大冝村の艮神社


御祭神は大吉備津彦命

地名考

大冝村の概観:市史からの抜粋。 - - - - - - - - → Mainページへ復帰

 大毛村と書かれていた(『正保郷帳』(1644)、『寛永古図』(1624)では西浜村との間に「入海、舟渡二町」と書かれている。当時は、大冝村と西浜村の間にはまだ海が深く湾入していた。寛文元年(1661)干拓地造成に際し灌漑用水池を村内に築造した。
「皇国地誌」(明治9年(1876年)によれば、大冝村が他村と比較して目立つのはこの時期、人力車2台、小車13台を保有し笠岡市史の筆者は用之江村と同様に街村だと書いている。(比較する対極にあるのは、、、そう、茂平しかないですねぇ。茂平村は半農半漁村だと書かれてイマス(w)。)漁船は、日本形漁舟弐艘

 本村昔時ヨリ本郷ニアリ漁渚郷ニ属ス、古ヘ大下ト称ス文政四年今ノ称ニ改ム。
山 大見山 高サ三十三丈本村南方に在リ、嶺上三分シテ南ミ茂平村ニ属シ西ハ用之江ニ連リ東北本村ニ属ス、

池 字大冝池 東西七拾間、南北百二拾間 周囲六町 本村ノ南隅ニアリ田畑ノ用水トス(何故か吉濱村の欄に記述されている⇒方位調整要)

道路 濱街道 本村ノ北ノ方吉濱村界ヨリ本村字城ケ鼻ニ至る長五十七間幅弐間、曲折シテ又西用之江村界ニイタル長壱間幅幅前ニ同ジ(ママ)



☆2009/04/24 大冝道散策13:30-15:30
  この日、安藤先生の案内で大冝の羽方神社前~大橋山城~太歳神社~境内五輪塔~四ッ堂~光明真言碑~冝成社奉燈~艮宮
  ~大冝池を道順を散策。先生の旧来の地元の友だちと紹介された松浦さん・大橋さん・松浦さん、合計5名。

  みなさんから土地の知識と歴史をお教えいただき、驚きがあり、発見があり、すばらしい時間でした。
  平素はいかに盲目であるか実感、お馴染みの見慣れた景色にちりばめられた歴史的遺産からのメッセージに受信機の周波数を合わせ、発信源
  の存在を発見できた午後でした。
  先生からのいただき資料と参加されたみなさんからの聞き取り情報を元に、この大冝のページ全体を刷新しました。→その画像 ClickHere
                                 当日松浦さんより拝借した冊子「よしはま物語(抄)」 の抜粋。→その画像 ClickHere
 

    
No 表題 概 要 説 明 年代
01 太歳ださい神社と五輪塔
小字にも「太歳」が残る標高50mの南麓の谷間に太歳神社が鎮座する。太歳(たいさい)とは木星の鏡像となる仮想の
惑星で十二支の起源とされ漢代中国暦学の語。境内に小祠と狛犬が鎮座、鳥居は木製朱塗である。また集積安置さ
れた五輪塔は以前には5基あったが現在は1基減じて4基が祀られている。大橋山城主の高田一族かどうかも不明。
市の認定もなき史跡、室町か?
02 四つ堂と太子堂 寺ノ前から本谷へつづく山際沿いの小径は四つ堂の存在によって基幹道路だったことがわかる。そばに建つ太子堂と
共に江戸時代の創建であろう。寺谷池の堤との交叉する道際に光明真言塔が建ち、大日如来の真言が刻まれる。
江戸時代
か?年不明
03 冝成社の石の奉燈 大冝池に注ぐ水路を東進する交差点に大きな石灯籠が立つ。自然石を上手く使ったモダンなデザインだ。竿石も自然
石で注連縄が巻かれ、その正面には「吉備津宮」と「金毘羅宮」と刻字されている。冝成社なる団体は目下不詳。
明治十九年丙戌建立
04 大冝集会所 大冝池の東側に湖面にむかって建つ。台風被害の倒木をふんだんに使って新たに作られた集会所とは見えないモダ
ンなペンション風集会所。この湖畔で笠岡ライオンズクラブの例会も開催されたことがあったという。
平成18年建立
05 光明真言塔 大冝池の東側に湖面にむかって建つ。台風被害の倒木をふんだんに使って新たに作られた集会所とは見えないモダ
ンなペンション風集会所。この湖畔で笠岡ライオンズクラブの例会も開催されたことがあったという。
建立年代不明
06 大橋山城跡 春先に一度ひとりで訪ねたことがあるが、今回は地元の方々と同行なので情報量がちがった。詳しい説明を伺いなが
ら僅か400-500年前の記録すら残っていない現状を残念に思った。知りたいのは高田一族の活躍した時代の大冝だ。
建武年中高田正重
       
