大島郷は律令制下の行政単位
平安中期の『倭名類聚抄』に浅口郡大島郷
大島郷 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
備中国西南部の郡制では、高梁川以西の山陽道筋を、畿内側から下道郡、小田郡、後月郡と分け、山筋を南側に越えた沿岸部を浅口郡と
している。備中東部の沖には備前児島が横たわっているため、浅口郡が備中の瀬戸内への出入口と言えた。そして現在の新倉敷(玉島)地区
から笠岡に沿った国道2号、JR山陽線が通る付近は、古代には海(水道)であり、14世紀頃まではかなりの大型船舶の航行が可能であった。
途中には難破した船に由来するとされる「唐船」(倉敷市玉島阿賀崎)という地名もある。古代の沿岸航路としては、備前の吉備の穴海から児島
の北側を藤戸で抜けて備中に入り、浅口の甕の泊から大島の北側を通り備後へ向かうのが一般的であった。(神功皇后の三韓征伐では、
大島の沖を通っており、これが寄島(三ツ山)の由来となっている。)おそらく海で隔たられた島全体を、「大島」と呼んだと思われる。
大島荘 by 『笠岡市史』
大島荘は建久二年(1191)の「長講堂領日録」の中にその名が見える。この時点での所領は九二か所があげられているが、長講堂領は南北
朝時代ごろには総計一八〇か所に及んでいる。南北朝時代頃の大島荘は「大島保」と記載されている。「保」とは元来、有力農民によって開墾され
た私有地であるが、国衛の管轄下にあり租税を納めたため、後には国衛所管の土地を保と呼んだようである。保には保司がおかれ保務に当たった。
長講堂領となる以前の大島荘は、保と記載されていることから備中国衛領であったことが推察される。備中国衛領であった大島保がなんらかの
由緒によって長講堂領として施入され、そのときに荘園となったものであろう。
(「鴨方町史」によれば、大島郷の現在区域は笠岡市西大島・大島中・里庄町浜中・新庄、浅口市寄島町、鴨方町六條院西・六條院中・六條院東、
金光町佐方・須恵・大谷、倉敷市玉島黒崎を含む一帯である。)
東大島は明治9年東大島村、六条院西村の飛地、安倉地区が合併に寄島村となりより消滅した。、
寄島村は明治34年に町制に移行し2006年03年21日には平成の大合併で鴨方町・金光町とで浅口市となった。一方、大島中・西大島は昭和30年
04月01日、笠岡市と合併し笠岡市域となった。
(歴史研究クラブMemorandum)
☆大島から柴木へ
現在は浅口市域となっている柴木は茶臼山の観定峠でに大島につながり、その昔は大島に包含されていた。寛延四年(1751)の古文書に書かれた
「大浦八幡宮祭礼競馬定競馬帳」の競馬株の分布を見ると全部で19頭、うち「柴木」に4株が割り当てられている。しかも内3株は領家株・1株が地頭
株と分かれている。柴木を「しわき」と読むのも上古の訓読だという。また柴木地区内こまり山台地には「宮の前古墳」があった。時代が降って江戸時
代の池田藩の藩校に先立つ儒学の手習所が柴木に設けられた。以上のことからも柴木が大島の中心的な位置を占めていたことが窺われる。
柴木散策 2010/01/10 ⇒ ClickHere
満洲開拓魂碑 ⇒ 笠岡古城山公園の碑文
日露戦争以降の富国強兵・領土拡大・大東亜圏実現にむけて国策として海外移民を奨励してきた。特に昭和7年三月の満州国の建国から「満蒙
開拓団」の派遣が行われた。拓務省(外地統治・移民事業を担当・昭和4年(1929設置)が「満蒙移植計画」を主導し10月に第一次移民団492人が
吉林省へ渡った。その後、大島からも昭和16年4月1日「浩良大島開拓団」の名称で第一陣として二十名の団員が満州に渡った。昭和20年の日
本敗戦によって引き上げが開始されるまで、大島だけで実に94名が満州へと移住している。
碑文には、
