なつかしの国 石見 島根県大田市
「いも代官ウォーク」友好都市締結笠岡市20周年記念ツアー(勉強しよう会)

☆2010/12/22 ツアー後日談 ~~~~~~ * ~~~~~~~ * ~~~~
今日の午後、自宅に郵便で封書が届いた。差出人は「笠岡市協働のまちづくり課」、今回のツアー企画と催行の部署からである。
中味が何かと開封してみると、H22.12.20付 いも代官ウォーク参加者のみなさまへ 参加のお礼と記念写真およびCD-Rの送付に
ついて、という課長さんの文書と大田市の広報No.79号11.18 に掲載された記事のコピー、山陰中央新報・島根日日新聞・中国
新聞に掲載された報道記事のコピー、さらに大田代官所前で撮影していただいた集合写真2枚とjpg画像700余枚が入ったCDが1枚。
実にびっくり、行政とのコンタクト自体に馴染みがなかったせいかここまでのアフターケアに感謝する次第です。 謝謝!
CD収納の写真は笠岡市と大田市の職員の方々がそれぞれのカメラで撮られたショットのすべて揃っている様子。圧巻です。
<「石見銀山遺跡とその文化的景観」(Iwami Ginzan Silver Mine and its Cultural Landscape)散策の景勝地>
1-世界遺産登録理由 (UNESCO has inscribeed on the list of The Protection of the WorldCultural
and Natural HERITAGE on 2 July 2007)
(1) 石見銀山の銀が世界の経済や文化の交流に大きな影響を与えた。
(2) 銀を生産していた時の坑道や工房の跡が遺跡としてよく残っている。
(3) 銀を運んだ街道や銀を積み出した港も残り、さらに鉱山町や港町には今でも人々が住み続けている。
2-日本の世界遺産 石見銀山は14番目の認定となる。
知床、白神山地、日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地跡の仏教建造物
姫路城、紀伊山地の霊場と参詣道、広島原爆ドーム、宮島の嚴島神社、屋久島、琉球王国のグスクおよび関連遺跡
3-観光ゾーン 大田市刊行のパンフレットはコンパクトにわかりやすく、スマートである。(表紙写真は下段に掲載)
(1) 石見銀山遺跡地区・・・間歩の数は600を越えるという。この地域が銀山地区と石銀地区(仙ノ山頂上の遺跡群)、さらに集落のあった
町並地区がある。
(2) 温泉津・・・温泉であり銀の積み出し港(毛利支配後開発されたルート)、銀山開発当時には鞆ケ浦から積み出しが行われていた。
(3) 仁摩・・・・・琴ヶ浜海岸、鳴り砂、サンドミュージアム、湯迫温泉、銀山輸送路の鞆ケ浦はこのゾーンにはいる。
(4) 三瓶山・・・海抜1,126m、主峰男三瓶と六ヶ嶺が連なる環状連山。登山・スキー・温泉・放牧・紅葉狩りなどフルシーズンで市民の憩い
の場となっている。
4-大田市勢 大田市HPを参照 → http://www.city.ohda.lg.jp/
面積 436.11Km2 人口(H17年現在) 40,703人 われています。江戸時代から大正末期まで採掘されており、昭和初
5-友好都市縁組締結 平成2年4月14日、かさおか食と緑の博覧会 笠岡干拓会場にて両市の市長が代官に扮して調印式をおこなった。⇒ photo here
☆ 笠岡町開業医 宮太柱(泰仲:みやたいちゅう)のこと。
備中国小田郡笠岡町医師 宮太立(みやたいりゅう)の子、大木主水こと宮太柱は備後の医師の家の十代目として備後国安那郡西中条村深水に生まれる。関藤藤陰とは従兄弟にあたる。その祖は南北朝時代に後醍醐天皇の呼び掛けにに呼応して挙兵した備後吉備津神社の桜山茲俊(宮勝信)と伝えられる。父太立は文政のはじめころ長崎に留学しオランダ医学を学んだ。太柱は父から洋学を学び28才の安政二年(1855)から安政五年(1858)十月までの三年間、大森銀山に招かれて医師として勤務した。
その後、江戸麹町甲斐坂で開業していた父を追って江戸に上る。明治二年正月五日、新政府参議横井小楠暗殺事件で連座捕縛され終身流罪の判決を受けた。明治三年十二月八日、江戸永代橋の船着き場から小舟に乗せられ8日をかけて三宅島阿古村に渡る。当時島には疫病が流行っており、治療に当たるも自らも羅病し八日後の十二月二十八日に亡くなった。
大森代官屋代増之助支配の安政二年(1855)、宮太柱がに銀山に招かれ勤務したことは今なお多くの人々の記憶に残っている。この話を銀山ガイドさんから伺った。