景色考

 艮神社 その場所 ⇒ Click

 
拝社地東西十七間南北六拾間面積三反四畝三歩、祭ル神吉備津彦命本村の氏神ナリ
 市史によるとこの社の創建は文化年間(1804-1818)、池のほうが遙か前に完工し、その後に社ができたのであればその間は氏神となる社は何!?
 (注) 2009/04/24 判明事項
   神社由来書によると創建年は不詳なるも寛文年間[1661-1673]の記録では神藪が四畝廿四歩あって文化三年[1806]には拝殿が造営された
   年であるとのこと。元は「丑寅宮」と称し、明治四年に「艮神社」に改称された。平成七年四月現在の氏子数は百八十四戸。
   この日同行した松浦さんのハナシでは時期は不明だがこの社は以前は国道の南に鎮座しており、その後にこの場所へ移設されたと聞いている、
   とハナシていた。
 
 境内別社の荒神社 松浦さんより聴取:今でも四年に一度、境内で荒神社への奉納神楽が行われている。
            境内には御輿庫と神楽庫の2棟あるが、神楽を演じるだけのスペースなきため、境内の土間にテントで舞台を作るという。
            以前は国道2号線の向こうにある「猿田彦神社」(個人的な祭祀場であるらしい)で神楽がおこなわれていたようだが、現在はここ
            だけ。

 境内別社「水分さま」 竜王山での雨乞い神事の催行を占う社

 境内の五角柱地神碑 by 「岡山の地神様」 written by正富博行氏


 氏の調査・考証・研究によればこの五画注地神碑の最古のものは:天明7年(1787)at加茂川町の碑だとか。以下文はこの書からの要約。
 この碑は字のとおり5角柱の型をしており岡山平野を基点に県下南部一帯に分布しているという。
 筆者も笠岡の社の参拝をはじめて、出会ったのはここが最初。いまのところ市内の社寺境内にある五角柱の発見はこの一基のみである
 (2008/05末現)
 宝暦・天明期(1751-1788)には全国的な飢饉が発生、全国で死者の数数十万人にも及んだという。これを機としてこの五角地神碑が明治に
 かけて各所県下一帯で夥しい碑が建立された。
 この地神信仰は陰陽道の五行思想もしくは修験者や法者が拠所とした密教の地・水・火・風・空の五大・五輪の思想を具現しその祭神もまた
 五柱となっている。
  天照大神(あまてらすおおみかみ) 5穀の祖神
  倉稲魂命(うかのみたまのみこと)  食物の神様、特に稲の霊
  埴安媛命(はにやすひめのみこと) 土の神様
  大己貴命(おおなむちのみこと)   国土造成の神、農耕の神
  少彦名命(すくなひこなのみこと)  国土造成と農耕神で大己貴命と一対をなす神
 祭日について
  隣国の中国では、古来土地の神は「社」と呼ばれていた。
  その神を祀る日を「社日」という。社日は春分と秋分の日にもっともちかい戌の日とした。
  社日には春社と秋社とがあり、春には食物の生育を祈り秋には収穫にたいする感謝し社日には土いじりが禁止されており農民は田畑にでなかった。

No. 表題 Title   内容 Contents
001  艮神社  画像みる    ↓
     
大池より石段をのぼる

大冝池


拝殿と本殿

境内別社
(荒神社)