『とこしえに 月日はてらせ くにのため 散りにし 拓友の みたまいしふみ』 と刻まれている。
満州から祖国への帰国を果たなかった開拓団員の数はほぼ半数ちかくになるという。戦中の如何に厳しい環境であったのか、想像に絶する数字
である。終戦から64年がたった現在も毎年夏には笠岡古城山公園のこの碑の前に関係者たちが集い、慰霊祭をおこなっていると伺った。
☆2009/08/14 終戦記念日の第48回「開拓魂」慰霊祭 ⇒ 参列させていただきました。ClickHere
(サイト内リンク ⇒ 笠岡古城山公園石造物 ClickHere )
☆2009/11/12 北川の昔を訪ねる会・大島郷土史研究クラブ交流会 ⇒ 連絡先to 『大島公民館』( 0865) 67-0176
「正頭海の家」で開催、座学のあと現地を見学 ClickHere
☆2010/04/08 乗時・十字西国三十三観音霊場巡り ⇒ 天神池が起点でぐる~と1周、全行程4,500m ClickHere
☆2010/06/02 石砂・川手~竹田まで御嶽北麓古道歩き ⇒ 大島川河口より東歩し竹田まで、約4,500m ClickHere
☆2010/07/07~07/20 拓本講座へ参加 ⇒ 鴨方在住坂本寅明先生の教室で三日コース ClickHere
☆2010/09/01 正頭漁港についての学習 ⇒ 天明年間に築造された漁港と漁業について考える ClickHere
☆2010/10/06 河神社境内の碑文採拓、拓本学習 ⇒ 採拓作品は乾燥中。作業中に瓢箪絵を石垣に発見! ClickHere
☆2010/11/18 白石島の歴史と文化を学習 ⇒ 白石公民館館長を訪ねて座学と戸外学習 ClickHere
☆2010/12/02 土生峠・乗時~大空・牢ノ谷 ⇒ 海の見える家より出発、峠越え後に脱落すClickHere
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☆2011/05/25 西大島古道を歩く(唐井~茅原~小黒崎~4社荒神社)縄文前期の原貝塚から東進、藤井皓玄一族逃亡路?ClickHere
☆2011/10/18 寄島三郎を歩く(アツケシ草群生地~茅陰の井戸~旧八幡社跡)三郎島は青佐山正横で東西に並ぶ ⇒ ClickHere
☆2011/12/17 西大島・入江新田を歩く(横島縦走~今立川河口~西大島古新田土手尻~西大島新田)行程abt6.2Km ClickHere
御嶽山:笠岡第二の高さを持つ名山、浅口市の青佐山とともに昭和25年に国立公園に編入された。)
山頂から山麓にかけては、龍王官・御滝権現・御嶽山33観音・三石山33観音・大島88ケ所などの霊場が置かれている。 登山道は鳥ノ江峠を起点
として権現道と林道が整備されている。鳥ノ江峠へは夏目からと石砂から登る道がある。 -------→ ClickHere
津雲貝塚:後期・晩期の縄文人たちの集落遺跡で人骨が170体発掘されたことで一躍有名になった。そして発掘調査がはじまったのが大正年間。
やや扁平な顔つきと何よりも抜歯の風習をもつ当時の人々の風貌と副葬品などから日本に定住していた原始ムラ社会を彷彿とさせてくれる。
わたしにとっては最初にこの場所を訪れ、この「笠岡遊歩」のサイトに書き込みをはじめるきっかけとなった思い出の地でもある。
当時の海は入江より津雲付近まで湾入し、西側の対岸の横島は三つに分かれていた。横島の鳴ケ端とは600mを隔てた距離でこちら側にも
人々が定住して暮らした遺構が発掘されている。 -------→ ClickHere
乗時の里:ここは大島の最東端、浅口市に隣接し、南に向かって下れば正頭にでる。
応永二年(1653)から明暦・万治をへて寛文11年(1671)までの18年間、検地帳の照合から開墾された畑の記録がある(笠岡史談会会報)。