太柱は安政二年(1855)十月まで三年かかって鉱山労働者特有の呼吸器疾患であった気絶(けだえ)あるいは「よろけ」に取り組んだ。その原因は、坑内で灯りとして使うカンテラから出る煙や、鉱石を採掘するときに出る石の粉などを呼吸の際に吸い込み、肺に蓄積する職業病。坑内作業に従事する銀堀などは、30歳になると長寿のお祝いをしたといわれるほど短命だった。
太柱の調査報告書では、①窒素瓦斯、②炭酸瓦斯、③水素瓦斯、④鉱毒、⑤砒毒、⑥石毒、⑦戴光不足、⑧摂生失度の8項目が取り上げられ、「濟生卑言」を著した。「薬蒸気法」と「福面」(フクメン)などを開発して実際に使用し、効果があったという。この医療技術は生野・半田・足尾・佐渡などの鉱山へも代官を通じて絵図などが送られ、各地で取り入れられた。
銀山ガイドさん紹介書籍⇒ 『白墓の声』(サブタイトル:横井小楠暗殺事件の深層) 著者は笠岡在住の作家、栗谷川虹(くりやがわこう)氏 新人物往来社H16年刊
白墓(はくぼ・しらばか)とは墓石に文字も何も刻していない墓石だけの墓のこと。笠岡郷土史研究家岩山保志(いわやまやすし)氏が神辺町西中条の旧宮屋敷跡に発見 したという。著者栗谷川氏は著作の中で宮太柱の研究を岩山氏から教えてもらった謝辞とともに墓石をくまなく探した岩山氏のご努力を称えておられる。(2010/10/30記)
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石見国大田市観光マップ |
写真Pixes |
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笠岡ICから山陽自動車道を東へ、岡山JCTから北房~米子経由で出雲へ走る |
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12/22
主催者からの頂きショット
1-出発
2-大山PA
3-交流
4-三瓶山
5-帰笠 |
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ツアー旅程: 2010/10/16(土) 07:00 笠岡を出発~笠岡ICへ by Ikasa Bus 走行1万Kmサラピン車で乗り心地よく安全運転の快適なバスツアーでした。
高梁SA~大山SAで休息。(写真はこの大山の勇姿です)
米子IC~山陰道~出雲IC~ 昼食は「道の駅 キララ多岐」(写真は多岐からの日本海の波頭、瀬戸の海とはひと味ちがった景色です。↑)
12:30~ 石見銀山公園着 =13:30~ いも代官ウォーク開始 途中、町並み交流センターにて両市民懇親セレモニー ~ さんべ荘泊
2010/10/17(日)この日も晴天。
08:00 宿所、さんべ荘出発~ 09:00 石見銀山世界遺産センターへ。館内見学の後、銀山バスにて銀山大久保間歩限定ツアーへ
12:30 帰路へのみちゆき~ 昼食は「道の駅 ロード銀山」(昼食に箱寿司と出雲そば♪)~ 13:30~一般道を尾道ICまで走行~ 19:30頃 笠岡着。
銀輸送ルート:(2010/11/09 Mさんからメールで情報をいただいた)
銀山道のルートはなんとうりもあり、
石見銀山ーー銀山街道(大森~赤名~布野~三好~吉舎~甲山~尾道)舟積
( ” ~庄原~府中~新市~福山)舟積
( ” ” ~神辺~高屋~笠岡)舟積 ⇒ 笠岡吉浜に小字「銀山」あり ClickHere
( ” ~神辺~高屋~七日市 ~矢掛)陸路
あるいは三次から庄原~石見道~福山ーーーーーーーーーー
~備中街道~西域道~新市ーーーーー
~東城道~神辺ーーーーー
三次から石州銀山往環 ~尾道ーーーーーーーーー
等一本の道ではなく又、陸路、船便,等いくとうりもの方法で送られていたようです。 又、ご指摘のように高屋から吉浜へとうり船便で江戸幕府
に送られていたのでしょう。 又、現太田市の鞆ケ浦、や沖泊から船で搬出されていたとの記録もあるようです。
石州大森銀山と尾道展:(同じ頃、Kさんからも教えられた情報/(2005年6月18日(土))by半田堅二さん)
江戸時代元禄年間(1688~1704)10月、銀奉行、後藤覚右衛門が尾道から大森銀山に向かい、銀1000貫を馬49頭に積んで尾道に運び、播州室津に向け出港した詳細な記述。 陣屋笠岡屋(現アクセ)に宿泊した後藤銀奉行は人足11人と馬9頭で尾道を発ち途中、吉舎、赤名で宿泊、2泊3日で大森銀山に到着。
灰吹銀753貫、丁銀235貫、計988貫と約1000貫を馬49頭を使って32人が警護しながら3泊4日で尾道まで運搬した。ちなみに灰吹銀753貫(2・8トン)は現在の値打ちで30億円相当。 再び陣屋笠岡屋に宿泊、銀は蔵に入れ鍵をかけ32人が周辺を寝ずの番、民家には行燈を出させて、不審者が出入りしないように警戒体制を敷き、翌朝、4隻の船に銀を積み込み、播州室津に出港した。
