 附近略図:笠岡市大島中 長濱 |
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