場所は仁佐エ門開地(かいち)と呼ばれた土地で、二階池の東にある畠ケ市という小字に明治5~20年にかけ3.26畝の土地図に所有者「彦市郎」
と記されている。この人物が陶山一族の後裔、系図によれば第42世陶山彦市郎高顕(嘉永元年~大正8年)である。
陶山氏は足利幕府の滅亡により笠岡から神島の自性院に逃げ落ちたという。陶山氏に代わって笠岡支配は村上一隆重親子となり、関ヶ原合戦
の後は徳川幕領となり明治維新を迎えたが、陶山氏の末裔は乗時で維新となったという。 -------→ 豈越池 ClickHere
☆2009/07/09 陶山家の墓所と二階池も訪問発見! ⇒ 2010/04/08 発見!! 陶山最後の城主の五輪塔があった→ ClickHere
大島在住のKさんに現地まで案内していただいた。 乗時に「二階池」という池はありますか?という問いかけから、陶山家の墓所があると
聞いて驚いた。 笠岡の方だと知らない人が多いでしょうが、大島に住んでいる人だと誰でもが知っていますよ、と云われてまたビックリ。
つい最近まではこの大島に陶山姓を名乗る家が一軒だけあったが、今は出られていなくなった。でも墓所にはお参りはされていますよ、とのこと。
場所は県道406号笠岡寄島線を東へ、乗時を過ぎて青佐山の西麓の浅口市との境界にちかい大島の東端である。陶山墓所 → ClickHere
墓所の字名は「二階」、大島川のルーツは昔海だった。いまでも畑を掘ると貝殻がでるらしい。大島新田開発の歴史的指標でもある→ ClickHere
大島の傘踊り: 成り行きで鴨方分類になりました。 ⇒ ClickHere
現在の行政区画で笠岡市に属する地域は大島中村と西大島であるが、東大島村が寄島町となって浅口市に分かれている。
江戸時代まではこれら三村は共に池田領分鴨方藩に属していた。そのため笠岡市内の他の地域とは異なり、江戸時代に池田藩下の神社統合が
あった。この二つの地域内に428社あった神社が集約されるという歴史をたどってきた。その経過と状況が「大島の神社史料集」として冊子になって
いる。以下、この資料にもとづく引用である(平成7年7月刊行、編者不詳)。
「(笠岡市域後の)大島の神社は西大島名切、矢部の平地より東方の旧大島中小字東光坊の丘陵地を経て鉢山・青佐山・御嶽山の三山に連亘する
コの字型を主軸とし名切~東院坊への東西線上に鎮座する。
大島内で最も多い社は荒神社で11座、次いで天神社が7座、その他18座合計35座(大島中17、西大島17)となっている。
旧池田藩が神社管理をおこなった神社帳へ記載の残る社別では、寛文神社帳(大島中1座、西大島2座)3座、宝暦神社帳(大島中4座、西大島
1座)5座、無登録社(大島中12、西大島15)27座である。旧縣神社帳登録神社区分(旧社格)では村社が3座、村社格(s21・1月)3座、無格社29座
である。
寛文7年(1627)池田光政の合祭命により淫祀を廃す。
当時備前、備中における神社・小祠の数は実に11,130に達し、その多くは俗荒神と号し、山伏、巫女の徒これに拠り、疫癘(えきれい:疫病のこと)・
災難・狐狸の祟り等種々の妖言を流布して愚民を誑(たぶら)かし、迷信の弊害殆どその極に達した。
国主光政公は深くこれを憂え、寛文6年神社の整理統合を計らんと先ず領内各神社の由緒を厳密に調査せしむ。是において郷村の氏神として由緒
正確なる神社601を存置し、その頽廃せるものはこれを復興し、もって祭祀厳修の途を構ずると同時に、由緒正しからざる小祠10,529社は断然これ
を廃し、新たに緒郡代官所七六所に各一社を建立して、組内内の廃祠をこれに合祀し吉田家の證印を勧請した。時に寛文7年(1627)2月晦日にして
これを寄宮と称す。(『池田光政公伝』)
寄せ宮 190社(西大島)内訳
権現(1)厳島(1)天神(3)荒神(7)十二神(15)七社(30)山之神(45)藪神(35)いわい神(45)若宮(8) 238社(大島中村)内訳