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石見銀山町並み地区(大田市配布の観光ガイド)
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画像みる ↓ |
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町並ショット
出雲蕎麦屋朝日亭さん
店主応接の雑貨屋さん
銘菓げたのは菓子鋪
有馬光栄堂さん
床屋さん
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大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区(旧裁判所の建物の前の案内板より)
当初選定年月日 昭和六十二十月五日 文部省告示 第百三十一号 追加選定年月日 平成十九年十二月四日 文部科学省告示 第百四十一号
選定地区の面積 大森町の一部 約一六二・七ヘクタール
この町並みは、人権尊重と平和をめざすユネスコの世界遺産に登録された世界遺産石見銀山遺跡の中心部にあり、十六世紀以後、銀の生産及びこれ
に関連する仕事に携わった人々の住居地として発展した。(認証年月日 2007/07/02)
仙ノ山の西麓に位置する銀山区域は、十六世紀中には相当な規模に発展し、十七世紀初頭の絵図には谷筋の道路に沿って町家が建並ぶ繁華な町として
描かれている。江戸幕府による石見銀山の直接支配がはじまると、大森区域に陣屋(代官所)が設置され、江戸時代を通じて石見銀山とその周辺百五十余
村を支配した。近代以降も郡役所がおかれるなど政治経済の中心であった。
現在、銀山区域は伝統的建造物が道沿いに点在しており、旧の地割りが良く残り、銀生産の遺構が山裾に所在する。大森区域は、銀山附役人町年寄の
旧宅、 商家や郷宿の町家などが混在して家並みが形成され、周囲の背後の山裾には寺院や神社が点在する。
平成二十二年三月設置 大田教育委員会
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銀山地区散策(写真は本谷地区にある最大規模の大久保間歩の入り口付近) |
画像みる ↓ |
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銀山の坑道見学は冬場の12~2月の間は入場禁止となる。
積雪による道路事情によるものだろうが、坑道内へ冬眠に訪れるコウモリを保護することも理由のひとつだと説明があった。
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その蝙蝠
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本谷地区と番所跡の「案内板」
本谷地区(Hondani Area)
石見銀山の本谷地区は、品質の高い銀鉱脈をもつ福石(ふくいし)鉱床があることから、戦国時代から江戸時代を通じて本格的な開発が行われた地区です。
本間歩(石見銀山では坑道を「間歩」まぶ、と呼ぶ)から石銀(いしがね)地区にかけては露頭堀(ろとうぼり)跡が集中し、谷一帯には坑道の坑口が分布しています。
また銀の精錬や生活のための建物があったと考えられる平坦地が、山頂付近の石銀地区から本谷の谷筋に連続して広がっています。
江戸時代の初めの大増産を生みだした釜屋間歩と周辺の遺跡群、明治時代まで採掘が行われた大久保間歩などが位置しています。
本谷口番所跡
江戸時代の石見銀山には、初め周囲を廻る柵が設けられ、寛永18年(1641)からは松を植えた垣松(かきまつ)によって鉱山の内外が区分されていました。
門や番所の構造は不明ですが、絵図には間口が三間(約5.8m)、奥行2間(約3.9m)ほどの平屋の建物が描かれています。
銀山柵内(さくのうち)には下図のとおり10ケ所の番所が設けられ出入りが厳しく監視されていました。この本谷口の番所は右奥の平坦地に設けられたと推定
されます。
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2011/12/25更新 |
2010/10/25 |

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