下り参道の情景
 
 艮神社由来沿革(安藤先生からの資料)
  『艮神社は元「丑寅宮」と称し備津彦命を祭神として現在地に祀らる。勧請の年は不詳であるが神寂びた神域を見ても往古より地方民の尊信
  を集めておったことに疑う余地はない。
  寛文年間(1661-63)の記録によると神藪として四畝二十四歩があり、現在の神殿は文化三年(1806)に造営せられたものである。
  明治四年に丑寅宮を艮神社と改称する。昭和六年に村社となる。昭和二十一年七月十日に宗教法人として届け出認可を受く。
  現在氏子数百八十四戸あり(準崇敬者約八十戸) 平成七年四月現在
  神社所有地: 境内地 宮の峠 2筆 11,596m2, 山林 宮の峠 3,339m2 馬場 399m2 原野  才の峠 23m2 合計:15,357 m2(4,645坪)

 ?びっくり扁額?
  この日も大冝池の石鳥居と狛犬が鎮座する石段を上って正面から境内に参拝した。
  この社の特徴は1-注連柱に朱色が塗られていること。 2-石段をのぼって拝殿前までは自然道の参道になっていること(石段ナシ)。
  さらに、これは安藤先生からの指摘事項であるが、3-扁額には艮や丑寅ではなく「壬寅宮」と彫られていること。
  「うしとら」ならぬ「みずのえとら」(orじんいん)と明記されている理由は如何に!? ------→ その画像 ClickHere

002  龍王社 別名 水分さま(みくまり)   画像みる    ↓


 雨乞い神事

  正面祠の下の石垣の内側に雨乞い神事を決める水瓶が納めされている。納所には四角な木製の上蓋がしてあって、日照りがつ
  づくとその水瓶の蓋を開けて壺のなかの水の状態を見る。 ------→ その画像 ClickHere
  この水の減り具合をみて、雨乞い神事が行われる。村をあげて全員が松葉の千把焚き(せんばだき)、千貫焚きと言われみんなが
  山の頂上まで薪束を背負って運び、祈りといっしょに焚き続けたという。
  右にある自然石は国道南の山にあったのを切り出して、この境内に運ばれた。通常は注連縄が巻かれる御神体で、石の上に見え
  函は賽銭箱。隣り合って素焼きの小祠があり、中には同じく素焼きのご神体が祀られていたが、いつの頃か失せていた。
  (松浦さん談)
 

003
 大冝艮宮の境内五角地神柱 画像みる    ↓

その建姿

 天照大神(あまてらすおおみかみ):⇒北面に向いている。

五穀豊穣の地神が正面になっている。⇒右廻りに埴山姫命・少彦名命・大己貴命・倉稲魂命

その建姿の写真から分かるように、拝殿の左隅、石垣にわずかな空間に鎮座する。
ご祭神が吉備津彦命だから東方からの信仰文化(五角地神を祀るという生活習慣という意味)が同時に入ってきたとは考えられない位置関係
だと思う。
もっともこの五角地神柱を見るのははじめてのことだから定かではないが、周辺の吉浜・用之江・茂平・生江浜にはない信仰文化が根付いてい
たことが分かる(祭祀をしようという共通の意識をもった吉備集団からこの地へ移動・定住した人がいる、と考えたほうが合理的かと。。。)
岡山平野から倉敷を経て西に広がりを示すこの五角柱地神碑はここ大冝艮神社が西の果てかもしれない。
(笠岡市内で五角柱地神碑を確認できている場所は、
 北川の甲弩神社境内・園井の諏訪神社境内・笠岡殿川町の隅田川南の道路脇・井戸公園入り口の計4ケ所である。2009/04/24現在)

☆2009/08/03 五角柱地神碑の西への分布
  
「備陽史探訪」第77号」 出内博都氏の「地神塔いろいろ」を読んでいて発見。
 私の住居地、福山市千田町には少し変わった「ジジンサマ」が在ることがわかった。場所は千田町西の丸池の堤に金毘羅塔や天神さんと共に
 並んでいる。五角柱の神名は①天照皇大神宮②少毘古那命神③笹倉尊神④土祖神⑤虬魂神(虬は虫+也)と彫られている。


 五角柱地神碑の近隣分布 ⇒ ClickHere
2012/02/15更新 2009/08/03