天王(1)八幡(5)荒神(9)山之神(62)天神(3)たさい神(6)十二神(40)七社(10)藪神(45)若神(16)いわい神(41) 大島村合計 428社
外に東大島171社・六條院西村231社・六條院中村192社・六條院東村147社・口林村193社・池口村176社 総合計 1,538社
右八ケ村の諸神寛文七年六條院中村牛頭天王宮社地、住吉神社へ寄宮に相成申候。
この資料によると寛文7年(1627)まではこの大島地域で428社もの小祠が祭祀されていた。
全体で最も多い社は「いわい神 95社」ついで「藪神 80社」・「十二社 55社」で大半が占められている。
いわい神(祝神:いわいじん)も藪神(やぶがみ)も同族で祀る株神とも呼ばれる地域限定の小祠であろう。妖怪・祟り・怒りなど諸々の自然現象に
関連づけて鎮めるための祷りの場所であった。祝神は稲荷信仰に近い農業神かもしれない。藪神は屋敷の北東に祀られたりもする。
同族であれ地域での祷り場は宗教的な要素のみならず社交場であり情報交換や講中の経済的機能を果たすシステムとして不可欠だった。
池田藩の神社統合は幕藩体制となり、地域経済の末端まで為政者が目の届く安定した社会への転換ともとれる。池田光政公伝には、
「備前、備中御領分村々において故もなく、或いは狐狸等の祟りを成し候とて祝置荒神と号し候淫祠これ有るにつき巫覡(ふげき・巫は女で覡は男)
之輩種々の邪説を成し、彼の荒神に祷りその利を貪り民を惑わし候。依りて憂い思召され、江戸の御役人中へ達せられ、その上にて吉田侍従卜部
兼連朝臣へ仰せ遣わされその村の産土神あるいは故これある正社を残置きされ、その他の淫祠10,527社郡吏に命じてこれを毀され、七六社とし
(代官七六人これ有るに付き一代官所に一社宛寄之)吉田侍従より御證印被仰請、寄社と号し被建立如左、自今以後備前・備中の領分に於いて、
新規に小社等取建候事堅く停止されるの旨仰せ出さる。」
注)寛文神社帳に登載されていた社は現存27社のうち次ぎの3社にすぎなかった。⇒「河神社」・「一宮神社」・「菜切八幡宮」
☆2009/12/11 大島地域の神社一覧 -------------⇒ ClickHere
| 神社 |
祭神 |
創建 |
由 緒 他 |
| 河神社 |
大山祇命 |
永禄元年(1558) |
当初の社名は「山王宮」柴木(現寄島)の天台宗石門山(いたぐまやま)弥勒院長法寺が日吉神社(ひね)を勧請合祀で創建、その後岡山藩により寛文4年(1664)現在地に遷座した。明治6年、大島中村の村社に列格。明治20年に社殿創建。 |
| 一宮神社 |
吉備津彦命 |
文正年中 |
文正年間(1446-1467)に備中一宮・吉備津宮から勧請。明治6年村社に列格、明治8年に第4回目の改築をおこなった。境内は1,454坪、主要建物は本殿・幣殿・拝殿、境内摂末社は天神社・菅原神社・沖神社・住吉神社・嚴島神社を祀る。氏子数は大島西村200戸。 |
| 八幡神社 |
応神天皇 |
文禄4年(1595) |
文禄4年(1595)4月15日応神天皇の御木像が菜切と称する器に乗って海岸に漂着した。これを現在菜切と言う部落の山頂に勧請した。慶長2年本殿を改築、明治6年村社に列格、昭和51年に本殿屋根葺替の大修理。境内2,254坪、摂末社は小黒崎神社・島之江神社 |
(由緒他の記事は、「岡山県神社一覧」と「おおしま風土記」より引用。
小烏神社(2010/01/23)
☆サイト内りんく
| 表題 |
内容・詳細・説明 |
場所 |
Date |
| 津雲貝塚 |
笠岡湾に面した丘陵地(西大島名切津雲)に津雲貝塚がある。最初に訪れ日記を「笠岡遊歩」の1頁とした。 |
名切 |
2008/04/25 |
| 塚大明神古墳 |
横島の鳴ケ端で発見された横穴式古墳、後になって戦国時代にここに陶山一族の海城が築城された。 |
横島 |
2009/04/02 |
| 大島傘おどり |
貞亨3年(1686)、長川寺で、領主細川通董の百年忌法要の時、夕立に備え持っていた傘を使って踊ったのが起源 |
鴨方 |
2010/08/14 |
| 正頭五輪塔 |
笠岡市内最大の五輪塔。室町時代の建造と云われているが、祭祀されているのは浅野氏の先祖とも。詳細不明 |
正頭 |
2008/10/18 |
| 〃(四軒屋在) |
同上の五輪塔の姉妹編にもみえるのは両者が地元同族別流の浅野家の皆さんが今もお守りしてるから、さて。。。 |
正頭 |
2009/11/11 |
| 恩德山五輪塔 |
御嶽山北麓にあり。大島川を隔てて一宮神社の対岸に当たる丘である。水輪が欠如し風空輪も代替品か? |
恩德 |
2010/01/13 |
| 皓玄終焉之地 |
永禄12年(1569)自刃、諸説あるなかで、神辺城落城より浅口郡西大島石砂の池の堤で。阪谷芳郎の碑文あり。 |
石砂 |
2009/03/31 |
| 岡南堂と五輪 |
御嶽山北麓の釈迦如来堂であり御嶽山33観音の発願・結願の地であり原田家の墓所、そして7基の五輪塔あり |
石砂 |
2009/11/12 |
| 青佐山砲台 |
文久3年(1863)、岡山藩主池田茂政は鴨方藩主池田政詮に尊皇攘夷・海岸防備のため青佐山に砲台を築かせた。 |
鴨方 |
2008/10/27 |
| 青佐山城址 |
永禄二年(1559)、細川道董は伊予川之江城から毛利の援助を受けながら、大島に上陸し青佐山に城を築き入城 |
寄島 |
2009/11/25 |
| 御嶽山のぼる |
△320.1m市内の名峰、眺望ルート・静寂ルート・信仰ルートあり(「笠岡十名山探求会」出版パンフによる)。 |
夏目 |
2008/05/07 |
| 鳥越新兵衛碑 |
西大島新田と入江新田を拓いた偉人。矢掛で生まれて尼崎にのぼる。土木業を営み、後に大島に移住。 |
入江 |
2008/05/07 |
| 鳥越家鎮守社 |
「稲荷神社」という社が入江の小丘に在る。新田干拓工事落成後、鳥越新兵衛の夢に神がでて勧請したのが起源。 |
入江 |
2008/05/07 |
| 祈雨神社 |
御嶽山頂上に鎮座、同境内には平安時代、叡山座主第三世円仁上人(慈覚大師)建立の伽藍跡が残る。 |
御滝 |
2009/03/31 |
| 陶山家墓所 |
大島が浅口市と境界を接する青佐山の西麓の竹藪にある。墓石の数はおよそ30基、二階池はこの墓所の上。 |
二階 |
2009/07/09 |
| 陶山家墓所2 |
二階墓所以外に第二墓苑があることが判明。さがして歩きやっと発見、しかもそこには高雅の五輪塔があった!! |
松尾 |
2010/04/08 |
| 陶山墓所寺間 |
陶山藤三義高一族の墓所が寺間にあるというので訪ねた。場所は寺間の観音庵から80mほど山を登った茂み |
神島 |
2010/09/14 |
| 拓魂慰霊祭 |
東亜新秩序建設と民族協和の達成、国防力の増強・産業振興を期し農村の更正と発展に資するを目的とす。 |
城山 |
2009/08/14 |
| 河神社 |
山王宮が明治3年に社名が替わった。創建は寄島・柴木に元禄元年(1558)9月16日と伝えられる古社。 |
山根 |
2009/12/05 |
| 王屋敷跡 |
宇坪淺野氏が正頭へ定住したのは文應二年(1261)正月、加賀國から神島を経由して大島郷に永住したという。 |
宇坪 |
2010/01/08 |
| 柴木周辺 |
大島から茶臼山と鉢山の狭間、盗賊たちが勘定をしたと伝わる峠の東が柴木である。さまざまな文化集積地だ |
寄島 |
2010/01/10 |
| 33観音霊場 |
乗時「天神池」から山に入り、時計廻りに十字・両家・の頂上にある菅野池まで上る、乗時・十字西国33観音霊場 |
乗時 |
2010/04/08 |
| 御嶽山古道 |
大島川の河口近くに舟着き場があった。そこには「舟入れの井戸」が残っている。ここより古道のワォーキング~ |
石砂 |
2010/06/02 |
| 大島傘踊り |
第17回大島公民館主催「ふれあい納涼の夕べ」で披露された「大島傘おどり」を見る。参加者は7~8百人ほどか |
竹田 |
2010/08/14 |
| 正頭漁港 |
天明年間(1780)築造されたという漁港の沿革と大島の漁業変遷を学習し現地を見学(大島郷土史研究クラブ) |
正頭 |
2010/09/01 |
| かなまら神社 |
明治初期以来、鳥ノ江と夏目地区で祀ってきた泌尿器関係に霊験あらたかな小祀、島根県の根雨より勧請と伝う |
鳥江 |
2010/10/02 |
| 平松の石仏 |
県道432号正頭~乗時の小字「石佛」に鎮座する17cmの石造仏で元和七年(1621)文書に掲載されている古い物 |
石佛 |
2010/12/02 |
| 青佐山のぼる |
二階から県道をはずれて松尾の峠を越えて大空へ。Kさんの案内で青佐山登山口まで車、ここから登頂す。 |
大空 |
2010/12/06 |
| 三郎島縦走す |
三郎島の旧名が寄島という。遙か三世紀の頃、神功皇后が軍団を率いて寄航したことから寄り島と名付けられた |
三郎 |
2010/12/06 |
| 福井山十二坊 |
二階から東へ、賽の峠をこえると鏡に入る。ここに平安時代に天台宗十二坊が築かれた。福井山周辺も歩いた。 |
鏡 |
2010/12/22 |
| 山代の五輪塔 |
県道432を東に山を分け入ると、五輪塔がある。近くには枝木家の墓所がありそこにも数基の五輪塔が祀られる。 |
山代 |
2011/03/10 |
| 大島川遡及す |
流長さ4,250mの大島川は大島新田開発によって約400mほど長くなったことがわかる。河口附近の遺跡散策 |
瀬溝 |
2011/04/01 |
| 乗時丘陵地神 |
正面に「地神」、裏面は年号「明治十六年十一月再建」その隣に「今城性」、神名はなく脇には石灯籠あり。 |
乗時 |
2011/05/16 |
| 西大島古道 |
唐井から宗国への分岐を東進み唐井、原、矢部、砂、茅原、小黒崎への古道。龍王山北麓道が柴木まで伸びる |
唐井 |
2011/05/28 |
| 荒神地神碑 |
同上下見のウォーキングに偶々発見。大島地区では珍しい自然石地神碑で、しかも方形。西迫荒神社境内に在り |
迫 |
2011/05/28 |
| おこり神さま |
十字のバス停のちかくの民家の庭に鎮座、歯痛と受験に霊験あらたかなる巷の神々のひとつ。寛政11年文献あり |
十字 |
2011/10/02 |
| 皓玄逃走路 |
小黑崎にある藤井神社の廻りには皓玄たちが落ち延びたという経路に沿って傳説の小字地名が刻まれている。 |
小黒 |
2011/11/11 |
| 長濱御台場図 |
文久三年(1863)に御台場が築造となる。鴨方藩主池田政詮が天神山より当地に巡検す。西大島宿泊記録あり |
長濱 |
2012/01/20 |
| No. |
表題 Title |
内容 Contents |
| 001 |
大島の名峰「御嶽山」の裾野に点在する33西国観音霊場 |
画像みる ↓ |
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(御嶽山三十三観音)西国第三十番札所 住吉池の宝厳寺
「おおしま風土記」によると御嶽山33観音霊場創設は文化11年(1814)の創設。
岡南堂(おかなんどう)を起点に傳兵衛山の1,2番から始まり川手より野山道を通り御嶽山の東尾根から、頂上の10番観音、頂上より北
に下り西コースを通って石砂に至る。
本家三十番札所になっている寺は琵琶湖に浮かぶ竹生島に在る。御本尊は秘仏「千手千眼観世音菩薩」で、ネットでサイトに尋ねると、
『神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立
せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが
始まりで、行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻し、ご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音
像を安置した。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師なども来島、修業されたと伝えられている。』とある。
西国三十三観音霊場の巡行は平安時代に遡り、鎌倉時代に武家社会にまで広がったという。 弘法大師の88ケ所巡りもおなじ経過をたど
って江戸時代には庶民信仰レベルまで浸透・普及してゆく。
ここ大島御嶽山に祀られた三十三観音も江戸時代の成立であろうか、御嶽山を時計廻りに麓から頂上へ、そして幻虹台へ下って鳥越峠か
から麓に戻る(大島歴史研究クラブ作成資料図添付)。→ClickHere , 霊山寺明細表(同左) →ClickHere
大島八十八ケ所霊場(おおしま「風土記」より)
「文政11年(1828)に大島全域(東・中・西)にわたる88ケ所の弘法大師を祀る霊場が創設された。
発願者は、東大島(現浅口市寄島町)東鏡の五人組頭・原田小平太で龍城院の随範和尚に諮り、大里正・原田忠五郎や各村三役の賛同と
里人の協力によって、地所の提供・労力の奉仕・金銭米穀の寄附を得、自も私財を喜捨(きしゃ)して石像堂宇を建立した。
巡路は発願者の地元を発心道場として、東大島より中大島の南部を経由、西大島の西端から再び中大島の中北部を東上し、二階の土居
山を結願所(けちがんしょ)として、それぞれ四国霊場の霊砂を納めたという。
開設時は盛大な落慶・開眼供養で、関係者や里人はもちろん四国の寺僧を迎え、講組の白装束、近村老若の善男善女、稚児行列など誠に
夥しく、南無大師遍照金剛と唱誦・読経と御詠歌の清声、鈴や鉦の浄音が大島の山野に響きわたったといわれている。」
【注】 お隣の神島88ケ所は元文5年(1740)から延享元年(1744)まで5年間に完成した。大島では中・西大島は池田領鴨方支藩時代。
神島から84年後にこの隣り合った大島へ創設した動機は何だったのだろう。しかもこの14年前には御嶽山33観音霊場が創設となって
いる。西大島の地域の人にとっては寄進・喜捨・勤労奉仕が連続しタイヘンだったかもしれないが、全国的には江戸中期にあたる文化文
政の50年間は11代将軍家齊(いえなり)の治世で社会・経済も比較的安定し、庶民文化の興隆(化政文化)をみた時期とも云われてい
る風潮が地方にも伝播した現れと言えるかもしれない。
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| 002 |
四尋山(しびろやま)△228.7m |
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御嶽山
△321.1m
その頂上にある祈雨神社 |
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別称が実に多様、大島富士・御嶽富士・鳥ノ江富士・夏目山・象山・殿山・野山・ウスケなどと呼ばれる。
四尋という命名は頂上が尖っていて四尋(6~7m)の広さしかないという意味だという説がある。
市内の数ある山の中でも最も噴出火山の特色を有しているいるとも云われる。また別称が多い理由は、この山が見る場所と角度によって見える姿が多様であることを物語る。カブトガニ博物館から眺めると横に長く、象の形にみえるので象山という名が付いた。この写真は清酒「みたけづる」の大内酒造からの眺望である。
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003
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鳥越新兵衛翁頌徳碑 岡山県知事長野士郎書 |
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新兵衛勧請の稲荷神社 |
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入江の今立川河口水門跡に建つ頌徳碑 その碑文
『鳥越新兵衛成寿は寛文11年(1671)小田郡本堀村(現矢掛町大字本堀)に生まれる。大阪において尼崎新兵衛と名乗り土木請負業を営む。正徳3年(1713:42才)笠岡市横島と西大島間の入海120町歩の干拓工事を幕府に出願した。出願して13年目の享保10年(1725:54才)三月、大阪商人名田屋太郎兵衛等の援助と笠岡代官竹田善左衛門の斡旋により幕府の許可を得た。直ちに工事に着手し、新兵衛の強い精神力と信用の高い土木技術、有力な大阪商人の援助により僅か7ケ月で潮留を完了した。潮留後五年の享保15年(1730:59才)七月、遂に西大島新田34町8反29歩、入江新田15町7反、浜中(里庄町)1町8反8畝19歩、合計52町2反9畝18歩の新農地が完成した。これにより西大島新田・入江新田二ケ村が誕生した。非常な難工事で31人の犠牲者を出したと言う。
その間洪水防止のため今立川堤防1,112間を築くともに用水路として名切池、津雲池を造り、新田内に排水溝・伏樋・石樋を設置し水門二ケ所も改修し海水の侵入を防いだ。親兵衛は功績により入江新田庄屋にとり立てられ、後に近郷五ケ村の庄屋も兼ね、入江新田竹ガ端に居住し干拓の運営管理に一生を捧げた。宝暦11年(1761)9月29日91才で他界。竹ガ端墓地に葬られる。
法名「見広院精光浄進居士」(市指定史跡) 撰文 桑田昇三 平成6年10月吉日 施行協力入江共助会』
☆2011/02/02 鳥越新兵衛・入江新田関連情報
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表 題 |
摘 要 |
詳 細 |
| 2011/07/13 |
麻田藩川面代官 |
本堀村に隣接、鳥越代官 |
摂州麻田藩の飛地であった川面村(現矢掛町)の鳥越家代官所趾を訪問。 |
| 2010/05/13 |
鳥越新兵衛成寿墓 |
昭和33年4月25日市文化財 |
入江新田竹ケ端の墓所にこの墓と鳥越家の墓所があり、新兵衛の墓石は南面す |
| 2008/05/08 |
鳥越家鎮守稲荷社 |
竹ケ端の隣、元西水門あり |
入江新田干拓工事竣工の二ヶ月後、新兵衛は神夢により勧請と伝わる社。 |
| 2010/08/24 |
入江「嚴島神社」 |
六角柱五神碑あり |
祭神は「金之神」、享保九年(1724)創建。新田完工より六年前である。 |
| 2010/12/02 |
西大島金比羅宮 |
四神名の五角柱地神碑 |
上記嚴島神社と100メートル東、大島川河口に鎮座。安政五年(1858)六月 |
| 2011/02/01 |
小田・浅口郡境碑 |
今立川河口の左岸にある |
西大島新田と浜中は浅口、入江新田は小田に属しその郡境は今立川となった |
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2012/01/20 更新 |
2009/05/31 |

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